君の唇を食べたら

@3627miko

君の唇を食べたら

「私が死んだら、遺骨は佳君に預かってもらいたいな。」

唐突に縁起でも無い話をされて、思わず読んでいたハードカバーの本が手から滑り落ちた。病床の夏海に視線をやった。僕がいつもどおり本を読んでいる間にぽっくり昇天してしまうような気がしたから。本を拾い、見ると子どものようににへらと笑いこちらを見ている。笑えない冗談だ。夏海の余命はとっくに過ぎているのだから。

「さすがにそんな重責、僕なんかが背負えないよ。おばさんが引き取るだろ、きっと。」

「お母さん、私が死んだら後追ってきそうなんだもん、私の遺骨毎日見てたらなおさら。」

否定は出来ない。おばさんのヒステリックさは、おばさんが夏海の余命を知った時の様子を思い出せばよく分かる。

「だとしても、そういうのは親族が引き取るべきだろ。幼なじみとはいえ、僕なんかじゃ。」

「いけずぅ。」

そこで会話は途切れた。多分「いけず」という言葉を最近知ったのだろう。微妙に使うタイミングが間違っている。夏海らしいといえばそれまでだが。

蝉の絶叫が病室の窓を透過して聞こえる。隣接する小学校の校庭からは子どもの笑い声や泣き声が絶え間なく響いている。それなのに病室内は悲しくなるほど静かだ。会話は途切れ途切れで、手持ち無沙汰になり本まで読む始末だ。幼なじみの夏海とすらまともに会話できないなんて、僕はとことん社会性が欠如している。もうかれこれ2時間は経っている。この2時間のうちに彼女が死んでしまったとしても何ら不思議ではないのに。貴重な2時間を僕なんかのつまらない会話に付き合わせてしまったことに申し訳なさすら感じていた。

「ねえ、何読んでるの。」

僕が読んでいた本をひょいと奪われた。夏海がその本の厚さを見るやいなや、苦虫をかみつぶしたように眉をひそめた。

「うへえ、よくこんな厚い本読めるね、頭痛くならない?」

「高校の図書室なんてこんな本ばっかだよ。特段厚いわけではないし、頭も痛くならない。」

そう言い終えてから、五秒前の自分を殴りたくなった。彼女は2年以上入院しているのに。僕の悪いところだ。

「ふうん。なんか馬鹿にされたような気分だけど、まあいいや。」

あっけらかんとしているが、一瞬彼女の表情が曇ったのを見逃さなかった。僕はこんな性格だからまともな友達が一人しかできないんだろう。その友達も、友達のまま関係が止まり近いうちに天に召されるわけなのだが。

「どんなお話なの、これ。」

ページをめくりながら彼女はそう聞いてきた。いつも見舞いに来て僕が本を読んでいると彼女は担当医師への愚痴ばかりこぼしているのにこんなことは初めてだった。彼女でなくたって他人に本の内容について聞かれるのは初めてだ。

「昔スコットランドにソニー・ビーンっていう殺人鬼がいてさ、人を殺してはその肉を食べるんだ。カニバリズムってやつ。ソニー・ビーンの猟奇的な一生を描いたノンフィクション小説だよ。」

思わず早口で語ってしまい、おそるおそる夏海の表情を覗く。すると思いの外いきいきとした表情だった。

「へえ、なんかおもしろそうね。」

「…貸そうか?」

彼女は逡巡した後、申し訳なさそうにして本を返した。

「ううん、大丈夫。ありがとね、せっかく貸そうとしてくれたのに。」

やけに素直な態度だ。夏海らしくない。読まないのなら、読むの面倒、なんて悪態をつく

ものだと思ったから、少し拍子抜けだ。

 なんか眠くなってきた、そう言って夏海は口を大きく開けて欠伸をした。いや、本当に興味が無いだけか。

「それ結末はどうなるの?」

「…ネタバレするのは抵抗があるんだけどな。」

「いいじゃん、どうせ読まないんだし。」

ぼそりと、読んでる時間無いし、と付け加えた。僕はなんて無神経なことを聞いてしまったんだろう。こんな自分がとことん嫌いになる。

「若くして胃癌に冒されて、あっさり死ぬ。猟奇的な話なのに死ぬまでが簡素で、そこがかえってうけてるんだけどな。」

「何それ、私みたい。」

夏海はけらけらと笑った。反応に困って、口を噤んだ。夏海はそれに気付くと再び笑い出

し僕の肩を叩いた。

「だんまりしないでよ、すべったみたいじゃん。ちょっとした余命ジョークだって。」

「そりゃあ新しいタイプのジョークだな。」

「でしょ。幸せの少ない人生だったからね、死ぬ時くらいは佳君の笑ってる顔見たくて。」

縁起でもないことを平気で言う夏海には降参だ。まるで死ぬことを心待ちにしている様だ。

窓から差し込む陽の光はいつの間にかピンク色に変わっていた。夏海は昼でも夜でもない空をじっと見つめている。

「ソニーはきっと、自分が癌になることを知ってたんじゃないかな。ほら、同物同治って言うじゃん、自分の悪いところと同じ部位を食べると病気が治るっていう。」

窓を見たまま夏海はそう言った。

「確かにそういう解釈も出来るね。だとしたらこの小説は随分悲壮な話だ。」

夏海の横顔は当然ながらほっそりとしていた。中学までは運動を好んで活発だった夏海が、今はまるでその影はない。本当に夏海はもうすぐ死ぬのだ。抗いようのない事実に胸が締めつけられる。

「佳君はどう思う?」

「…何が?」

「ソニーがカニバリストだった理由。」

「僕なんかの考え聞いたって何も面白くないと思うよ。そんなに本に詳しい訳でも無いし。」

不意に夏海はこちらに向き直った。それを見て俺は目を疑った。彼女はこの世の終わりのように悲哀に満ちた表情をしていたから。なんでそんな顔をするんだ。僕が狼狽していると、夏海はいきなり僕の肩を掴み力いっぱい抱き寄せた。病人とは思えないその腕力にバランスを崩し、力なく彼女を抱きしめてしまった。

突然のことに訳が分からなかった。ただ、悲しいほど細く柔らかい彼女の身体の感触とシャンプーのふわりとした蠱惑的な香りだけはしっかりと感じられた。

「僕なんか、なんて言わないでよ。佳君、いつもそう。」

その声は掠れていた。荒い呼吸が耳を擽った。夏海は僕を強く抱きしめたまま、天使のように囁いた。

「佳君はすごいよ、優しいよ。毎日お見舞いきてくれるんだもん。佳君の幼なじみで本当に良かった。私ずっと尊敬してるから。きっとこれから沢山友達とか出来るよ。」

なんで過去形で言うんだ。まだ、今すぐ死ぬというわけでもないのに。

「彼女だって、きっと。」

嫌だ。彼女なんて欲しくない。僕が想っているのはこれまでもこれからもずっと夏海だ。

「いらないよ、彼女なんて。この先ずっと。」

「どうして?」

「…夏海以上の人をこれから先の人生で見つけられる気がしない。」

冷房は壊れているのだろうか。体育の授業なんかよりずっと暑い。心臓が肋骨の奥で暴れている。夏海は、そっかあ、と僕の今世紀最大の勇気に見合わない簡素な言葉だけを吐いた。それに少し腹を立てていると夏海は俺の両頬に手を当て自分の顔に近づけた。お互いの鼻頭が触れあい、夏海の荒く甘い吐息がすぐ近くで感じられた。十七年間生きてきたなかで女子と最接近している。

「さっきの質問、変えてもいい?」

「どうぞ。」

「私も、佳君を食べたら病気治るかな?」

僕は今すぐにでも泣きそうだった。いや、実際もう泣いているかもしれない。こんな十七歳の女の子が死を心待ちにしているはずが無い。精神が強いはずがない。これまでの贖罪もかねて僕は夏海に心ゆくまで食べられたかった。生きて欲しかった。例えば右手一本くらいを神に捧げても構わないから夏海に生きて欲しかった。

「治るよ、きっと。絶対治る。」

そう言うと夏海は、夏海らしい悪戯な笑顔を覗かせた。

「言質取ったからね。」

恐ろしく冷たい彼女の唇が僕の乾いた唇に重ねられる。不思議と緊張や興奮は無かった。ただ、噛み締めていた。夏海の唇の感触も、シャンプーの香りも、身体の細さも、全て。

どれくらい経っただろう、しばらくして夏海は唇を離した。見ると夏海は頬を紅潮させていた。それを見て僕も急に恥ずかしくなった。

「君が悪くしてるのは心臓だろ。唇じゃ、治らないよ。」

ただ照れくさかっただけだ。夏海は身を乗り出して再び俺の頬に手をやった。

「うるさい。」

確かに声が震えていた。それを聞いた途端、今度こそ確実に涙が零れた。けれどそんなこと無視して今度は俺から唇を重ねた。夏海がするより先に、そうした。

僕にもう少し勇気があれば違った結果になっていただろうか。彼女と愛し合う時間やこうして唇を重ねる時間を増やせただろうか。僕なんかのこと、夏海が好きなはずない。そう思っていた僕は愚かだ。自分への悪罵が絶えず沸いてくる。でもそれは夏海の望むことじゃない。その悪罵は、彼女と一緒に火葬場へ捨てることにしよう。

夏海が唇を離した。僕の肩に片腕を回したままベッドに横たわる。僕は夏海の身体を覆った。美しい顔をしている。天使のように清々しい面持ちだ。青い唇から白い歯が零れる。夏海、愛してる、僕が反射的にそう言うと夏海は腕で顔を隠した。夏海の頬を涙が伝っている。私も愛してる、大好きだよ佳君、消え入りそうな嗚咽混じりの声でそう言った。

紫の光が窓から差す。もう陽が沈みかけていた。

「私、やっぱちょっと眠いや。寝るね。」

「だめだ、寝かせない。」

夏海の顔を覆う腕をどかし、また唇を重ねた。夏海はくすりと笑うとそれに呼応して僕の唇を甘噛みした。負けじと僕の甘噛みしてみる。するとすぐに彼女の腕は僕の肩から落ちた。

「同物同治は上手くいかなかったけど気持ちよく寝れそう。私、幸せ者だな。」

「僕も、幸せだ。」

彼女はまた腕で顔を覆った。もうそれをどかそうとはしなかった。

「お母さん来たら、寝てるって伝えといて。ありがとうって。」

「…うん。」

「それと、本やっぱ貸して。読む時間、沢山出来そうだから。」

陽が完全に沈んだ。けれどこの病室は一等星のように思えた。

「おやすみ、佳君。」

そう言って眠った夏海の胸元に、僕はそっと、その本を置いた。

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