互いの腕時計

 班長の思いは、痛いほど伝わった。

 その思いに俺は。


「分かりました」


 と答える。それ以外の言葉はどうにも似合わない。丁度いいタイミングで、またデスクの電話が鳴った。


「はい、調査係。……マリアが? ええ。はい。…………分かりました」


 班長は送話口を手で押さえ、小声で俺に指示を出す。


「マリアを迎えに行け」


 俺は頷き、マリアの腕時計を引っ掴みオフィスを飛び出した。エレベーターは全て出払っていたので、階段を駆け下りる。

 調査係のフロアに転がり込むと、取調室の前に捨てられた子犬みたいな顔をしたマリアが立っていた。

 彼女は俺の顔を見て、安心してようだ。


「浩史……」


 彼女は手首に巻かれた俺の腕時計を撫でる。


「お守り、役に立ったよ」

「それは……よかった」


 彼女の気休めにでもなればと思い、俺は腕時計を差し出した。そんな思いが、不安に包まれていた彼女を安心させることが出来たのは少し嬉しくなる。

 俺は彼女の隣に立ち、揃って歩き出す。


「変な事言われなかったか?」

「そこは大丈夫」


 そう言って彼女はまた腕時計を撫でる。


「……なぁ……マリア」

「何?」

「腕時計なんだけど……」


 俺がそう言うと彼女は「ごめん」と言い、慌てて時計のバックルを外そうとした。


「いや、外さなくていい」


 俺はそれを手で制す。その態度に彼女はポカンとする。


「……それがお守りとして効くなら、しばらく着けとけ」

「え?」


 馬鹿にしてるような、照れてるような、驚いてるような、そんな声が彼女の口から漏れる。


「俺にはこれがある」


 俺はジーパンのポケットからマリアの腕時計を出して、そう早口で言った。

 彼女は顔を赤くさせ、口をパクパクさせたが。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 彼女は笑う。

 そして無機質なデジタル表示の時刻を、まるで宝物を見る目で見つめた。思わず、吸い込まれそうになる目だ。

 時計一つでそこまで喜んでくれるのはとても嬉しいが、これから待ち受ける事を考えると、夏の晴天を汚す雨雲のように心に掛かる。

 本来なら彼女にケビンの件を伝えるべきなのだろうが、彼女の笑顔を見ていると話を切り出せない。

 エレベーターを待つ間、俺は「束の間の休息だ」と自分に言い聞かせ彼女に向けて曖昧な笑顔を向けた。



 二人でオフィスに戻る。部屋に入るなり、班長は渋い顔をしながら俺達を呼び寄せた。


「……今から、ロス支部に行ってくれ」


 喉から絞り出したと思われる声は、鉛みたいに重い。急な指令に、マリアが班長に質問する。

 マリアの反応を見た班長は俺を、恨めし気に見上げた。班長は自分の口から、部下に地獄を見るかもしれないなんて言いたくなかったのだろう。

 だが、それは俺も同じだ。あの顔をされたら、言うのを躊躇う。

 諦めた班長はゆっくり息を吐き、先程の電話の内容を伝えた。

 話が終わりに近づくにつれ、マリアの表情が曇っていく。班長が話を締める頃には、絶望が彼女の顔に姿を現していた。


「……ISSとしては、事件の真相解明を求めている。……行ってくれ」


 苦渋の決断。その言葉が脳裏に浮かぶ。班長の声はとても苦しそうだ。

 しばらくの沈黙。

 秒針が三周した頃、マリアが口を開く。


「……行きます」


 班長がマリアを見つめる。


「行ってくれるか?」

「浩史と約束したんです。……全て終わらせるって」


 班長が俺を見た。今度は恨めし気な視線ではなく、心の中を見透かすような視線を向ける。


「約束しました。その言葉に責任は持ちます」


 鏡を見ている訳じゃないが、自分がどんな顔しているのかはよく分かる。

 ここ最近で、一番真剣な顔だ。


「ロス支部には話を通してある。行ってこい。……しっかりやれよ」


 班長は口元を僅かに上げ、椅子ごと後ろに回った。



 高速道路は空いている。

 昨夜の雪はとっくに姿を消しており、墨汁を混ぜたような雲がだけが重く空に掛かるのみだ。

 助手席ではマリアが煙草を蒸かしている。煙草から立ち上る煙は、少しだけ空いたパワーウインドウから流れ込む空気がかき消す。

 俺は腕に巻いた銀色の腕時計を、流し目で見る。

 うっすらと日焼けした、筋肉質な腕には似つかわしくない細い金属バンドの腕時計だ。


「……マリア」

「……何?」


 煙を吐きながら、彼女は返事をする。


「ケビンと会うわけだが……何か、あるか?」

「何かって、何よ」


 彼女は苦笑した。


「感慨って言うか……まぁ、何か思う事はあるか?」


 バックミラーを直しながら、マリアの方をチラ見する。彼女は無表情で携帯灰皿に煙草を押し込んだ。


「どうして、そんな事聞くの?」


 声色からも感情は読み取れない。俺はハンドルを指で叩きながら唸る。


「俺が焚きつけておいて馬鹿みてぇな質問かもしれんが……上司に会うのに……どう思ってるんだ?」


 我ながらアホな質問だと思う。でも、聞かずにはいられない。

 これから会うのが、虫が群がる夜の街灯みたいな奴なのだから。

 けれど、そんな疑問は杞憂に終わる。


「……今から会うのは、上司でも相棒でもない。私の、マリア・アストールの上司はメリッサ・トールで。相棒は……赤沼浩史よ」


 熱がこもった声だった。


「そうか……。ありがとよ……相棒」


 標識は空港まで一キロだと示している。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る