11月17日午後10時25分~32分

 俺は叫びながら、革ジャンの男に向かって行った。


「来い!」


 男のナイフは軽く胸を突こうとするが、手首を掴んで腹に押し付け阻止する。指をずらし手首の下の辺りの筋と筋の間、そこを強く押す。いや、指をねじ込む様にする。その場所にはツボがあり、実際に押してみると分かるがかなり痛い。

 男は一瞬だけ苦悶の表情をしたが、ナイフを落とさなかった。

 空いている方の手で俺を殴る。頬に受けたが、膝蹴りを鳩尾に突っ込んでやった。


「ゲェッホッ!」


 呼吸の妨害は流石に効いたようで、ナイフを落とした。金属より音の軽いそれを遠くに蹴飛ばすと、群衆は怯えた目をして逃げ出す。

 男は手を振り払い、立て直しを図る。そこに畳みかける様に蹴りを繰り出すが、今度は俺の足を掴まれた。

 足を勢いよく下ろされ、体勢を崩し床に倒れる。男は俺の顔を踏もうとしたが、その攻撃を転がって回避した。むき出しになった腹に、男が放った鋭い蹴りがめり込んだ。

 痛みと呼吸できない苦しみで動きが鈍くなる。さらにそこに顔面に蹴りが入った。

 何とか立ち上がり、少し距離を取った。痛む鼻を撫でると、べっとりと血が付いた。

 心臓がドクドクと脈動するのと同じリズムで、鼻から血が止めなく流れていく。

 血を拭う。

 男は余裕の笑みだ。ニヤついた顔とは裏腹に俺はまだ、ゾクゾクとした痛みを感じていた。

 鼻の痛みでも、腹の痛みでもない。まるで、肉食獣に片手を齧り付かれている様な痛みを全身で感じている。


「畜生め……」


 唸るように呟き、もう一度自らを鼓舞する様に叫びながら走り出した。男は身構えるが、一メートル程まで近づくと俺は体勢を低くする。

 男はハッとした顔になったが、もう遅い。ラグビー選手の如くタックルをかます。

 勢い任せに突っ込んだおかげで男はバランスを崩し、そのまま床に倒れた。油断していたせいで、踏ん張ることが出来なかったのだろう。

 馬乗りでマウントを取り、俺は顔面を殴った。

 鈍い音、血が拳に飛んだ。素早く反対の拳を顔面に打ち付ける。

 それを容赦なく繰り返した。男は手を伸ばし、俺の顔を押して必死に遠ざけようとしたり足をじたばたさせるが、顔を殴る音に液体の音が混じるうちに動きが鈍くなっていく。

 返り血が飛び、着ている服に幾何学模様を描き、染み込む。ついには男は動かなくなり、伸ばした腕をだらりと床に投げ出した。

 俺は荒い息を繰り返しながら、殴る手を止めた。手首がズキズキと痛み、二の腕の辺りまで返り血で汚れている。さらによく見れば皮も剝けている。

 のっそりとした動きで立ち上がり、小刻みに痙攣している男を見下ろした。顔は真っ赤に腫れ、鼻はあらぬ方向に曲がってしまっていた。時折少しだけ口を開けるが、前歯が一個欠けているのが見える。

 明らかにやり過ぎているが、ここまでやらないと抵抗してくる根性には素直に感服した。


 そして俺は恐怖した。何者でもない、にだ。血で濡れた自分の手を見た。

 ゾッとする。戦う時にいつも感じるあの奇妙な感覚とは違う。

 何度か経験したことのある、この感覚。

 幼少の頃。田舎の祖父の家に泊まった時に、和室の天井に見た人の顔を見た時。

 小学生の頃。両親が夜勤で家におらず、幼い弟と二人残された夜。

 中学生の頃。飼育小屋で眠るようにして死んでいた鶏を見た時。

 高校生の頃。友達と一緒に行った海で溺れた時。

 大学生の頃。初めて車を運転した時。

 自衛隊に入隊した頃。初めての実弾訓練を行った時。

 今は分かるし出来る。

 天井のシミがシュミラクラ現象で人の顔で見える事も、とっくに成人して一人で夜を明かすことも出来る。はしゃいで溺れる事も無い。何百キロでも運転出来るし、自分で撃つ分には銃を十分安全に扱えるはずだ。

 けれども、

 

 今まさに自分自身に対して感じている。

 三十年。知り尽くしたとも思う、赤沼浩史そのものに恐怖しているのだ。

 無論、ここでこの男を無力化しないと俺は間違いなく殺されていた。生きるか死ぬかの二択だったら、俺は生きる方を選ぶ。

 この戦いは、博士を守るためであり俺の命を守る為でもあるのだ。

 それなのに。

 自分自身が怖い。

 何故だか、自分の中に得体の知れない何かがいる様に感じる。

 周りの喧騒が徐々に小さくなり、自分の呼吸音しか聞こえなくなった。

 喉の奥深くから、小さく声が漏れそれが大きくなっていく。今にも叫び出しそうになる。奥底から、大事なモノが飛び出しそうだ。

 あと一秒もすれば、俺は泣き叫んでしまう。小数点以下の時間で俺はそれを理解した。


「動くな!」


 唐突に声を掛けられた。

 思考が飛び、反射的に声がした方を向く。拳銃を構えた空港警備員が三人、銃口は俺を狙っていた。


「両手を上げて、その場に伏せろ!」


 俺はひとまず、その声に従う事にした。思考を覆っていた恐怖は、霧の様に消えてしまっている。

 辺りの喧騒も、よく聞こえる。

 警備員達は猛獣に近づく子供の様に、俺の所へ来た。ズボンや服をはたく様に触り、丹念にボディーチェックした。


「……ポケットに身分証がある」

「黙ってろ」


 口ではそう言っても、気になったようでポケットからISSの身分証をまさぐり出した。


「ISS……あんた日本人か。……まぁいい、話は事務所で聞く」

「待ってくれ。俺は任務中だ。俺がその男を殴っていたのも、理由がある。……とにかく、仲間を呼んでくれ」

「うるさい!」


 聞く耳を持とうとしない。まぁ当たり前と言えば当たり前だ。

 警備員の一人が俺の服の襟首を掴んだ。

 刹那。悪寒が走り、鳥肌が立つ。瞬きするのも忘れ、窓の外を見た。

 黒い影が幾つか見えた瞬間、フルオートの銃声と共に強化ガラスにひびが入って真っ白になった。

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