内なる獣
腹に走る痛み。それは、まだ俺が生きている証明。
目を開ける。
暗い。天井には蛍光灯のような物が付いてはいるが、灯りは点っていない。
腹の傷には包帯が巻かれているのだろう。ゴワついた感覚が、正常な肌をくすぐる。
手足は動かない。腕は万歳の形で固定……いや、拘束されている。
革のバンドに足首手首を絞められ、その先には鎖。
どうあがいても逃げられない。
唯一動く首を動かす。上半身は裸だがエアコンが付いているおかげで、寒くはない。
テーブルを挟んだ向こうに、椅子に座らせられた誰かがいる。
死んでいるように、ピクリとも動かない。
「マリア?」
一緒にいたはずの相棒か。だとしたら……。
暖かい部屋にいるが、みるみる体温が下がっていく。
拘束されているのは分かっているはずなのに、手足を動かさずにはいられなかった。
「おい! 起きろ!」
叫ぶが返事は勿論、反応すら起こさない。
焦りが湧き上がる中、突然部屋の電気が点いた。
暗がりで薄っすらとしか見えなかった輪郭が、その姿を露わにする。
セーターのど真ん中を切り裂かれ、胸に斜めの切り傷。左頬には、大きな痣。
「マリア……」
椅子に座らされ、グッタリしている俺の相棒。裂かれたセーターの間から覗く胸の微かな動きは、彼女の生存を表している。
安堵すると共に、彼女に傷を負わせたであろう弓立に激しい怒りを覚える。
「怒った?」
声とほぼ同時。俺の視界を銀色に輝く物が塞ぐ。
それは微かに錆鉄の匂いがした。俗に言う、ランボーナイフだ。
顔を正面に戻す。そこには天井ではなく、俺の顔を覗き込む弓立の顔があった。
「命拾いしたな、弓立」
「………………」
「手足が自由に使えてたら、半殺し、いや殺していたよ」
「それはこっちのセリフ」
弓立はそう言って、俺の腹に巻かれた包帯を撫でた。
「こっちが手加減してなかったら、赤沼さんは死んでました。……そこの女もね」
「そいつはありがたいことで。……だが、俺は遠慮なくお前をぶっ飛ばすよ」
腹に空いた穴に指を突っ込まれる。痛みが全身を駆け巡り、ビクンとのけぞる。
「……それはこっちのセリフですよ」
鼓膜を震わす刺激は、手でジワジワ首を絞められるのと似ていた。
「私が、赤沼さんとマリア・アストールの生殺与奪を握ってるんです。……そうですねぇまずは、マリア・アストールから殺しましょうか」
粘っこい表情でナイフを抜き、マリアの首筋に当てる。
コイツの眼には、狂気が宿っている。今この瞬間にも、刃を引きマリアの頸動脈を掻っ切るだろう。
「……俺が悪かった。だから、そのナイフを引っ込めてくれねぇか」
「いいですよ」
思ったよりもあっさり、ナイフを鞘に仕舞う。一先ずは安心する。
だが、俺の対応一つで状況は悪化するだろう。爆弾を解除するみたいに慎重に対処しなければならない。
「……お前は……お前達は何がしたいんだ?」
当たり障りのない話で場を繋ぐ。少なくとも、話している内は殺される事は無い。
「斎藤さん達の目的は端的に言えば、革命。けれど、私の目的はちょっと違います」
「あん?」
「私の目的は――この国を滅茶苦茶する事です」
その言葉は、荒唐無稽で心の上を防水性のコートに降った水の様に滑り脳に刻み込まれる。
「本来の目的が、斎藤さんの目的に少し似ていたので……私は彼にお近づきになったんです」
「………………」
唾を飲み、ランランと輝く弓立の眼球を覗く。だが、感情は読み取れず網膜に浮かび上がっている狂気だけが、脳裏にこびり付いてしまう。
全身に鳥肌が立ち、涙が僅かに滲む。
俺の顔を覗き込んでいるのは、本当に俺と同じ赤い血の通った人間なのか。
本能的な恐怖が俺を襲う。
さながら、狼を前にした狩人とも言うべきか。
「……彼は最初、自衛隊員にクーデターを呼びかけようとしたんです。三島由紀夫みたいな感じで」
「……ゲンが悪いな。……クーデター失敗してるじゃねぇか」
「ええ。あんな男が言葉巧みに誘っても、誰も着いてきやしません。……だから、私が手を貸したんです」
「………………」
「武器の手配、金銭の授与……作戦の立案を」
「……一から十までご丁寧だな」
「勿論。自分の仕事も、一緒にこなさなきゃいけないので頑張りましたよ」
なんという、道化っぷりだ。自分が用意された舞台の上で踊っている事すら、気が付かないのか。
「斎藤には『無作為に銃をばら撒くことで、事件が起こる。その事件から強い奴を見つける』と言って、銃をばら撒かせました。――そして」
運悪く、事件に当たってしまった自衛官が一人。
……俺だ。
「私は、ただ銃を持った無法者が暴れてくれるのを祈っただけなのに……赤沼さん、貴方が現れたんです」
自分の運の悪さ、運命のいたずらを呪う。
「魅力的でしたよ。……誰も動けず、誰も銃を撃てない中、貴方は慌てず騒がず銃の引き金を引いた」
弓立はベッドに乗り、俺の上に四つん這いになった。狂気で輝く目と合う。
「画面に映る貴方の眼を見て分かった事がある」
目を逸らすことが出来ない。聞いてはいけない。脳がそれを理解しているのに、体がそれを拒む。
磁石に砂鉄が吸い寄せられるような……そう、近づくべき者に近づいている。そんな感覚。
「貴方には“狼”がいる」
内なる凶暴性を、獣に例えて“狼”と表現しているのだろう。
「『わたしはわたしではない』。そう思った事はありません?」
「……シェイクスピアか」
「正解です」
「……じゃあ、答えはこうだ。……“俺は俺以外にあり得ない”」
「随分、早い回答ですね。……確信を持って、そう言えるんですか?」
「……赤沼浩史は、赤沼浩史以上でも以下でもない。それは、紛れもない事実じゃないか?」
本当は心当たりがある。
三か月前、デンバー国際空港。CIAのエージェントを殴り倒し、返り血を浴びた自分の姿を見た時だ。
自分の中に自分じゃない存在を覚えた。
あの時は、それに次ぐ騒ぎが起きたから我に返る事が出来た。
だから、俺はこうしてここにいる。
「分からないのなら……私が分からせてあげます。内なる獣が目を覚ました時、貴方は……またあの目をしてくれますか?」
そう言って、弓立は俺の唇と自身の唇を重ねた。
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