手首の傷

 多摩中央署を後にし、俺達は市役所に向かった。

 そこでも刑事が語ったのとほぼ同様の事が、ケースワーカーの口から出てくる。だが、刑事が知らなかった事を彼女は知っていた。

 娘の事だ。

 

「いい子よぉ。親には恵まれなかったけど……。中学の頃なんか、しょっちゅう……なんて言うんだっけ? 手首切っちゃうの」

「リストカット」


 弓立が答える。


「そう、リストカット。自殺未遂ってやつね。いつだか、部屋に行った時に血まみれの手首押さえて呆然としてた時があったわぁ……。病院に連れて行ったけれど、痕がまだ残っちゃってるのよ」

「はぁ……」

「でも、最近はマシになってるみたいね。父親の方も、愛来ちゃんの方も。……やっぱり、彼氏が出来た事が大きいのかしら」

「彼氏?」


 俺は大淵真の学生証を見せた。


「その彼氏って、こんな顔でしたか?」


 ケースワーカーのオバサンは、携帯に穴が空きそうになるくらい見つめた後。


「間違いない。この男の子だったわ」


 そう断言する。

 俺達は何個か質問し、市役所を出た。車に乗り込むなり弓立は口を開いた。


「……あのオバサンは一つ勘違いしています」


 少し語気が荒い。心なしか、眉間にシワが寄っているようにも見える。


「何を?」


 発言をまとめて携帯のメモ帳に記録してあるが、これまでの証言と矛盾はしていない。

 何が彼女の琴線に触れたのか。


「リストカットの意味です」

「意味ねぇ……自殺未遂の真意なんて、死にたかったが死にきれなかったじゃないの?」

「その前提が間違っているんですよ」

「前提? リストカットが、自殺したいが故の行動じゃないと言いたいわけ?」

「ええ」


 弓立はそう言って、エンジンを回す。

 生温かい風がエアコンから吐き出される。


「リストカットは、一つのストレス解消なんです」

「剃刀で手首切るのが?」

「ええ」

「………………」


 唖然とする。

 暖かくも冷たくもない空気が狭い車内を満たす。それに当てられ、俺の中の煮え切らない感情が増幅した。


「赤沼さんはストレスが溜まった時、どう解消しますか?」

「バッティングセンターとランニング」

「……体を動かして、ストレスを発散するんですね。とても効果的な解消法だと思いますよ。でも――」


 弓立はグッと顔を近づける。


「それじゃ消えないモノもあるんです」

「………………」

「言葉じゃ言い表せないモヤモヤも、煙のように消えていく。それが、リストカットなんです」


 そう言い、弓立はコートの裾をまくり、中の黒いセーターの裾もまくり、その白く細い腕を見せた。

 誰にも踏み荒らされていない雪原を思わせる。しかし、その手首には切った痕が何本も走っていた。


「知ってますか、赤沼さん。腕の太い血管は、もっと奥の方にあるって」


 俺は頷くだけで精一杯だった。


「だから……こんな表面の血管を切ったところで、死なないんですよ、人間ってのは。本気で死にたいのなら、飛び降りるか、首の頸動脈掻っ切った方がいいです。……目の前で母親が惨めな死に様を晒した首つりは選ばないでしょう」


 確かに、首を吊った遺体は酷い状態になると聞いた事がある。

 目玉は飛び出て、舌は口から垂れ下がり、糞尿が垂れ流しになるらしい。

 幼い時にそれを目撃したのなら、自分と母親を重ね首を吊る事はしないだろう。

 それに、弓立の言い分には説得力がある。

 彼女の手首に刻まれている痕が何よりの証拠だ。

 けれど、俺は目の前で笑顔で傷跡を見せつける女に対する恐怖で、物事を論理的に考える余裕が無かった。

 曖昧な返事を返す。

 それをどう受けったのかは分からないが、弓立は袖を元に戻した。


「――すいません。取り乱しました」

「ああ……」


 彼女は姿勢を正し、ハンドルを握る。エアコンから吐き出される風は、いつの間にか暖かくなっていた。

 あのおっさん、なんて奴を寄こしたのか。

 心中で江戸川に対して悪態を付き、立川のISS本部に着くまで俺は弓立の顔をマトモに見れなかった。

 彼女に礼と別れの挨拶をして、強襲係のオフィスに向かう。

 だが、主任室に矢上の姿はない。

 手近にいた局員に矢上の居所を聞く。


「主任なら、サイバー班の班長に会いに行ってますよ」


 どうやら、植田の元へ赴いているようだ。俺は調査係のフロアに向かった。

 そこでは矢上と植田の二人がこの前と同じ様にパソコンを見ていた。


「どうもッス」

「赤沼さん。丁度よかった」

「“田中正一”の正体が分かったんや」

「なんですって……!」


 俺は二人に駆け寄る。パソコンの画面には、警視庁の前歴者データベースとネット地図が表示されていた。


「田中正一はやはり偽名でした」

「やっぱりか……」

「しかも、や。田中は一人じゃなかった」

「大人数で田中某を名乗っていたって事ですか?」

「そうです。……帳簿にあった、銃が届いたであろう住所を詳しく調べて、住民票を確認したところ……世帯主はそれぞれ違う人物でした。それに、全員田中なんて苗字でもありませんでした」

「……ふむ」

「けれど、ある共通点があったんです」

「それは?」

「……………………」

「近所の聞き込みで判明したそうや。改造バイク乗ったり、夜中に花火で遊んだりとまぁ、清々しいまでの親不孝モン達が」

「その彼らを前歴者データベースと照合したところ、ある団体に所属していたことが分かりました」

「その団体ってのは?」

「東京都西部を根城にしている“ドラゴンスターズ”。半グレ集団ですよ」


 唾を飲みこむ。矢上が俺の顔を見た。


「その団体のリーダーは、辻龍斗。……赤沼さんが調べてる女子校生の父親ですよ」


 植田がパソコンを操作する。画面いっぱいに前歴者データベースが表示された。

 その面は間違いなく、クソッたれ親の顔だ。

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