飲んだら書く

@con

渋沢栄一知っとるけ

書店で渋沢栄一について書かれた本が平積みになっているのを見かけた。私はちゃらんぽらんな生活を送っているが、それでも渋沢栄一が次の新しい紙幣の肖像に選ばれたことぐらいは知っている。


しかしながら、今回こうして選ばれるまでは、不勉強なことに私は渋沢栄一という人を知らなかった。私の周りの人に適当に聞いたところ、まあだいたい、二割か三割ぐらいの人が渋沢栄一を以前から知っていたという感じだった。日本の近代史とかあのへんが好きな人はわりと知っているようだった。


それでこれは完全にうろおぼえで書くので、私の記述がまちがってることに気づいた人は「アホがでたらめ書いてるな」と思って流していただきたいけど、浅田次郎のエッセイで二千円札についての話があった。


浅田次郎が取材旅行かサイン会か講演会か何かの旅程において、同行していた出版社の編集者とさまざま雑談をしている中で、「現在の二千円札は沖縄の守礼門を用いており、沖縄ではわりと使われているが全国ではあまり使われていない。それならいっそのこと二千円札は各都道府県ゆかりの事物や偉人を載せてはどうか」という話になったそうである。


かくして、浅田次郎と編集者は北海道はだれそれ、青森県はかれそれ、というような話で盛り上がったそうである。そして、「埼玉県は渋沢栄一」という一文が書いてあったような気がするのである。このエッセイは現在の紙幣のデザインが発表されるよりもだいぶ前に書かれた話だったはずだから、私が何か勘違いか思い違いをしていなければ浅田次郎か編集者かの先見の明は見事というよりほかない。


というようなことで思ったのは、渋沢栄一というのは世間的に滅茶苦茶有名とまではいわないけど、知る人ぞ知るというよりはもうちょっと知られているぐらいの知名度なのではないかということである。むかし、みうらじゅんが『日本崖っぷち大賞』という連載で、世間的に常識なものとマニアなものとの境界にあるもの、マニアの谷への崖っぷちのふちにいるものをさぐるという企画をやっていた。それによればたとえばウルトラ怪獣でいえばダダがそうだそうである(といっても、私の知り合いの中でダダなんて知らなそうな人間はいくらでも思いつくが)。日本近代史の偉人で常識と物知りとのはざまにある崖っぷちを探るならば、渋沢栄一はわりといい線いっているのかもしれない。


私は渋沢栄一は知らなかったが、浅田次郎と編集者の各都道府県の偉人として引き合いに出された人物の中で、和歌山県代表の南方熊楠は知っていた。「だれそれ?」と思う人もいるだろうが、「てんぎゃんの主人公」だといえば、まあまあいい歳こいてる人はピンとくるのではないだろうか。『てんぎゃん』は少年ジャンプで連載されたので意外に多くの人間の記憶に残っているらしく、私の周りの同世代の人間は「てんぎゃんの主人公」というヒントを伴えば六割か七割ぐらいは知っていた。


私も南方熊楠を初めて知ったのは『てんぎゃん』だったが、読んだのがだいぶ子供のときであったし、間もなくそんな名前はすっかり忘れていた。ところが、それなりに歳を食ってから、あるとき和歌山県出身の人と話す機会があり、話の流れで「南方先生は大変な偉人である」ということをいわれて、南方先生を思い出すに至ったわけである。


南方熊楠とはどんな人物か。いまの世の中は便利なので気になった人はWikipediaを見れば数分で半可通を気取れるので、ここではくだくだしいことは書かない。理工学系の人向けの手っ取り早い偉大さを説明するならば、「日本人で初めてNatureに論文が掲載された人」であり、「単著論文のNatureへの掲載数史上一位」で十分すぎるのではないだろうか。


知りたがりの人間ならばそこから更にもう一歩踏み込んで、「南方熊楠が最初にNatureに書いた論文とはなんだろうか」と思うかもしれない。これは一応はWikipediaに“科学雑誌『ネイチャー』誌上での星座に関する質問に答えた「東洋の星座」を発表した”と書かれているけれども、もうちょっと具体的なことを知りたいと思うのが人情というものだろう。


そこでNatureのWebサイトで調べてみると以下のような論文であるらしい。


K. Minakata, "The Constellations of the Far East," Nature, vol.48, pp.541-543, 1893.


でもってどんな内容かというと、この論文自体がほかの論文で呈された疑問に対する回答となっており、その疑問を呈している論文を調べる気力までは湧かなかったことと、そもそも私の英語力が壊滅的に怪しいために、はなはだうろんな理解になるのだけれども、たぶんこんな感じの話のような気がする。


Q. 星座って文化によって違うんじゃないの?

A. 例えば中国とかこうなっとるで。


いまの時代なら、Googleで「近代 中国 星座」とか「江戸時代 星座」で検索すればすぐに関係するページが出てくるけれども、いうまでもなく当時はそんなものはない。私財と根性で蒐集した文献と、自らの記憶と知能だけを使って、Nature誌上で敢然と論じたのが南方先生なのである。私も今回ちゃんと調べて初めて知った。


私がいま書いてるこの文書は南方先生が書いた学術論文のようなきちんとしたものではなくトンチキなものであるので、引き続きうろおぼえであやふやなことを書くと、『てんぎゃん』に記載されていた南方先生のエピソードでこういうのがあった(『てんぎゃん』の単行本を持ってる人は「ハハ、アホがまたうそ書いとる」と思ってください)。


当時の小学校だか中学校だかは、卒業試験で規定の点数を取れなければ卒業できなかったそうである。数字はよくおぼえていないが、十科目の各百点満点で二百点以上取るとかそういう話だったと思う。これに対して「てんぎゃん」こと南方先生は最初の八科目をそもそも受験しないのである。すわ落第かと思いきや、南方少年、最後の二科目(「小論文」とか「国語」とかそういう感じの科目だったはず)だけ受験、見事両科目で満点を取り、卒業したそうである。


これについて同級生から「なんであんな無茶したのか」と問われると、南方少年、「だって満点取れるってわかってたし」と事もなげに答えたそうであるから尋常ではない。私のような凡人は天才のこういうエピソードを聞くとどうしてもうれしくなってしまう。


南方先生の上記のエピソードに似た話として高木貞治の話がある。高木貞治も知名度としては渋沢栄一といい勝負だと思うがどうだろうか。もしかしたら浅田次郎と編集者が岐阜県代表で挙げていたかもしれない。


高木貞治にまつわる話といえば、理工学系の大学生が入学して間もなく高木貞治著の『解析学概論』を図書館でうかつに手に取り、その99.99パーセントかそれ以上はなんの収穫もなく脱落するというのが一つの風物詩である(あるいは『ファインマン物理学』というのも一つのパターンである)。


高木先生の生涯は『てんぎゃん』のように書かれていないためさらに話はあやしくなってくるが、私の際限なくあやしげなソース不明の記憶によれば、高木先生は物心ついたときから算術、数学と名のつく教科で満点以外を取ったことがないそうなのである。それどころか、大学の数学の定期試験において「自明」と書いただけで正解になったとさえいわれている。常人がこんなことをまねると大やけど必至だが、それほどまでに高木先生と大学の数学教師とのあいだにお互いを認め合う強固な信頼関係が確立されていたわけである。


さて、高木先生、そのたぐいまれな才能を見込まれて当時の数学の最先端を行くヒルベルトのもとで学ぶことになった。ヒルベルトも、まあ、なんか名前ぐらいは聞いたことあるな、という人物ではなかろうか。そういう歴史上の人物のもとに、高木先生は赴いたのである。


高木先生がヒルベルトのところに行ったのは1900年ぐらいだそうで、日清戦争のあととはいえ、まだまだ日本は欧州から見れば極東の田舎扱いだったと思われる。そこでヒルベルトは高木先生との対面ハナにこんなことを聞いてきたそうである。


「代数関数はなんで決まるか知っとるけ」


私にはこの質問の意味はさっぱりわからないが、世の数学科の学生ならば何か思うところがあるのだろう。


ところが高木先生はヒルベルト御大の質問に対して何もいわずにいた。ヒルベルト御大、内心で「日本の数学なんて所詮こんなもんよ」と思ったかどうかはわからないが、


「リーマン面で決まるんだ(そんなこともわからんのかよボケが)」


といいはなったそうである。Wikipediaで写真を見てもらえばわかると思うが、ヒルベルトというのはなかなか眼光鋭い気難しそうなおじさんである。数学者でいえば例えばエルデシュに見つめられてもそれほど怖くないが、ヒルベルトに睨まれたら数学者の道は閉ざして詰将棋作家などに走りたくなっても不思議ではない。


しかし高木先生は平然と返したそうである。


「ええっ、天下のヒルベルト大先生がわざわざそんな初歩的なことを聞いてくるから何かものすごい深遠なことがあるのかと思って一生懸命考えてたけど、そんなしょうもない回答でよかったんですか!?」


上記のセリフは私の想像だけれども、とまれなんかそんなやりとりを経て、高木先生はヒルベルトのもとで当時の最先端の数学を学ぶことになった。やはり天才は天才を知るわけである。


高木貞治は大学生全体を母集団とするとそれほど知名度は高くならないかもしれないけど、「フェルマーの最終定理」なら大学生全体でも知名度は八割ぐらいはいくのではないだろうか。そんでもって、もうちょっと知りたがりの人間ならばフェルマーの最終定理についてこんなこともいうかもしれない。


「フェルマーの最終定理の証明には谷山-志村予想という日本人の貢献があったのだ」


フェルマーの最終定理が証明に至るまでの話は書籍にもなっているので、興味がある人はそれを読んだ方がきちんとした話がわかるとして、谷山-志村予想というのは名前のとおり谷山先生と志村先生がかかわった数学上の業績である。


志村先生は最近まで生きていた人物であるから、探せば志村先生に会ったことがあるどころか教え子だっていまでも日本中にいるはずである。その志村先生、若かりしころに高木先生に出会ったことがあるらしいが、それについて曰く、「高木貞治もたいしたことない」とこき下ろしているそうである。とだけ書くと志村先生が驕慢な人間に聞こえてしまうかもしれないので補足しておくと、志村先生が高木先生にいろいろ質問してもあまりピンとした答えが返ってこなかったとか、そういう経緯の末の話だそうである。天才の考えることは凡人には理解しがたいのである。


天才の考えることは凡人には理解しがたい話として思い出すことに、将棋棋士の加藤一二三が師匠を逆破門したエピソードがある。これは将棋棋士の故河口八段がエッセイでも言及している。


加藤一二三の知名度はかなり高い。ぜんぜん崖っぷちではない。あるとき尋ねてみたら、ダダを知らない人でも知っていた。いまはネットでかんたんに情報が手に入るので知ってる人は知ってるだろうけど、加藤先生は最初の師匠を逆破門した。逆破門とはなんぞやと思う人に説明すると、将棋界では棋士を目指すために師匠を定める必要がある。とはいえ、噺家の師弟制度などとは異なり、将棋界の師弟制度は千差万別で、住み込みの内弟子で私生活までみっちりやるところもあれば、形式的な関係に終始するところもある。


こういった師弟関係について、師匠が不肖の弟子に対して「破門」をいいわたすことはあり得ても、弟子の方から師匠に失格の烙印を押してくるというのは通常は考えられないことである。凡人からすれば、とんでもない大逆であり、道理に反するように感じられる。


加藤先生の場合、最初は南口九段を師匠としていた。仲睦まじい師弟関係に見えたという証言もあるといわれている。ところが、南口九段の死後、加藤先生は「南口門下をやめて剱持門下になる」と宣言して一方的に(相手は故人だし)実行に移した。一連の事態について、加藤先生は多くを語らないため、いろいろな憶測はあれど真相は不明なままである。おそらく墓場まで持っていくつもりであろう。しかしともかく、加藤先生がくだんの行動を取ったことについて、当時の棋士たちは、「天才のやることはわからん」と評したそうである。


数学者の話にまた戻ると、岡潔という数学者がいる。無理矢理将棋とつなげるならば、将棋棋士の芹沢九段がかつて岡先生の随筆を読んで天啓を得たことがあるそうである。岡先生、学会でだれかの発表を聞いて「もっと抽象的に話してください」といったとかなんとか。やはり凡人には理解及ばざるところがある。


そんな岡先生曰く、「数学は情緒」だそうである。数学は論理だとか答えが一つしかないとか冷血だとか、そんなことは小人のケチな考えなのかもしれない。

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