ドクハク
寿濡
ドクハク
私はタバコというものがあまり好きではない。
だが、現実から片足を踏み外す為の手段として、進んで形のない猛毒を全身に巡らせることがある。
手付かずのレポートがまだ残っているが提出期限は明日の夕方まである。
この状態を私はまだ余裕だなっと感じてしまうのは、二年怠惰に時を貪った中で得た唯一の成果と言えるだろう。
あの頃は絶望の縁に徹夜を決意したような状況でも、今ではまだあと16時間と58分の命があるな、と冷静にこれからどう仕上げていくかを頭で整理できる。
この思考を助長してくれるのは何時だってタール6mgの劇物なのだ。
こいつに手を出したのは些細な切っ掛けだった。
ちょびっと好みの女性が酒の場でタバコを吸っているのを見て私も相伴に預かろうと思い立った時に近くのコンビニエンスストアで名前も知らぬそいつを番号で呼び捨てにしたのが始まりだ。
未だにこの味に慣れることはなく、ただひたすら煙たいだけの物だが、物思いに耽るには十分な時間を潰す手段だと、私の中で確固たる地位を築き上げている。
いつか訪れるであろう依存への恐怖を殺しながら火をつけ、煙が口内に入り、喉を通り、肺を汚す。
その頃には、依存への恐怖は脳の片隅に追いやられ、思案の海に意識が引きずり込まれていく。
カチッと音を鳴らすと手元には少しの熱さが降ってくる。
口に加えたそれを火に近づけると熱が頬を撫でてくる。
深呼吸をするかのように息を吸い、火の先にタバコの先端部分を押し当てて、煙を肺にいれる準備を整える。
火をつける、吸う、吐く。
この動作にももう慣れたもので、煙たさに咳すら出ない。
口内に入るそれは香ばしさと苦さがブレンドされたもので、私にとってそれは少しの異物感を擽るには丁度良い具合であった。
一口目を吸い終わる頃には先端がぼうっと光って灰を生成している。
二口、三口と吸うと灰は長さを増してほとんど感じないはずの重さをそこに実感する。
私はこの灰が2cm程になると毎度灰皿にこの重しをおろす。
短くなったこいつをまた口に運び、頬をすぼめて今度は強めに息を吸う。苦味が増して舌の奥の方がピリッとする。
そしてあらかじめ用意していたエスプレッソコーヒーで口の中の煙を更にからだの奥に流すのだ。
私にとってもはやこの行為は儀式であり、習慣であり、ルーティーンと言っても差し支えのないもので、精神の正常性を保つのに一役を買っている。
フィルター近くまで火が伸びたそれを強引に灰皿に押し付け消化する。
何本か行為を繰り返す。
気が付くと10本目のタバコの火が消えていた。
流石にそろそろレポートに手をつけなければならないのだが、いまいちやる気にならなくて惰性でもう一本目へと手を伸ばしてしまう。
この限りなく贅沢な時間を謳歌する私にはきっとずっと先の未来で、時間の一括払いの請求が押し寄せて来る。
だがその時になっても今日の事を私は覚えてないだろう。
記憶にも留まらない無意味な時間の価値に気が付くのはまだ先の事のはずだ。
それを自覚していても実感がない限り、私と言う人間は贅を尽くし、自身の限られたモノを荼毘に付す。
いつか短くなった私をグリグリと押し付ける日がきっと来る。
タバコと同じで、私の命もほんの少しの体感時間で失くなっていく。
それを怖いと思う。
タバコに火が灯る間だけは、脳の片隅に追いやり、私の命の価値について飛躍する思考を書き消すことが出来る。
箱から最後の一本を取り出し、火をつける。
これから来る後悔の念と戦う準備をする。
そしてこの儀式を火が消えるその日まで、私はきっと繰り返していく。
肺に入れた煙を吐く。
灰が落ちる。
火が消える。
最後の毒を吐いた。
ドクハク 寿濡 @ichi20002
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