善行と悪行編

女の過去

 裏通りのアパート。

 通りから聞こえる怒号。

 部屋の隅に積まれた、ハエのたかるゴミの山。

 床に転がっているのは、覚せい剤用の注射器だ。

 目の前に立っている少女は、S&W M39自動拳銃を握っている。銃口からは薄く硝煙が立っていた。

 少女は怯え、痣だらけの顔で、隣に立っていた男を見る。


「大丈夫だ。君は正しい事をしているんだ。何も悪い事をしていないよ。……悪いのは、君の父親だろう?」


 口調は優しい。牧師が教会で聖書を読み上げる時の声と同じだ。

 少女が握る拳銃の先に居るのは、彼女の父親だった。

 髪や髭は伸び放題で、身に着けているランニングシャツは薄汚れている。何日も風呂に入っていないのか、酷い体臭がここまで漂ってきた。

 そして、胸に一発、弾が撃ち込まれ開けられた穴からは血が流れ出ている。

 まだ生きている。指が微かに動いていた。


「まだ、このゴミ虫は死んでないみたいだね。……じゃあ、もう一度撃とう。今度は頭に撃ち込んでみよう」


 まるで料理を教えているかの如く、男は拳銃を握る少女の手に触れた。


「手は真っ直ぐ。銃口を少し上に上げようか。……うん、いいよ。それじゃあ、引き金に指を掛けて……」


 私はここで我に返り、ジーンズに挟んであったグロックを少女に向ける。


「止めて!」


 私が叫ぶと、少女は驚き拳銃を落とした。少女の手を握っていた男は、私に微笑みかけ落とした拳銃を拾った。


「マリア……何故止めるんだい?」

「……これは、人殺しです。……駄目な事です」


 男はその言葉に動揺するでもなく、微笑みを崩さず何度も頷いた。


「分かるよ。僕も昔はそう思ってた。……これは人殺しだったってね。でも、考えてみてごらん」


 男は少女に拳銃を返すと、その痩せ細った肩に手を乗せた。


「この少女は、このゴミ虫から人間以下の扱いを受けていた。機嫌が悪いと殴られ、機嫌がいいと犯される。これじゃあ、奴隷と変わりない。……この行為はね、この子が持つ正当な権利なんだよ」


 グロックを握る手がブレる。


「自分の子供を人間扱いしない奴が、何故死ぬ瞬間を選べるんだい? このゴミ虫がやっているのは、悪い事だろう?」

「それでも……」

「じゃあ、マリア。君は、この子がゴミ虫に殺されてもいいと言うのかい?」

「…………それは」

「そうだろう。未来ある子供が、こんな屑に殺されていい訳がない。でも、ゴミ虫を子供が殺していい訳はある。……何故なら、この子は日頃から虐待を受けていたのだからね」


 いつの間にか前まで来ていた男は、私のグロックを掴み、銃口を下にやった。


「マリア。僕も気持ちは分かる。けどね、この男は死ぬしかないんだよ」


 力が抜けた手から、グロックが抜き取られる。


「見ておきなさい。少女の門出を。親離れの瞬間を」


 私はとうとう床にへたり込んでしまった。男は改めて少女に拳銃を握らし、引き金に指を掛けるよう促す。

 声が出ない。

 そして遂に。

 部屋に銃声が鳴り響いた。

 転がっていた男の頭から、血が流れた。


「やったね!」


 男は無邪気な声を上げ、少女を抱いた。


「これで君は自由だ!」

「自由?」

「ああそうさ。君はもうあのゴミになにもされない。君は君自身だ、何でもできる!」


 死体を前にして、若者向けの曲の歌詞をなぞる姿は何とも言えない気持ち悪さがある。込み上げる吐き気を押さえられず、私は吐いてしまった。

 呆然とした顔の少女に熱い抱擁をかましていた男は、私の隣にしゃがみ込みこう囁いた。


「マリア。君は僕の相棒だ。……僕が出会ってきた中で、一番の相棒だ。だから、君には僕の隣に居て欲しい。どうだい? 僕と一緒に――」




「止めて!」


 声が出たと思ったら、そこはベッドの上だった。起き上がり、部屋を見る。ここは間違いなく、自分が借りてるアパートの一室だ。


「…………夢?」


 激しい頭痛。荒い呼吸を整え、サイドテーブルの引き出しに仕舞ってあった頭痛薬の瓶の蓋を開け、三粒出して飲み下す。

 上を向いて頭を振り、頭痛を幾らか飛ばした。

 そして、写真立ての隣に瓶を置いた。

 写真は自分のデスクに置いてある物と同じだ。五年前の写真になる。

 まだ髪が少し長い私が、かつての仲間達と映っている。

 私はロサンゼルス市警SWATの狙撃手だった。写真の私は笑顔で、レミントン社製のM24A2を持っていた。

 そして、その隣に居るのはあの夢の男だ。三脚付きの望遠鏡を持ち、腰に装着したホルスターには制式採用拳銃が収められている。

 私は写真立てを伏せようとした、だが手を下に動かすことは出来なかった。


「これは、戒めなんだから」


 自分に言い聞かせるようにそう呟く。

 すると、携帯電話が鳴った。掛けてきているのは、班長だった。


「もしもし」

「マリアか。朝早くに済まない。たった今、ニューヨーク港に停泊したコンテナ船に大量の密輸品が詰まれているとの情報が入った。銃で武装しているとの情報もあってな。警察からの応援要請で、第二班が出動する事になった。行けるか?」

「……ええ」

「分かった。アカヌマには伝えてある。現地集合だからな」


 そう言って班長は電話を切った。私は顔を洗う為に、洗面所に向かった。

 鏡には変わらない顔が映っている。

 水を顔に掛けると、少しづつ思考がクリアになっていく。

 脳内に、今の相棒の声が流れた。


『俺は、お前の味方だ』


 芯のある、強い声だった。


「……決めた」


 誰にも聞かれることなく、私の呟きは水音に掻き消された。

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