可哀想

 コーヒーに後ろ髪を引かれつつ、外に出る。

 駐車場の片隅で、弓立が電話しているのが目に入った。邪魔しちゃ悪いと思い、電話が終わるまで俺は彼女に近づかなかった。


「――はい。それじゃあ」


 携帯をポケットに仕舞うのを見計らって、声を掛ける。


「おっす。早かったな」

「っ! ……赤沼さん」

「別に、驚く事はないだろ。江戸川さんは、なんだって?」

「それが、本庁の方に掛けたら今は居ないって言われて。電話も掛けてみたんですけど、話し中で。……今の電話は、別の用です」

「彼氏か?」

「仕事ですよ。まだ他の仕事も残ってるんですから」


 弓立は俺のつまらない冗談をいなす。だが、少し意外だった。

 彼女が持つスペックなら、男なんて選り取り見取りだろうに。


「そう言う赤沼さんは、彼女いるんですか?」

「いないいない」


 大学三年の今頃に別れたから、九年くらい彼女はいない。別に居ても居なくても、生活に大した影響が出る訳でもないし自衛隊に入ってからは、出会いも無くなった。


「作ろうって気にはならないんですか?」

「ならんね」


 母親からは結婚、もしくは彼女を求められるがそんな相手がホイホイ見つかるなら、日本は少子高齢化で悩む事は無いだろう。


「……じゃあ、立候補しましょうか?」


 弓立は俺の耳元で囁く。


「冗談。弓立さんなら、俺より優良物件が寄って来るだろうに」


 俺はその甘い声を笑いで打ち消した。


「……でも、赤沼さんほどの人はそういませんって」

「そうかねぇ?」


 確かに、弓立は魅力溢れる人物だ。けれども、俺の心には何故か響かない。

 美術館で名画を見ても、興味が無ければ関心も感動もしないのと同じ感覚。そんな奴に感想を聞いたところで「綺麗ですね」と、一辺倒の言葉が返ってくるだけ。

 今の俺は、そんな状態だ。

 それに、人と話したおかげで気分は楽になったしさっさと戻りたい。


「じゃあ、俺もう行くから。電話繋がったら、江戸川さんによろしく言っといて」


 少し早口で弓立に言って、俺は彼女に向けて手をヒラヒラさせた。


「……ええ。また明日」


 蜂蜜のようなその声を聞きながら、俺は本部の中に戻った。

 



 てっきり、ドラマなんかで見るような冷たい空気が漂う取調室に案内されるかと思ったのに、局員に案内されたのはオフィスの隅にある応接コーナーだった。


「取調室じゃないんですか?」


 真が、案内してくれた局員に聞く。


「取調室がいいの?」


 お茶目に返されるが、その内容は怖いので私達は必死に首を振った。


「ただ幾つか君達に質問して、それから正しい対応を考えた方が良いってこと。それに、取調室で威圧的に聞かれるよりこっちの方が話しやすいでしょ、君達も」

「は、はい……」

「緊張しないで。担当者が後で来るから、その時は素直に話してね」


 緊張やら罪悪感から変な汗が全身から滲み出る。

 差し出されたお茶にも手をつけていいか分からず、ただ体から水分が抜けていく。

 その感覚は、思い出したくもない記憶を呼び起こした。

 ――私は、果たして存在すべき命なのか。

 その事を真に話すと、彼は笑い私の頭を撫でる。


「そんなことない」


 声は真剣だった。

 ……でも、あの男は違った。

 狭いアパートの部屋には据えた匂いが充満し、その発生源となっているゴミの山は隅にうず高く積まれている。

 その中で、私はただ殴られていた。男が持ちうる有らん限りの罵声を浴びせながら。

 私が泣いても止めず、児相の職員が押さえ付けてようやく止める。

 児相の職員が来る日はまだマシな日。大抵の日は、男が疲れるまでサンドバッグにされる。

 助けを求めて叫んでも、誰も来なかった。

 ご飯も酷い時は水も満足に与えられず、責苦と飢えと渇きに耐える日もあった。

 その状況は、小学校に行くことで少しだけマシになる。

 給食が食べられるので一食は保証され。

 水道が使い放題なので渇きを癒やす事も出来る。

 家にいる時間も少なくなったから、殴られる事も少なくなった。

 けれど、別の問題が私の前に立ち塞がる。


「可哀想に」


 その言葉は、安全圏から私を眺めているだけの観客が発する言葉だ。

 児相のオバサン。担任含めた教師陣。クラスメイトにその家族。

 誰が見ても哀れと思う境遇は、その言葉を産み落とす。

 産み落とされた言葉は情け容赦無く私の心に噛みつき、離れない。

 何が分かるの。

 綺麗に洗濯された服を身に着け、家に帰ると優しい家族と温かい食事が待っている、貴方達に何が分かるの。

 それでも、家にいれば殴られるから私は学校が閉まるギリギリまで、図書室で過ごした。

 有り余る時間を使い、私は本を読んだ。

 本は私の世界を広げてくれた。短い時間だけだが、辛い現実を忘れ別世界へ私をいざなってくれる。

 けれど……心を蝕む言葉は消えない。

 そんな時だった。リストカットを知ったのは。

 幸か不幸か、学校には刃物が沢山あった。カッターナイフ一つ無くなっただけで、大騒ぎするような事はなかった。

 私は家で一人になった時、手首に透けて見える青い血管とは垂直に刃を滑らし血を流す。

 心臓の動きに合わせ、傷口から真っ赤な血が流れ出る。

 それと同時に、心に噛みついた言葉が砂のように細かな粒子となって崩れていく。

 もう片方の手で血が滴る手首を握って、血を止める。

 血が出なくなる頃には、心は大分軽くなっていた。

 それから、私はリストカットを繰り返した。

 泣いたりするよりも、人に話すよりも、簡単にストレス解消が出来るからだ。

 心外だったのは、中学生の頃にいつものように手首を切って止血していた時、児相のケースワーカーのオバサンが来て無理矢理病院に連れていかれた事だ。

 どうやら、私が自殺を図りそれに失敗したと勘違いしたようだった。


「いくら人生が辛くても、生きなきゃダメじゃない。……お母さんも浮かばれないわよ」


 オバサンはそう言った。

 浮かばれないも何も、虚ろな目をして目の前で首を吊った人に何の感情も抱いていない。

 産んでくれた恩はあれど、育ててもらった恩は無い。

 何が母を駆り立てたのかは分からないが、一人で抱え込んで自殺するくらいだったら、避妊するか寺にでも『親切な人へ』と書いた手紙と共に置いてくればよかったのに。

 私はそう思っていた。

 父の暴力と流血の癒しを繰り返していると、いつの間にか私は高校生になっていた。

 そのな境遇のおかげか私はイジメられることも無く、ただただ教室の隅に存在し呼吸をする置物に成長する。

 けれど、暴力に怯えながら置物に徹する生活に、一筋の光が――。


「アイラ?」


 真の声にフッと我に返る。

 顔を上げると、向かい側のソファーに担当官らしき女性局員が座っていた。


「大丈夫? 顔色悪いけど……」


 心配そうに局員が聞く。私は曖昧な返事をして、目の前にあったお茶を飲んだ。 

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