第39話 grizzly

「……理解してんのか、明石」


 江戸屋がそう問いかけた。

 陽羽里が、このままでは体が弱いからではなく、意図的なショックによって死ぬかもしれないという事実を知っているのか、という質問に、


「君の言葉が事実だとしても、やる事は変わらないよ」

「見殺しにすんのか?」

「そう思われても、陽羽里さんとの約束だからだね」


 たとえ体が限界を迎えても、止めないでほしい、と。

 最後までやり遂げたいという陽羽里の想いを尊重した。


「陽羽里さんが倒れて気を失えば、僕も君たちと同じようにあの人を助けるよ。でも、意識がある内は、君たちに邪魔なんかさせない」


 ゆっくりと、明石の右腕が動いた。

 振るわれた拳は、潰れた江戸屋の左目の方から。


「ちっ」


 繊細な戦い方をしている江戸屋にはやりづらくて仕方がない。

 距離感が掴みにくいため、大雑把な動きをしなければ、目測を見誤った場合、明石の拳をまともに受ける事になる。


 そうなれば終わりだ。

 江戸屋の半身を潰した瓦礫をも割る明石の力。

 一撃でも喰らえばひとたまりもない。


 江戸屋には一つの懸念があった。

 ……さっきから感じている違和感。


 右目も徐々に見えにくくなってきている。


 原因は分からない。

 恐らく、瓦礫との衝突が体のあちこちに影響を与えているのだろう。


 血も流し過ぎている。

 右目が見えなくなるのも時間の問題だ。


 だが、悲観する事はない。

 今の江戸屋には、全てを任せてもいいと思える、パートナーがいるのだから。


「…………恐いじゃねえかよ」


 江戸屋の足が止まった。

 明石は警戒して近づいてこなかった。


 その時にはもう、江戸屋の視力は失われている、絶好のチャンスだと言うのに。


 明石王雅は気づいていないのだ。

 だらりと脱力させた江戸屋の無防備な姿が、なにかの罠だとしか思えなかったためだ。


 なにかある、そう思わせるような振る舞いをこれまでしてきた、江戸屋の蓄積が生んだほんの一瞬、与えられた猶予。


 江戸屋は実感したのだ。

 光を失った恐怖と不安を。


 ……こんな状態で、河澄ミトは戦っていた。

 目の代わりをパートナーに任せて、体を動かす事に集中していた。


 言われてすぐにできる事ではない。

 そこには躊躇いが生じるはずなのだ。


 目の前はもしかしたら壁かもしれない、顔を激しく打ってしまうかもしれない、足場がなくなった断崖絶壁かもしれない……そういう恐怖が、足をいつも通りに動かしてはくれなくなる。


 なのに河澄は、最後にはいつものように動けていた。


 それは江戸屋扇を本当に信頼していたから。


「すげえな」


 江戸屋は呟いた。

 傍にいるだけだった河澄をこうも羨望する日がくるとは思わなかった。


 こうして隣に並び立つ事すら、想像などできなかった。

 ……いや、可能性を見なかっただけなのだ。


 自分よりも上にいく事はないと決めつけて、見下していたのだから。


 だがそれも今日で終わりだ。


 ――強さは一種類ではない。


 江戸屋のような喧嘩に関しては負け無しの、戦闘能力の強さを持つ者もいれば、

 陽羽里のように体が弱くとも、誰にも屈しない鋼の精神を持つ者もいる。


 心は弱いが、絶対に倒れない頑丈な体を持つ明石。

 様々な形に変わり、環境に適応して最善の立ち振る舞いをする河澄の柔軟な心。


 それもまた、強さなのだ。


「ミト、任せてもいいか?」

「え……」


「久しぶりに、お前の指示を聞きたい」

「……久しぶりにって、前は全然聞いてくれなくて、さっさと自分でやっちゃったくせに?」


 いらないと決めつけて切り捨てていた。

 それで勝ち続けていたのは、運もあるだろう。


 今思えば、勿体ない事をしたな、と思う。

 あの時から指示を受け取っていれば、もっと早く距離を縮められたかもしれないのだから。


「……ダメか?」

「ダメとは言ってない。……いいよ、やったげる」


 暗闇の中、一筋の光明が暗闇を切り裂いていく。

 江戸屋の目は確実に見えていない。

 しかし河澄の指示が、彼をいつも以上に活き活きと動かしていた。


 河澄の指示が特別上手いわけではない。

 彼女の言葉通りに江戸屋は動き、その上で目以外で感じ取った直感を頼りに動いている。


 振るった拳も、蹴り上げた足も、初手から明石の体を捉えていた。

 頑丈な彼の体に効いている様子は見られないが、精度と共に江戸屋の威力も増していっている。


 何発目なのか、数えてはいなかった。

 最後の一発、江戸屋の拳が明石の腹にめり込んだ。


 めきめき……ッ、

 という体の芯を破壊するような音と共に、明石が胃の中のものを吐き出した。


 頑丈な彼が初めて見せた鉄壁の綻び。

 一度ひび割れた場所は、二度目を受ければさらにひびが広がっていく。

 明石王雅という要塞が、崩れ始めた証拠だ。


「お前は、あいつの命よりも、あいつがやりたい事を優先すんのかよ……」


 それを使命と呼ぶのであれば。

 ……しかし命よりも重いとは思えなかった。


 使命を果たしたとしても、そこに最大の功労者である陽羽里がいなければ、意味はない。


「……陽羽里さんはね、僕を道具としか見ていなかったんだ。出会った時から、ね。それで良かったんだよ、深くは踏み込まず、僕は憧れの対象として見て、彼女は僕を自分の弱い体を守るためのボディーガードとして使った。僕たちは距離をぐっと縮めるのが早かったけど、そこから先へは絶対に踏み込まなかったんだ。そういう契約だった――」


 こういう見た目をしていれば初対面の相手には絶対に誤解をされていた。

 もはや慣れたもので弁解をする事なく甘んじて見た目の評価を受けいれていたのだが……、


 初めてだった。


 陽羽里は見た目で判断をしなかった。


 もしかしたら顔に出ないだけで恐かったかもしれない、誤解をしたかもしれない。

 だけどそれを表に出さなかった。

 体の弱い女の子が、である。


 その時に、明石は思ったのだ。

 この人について行こうと。


 自分の弱さを克服するためには彼女について行けばなにか分かるかもしれない、なにかが変わるかもしれない……そんな期待を抱いた。


 これまで嫌でしかなかったこの見た目と体があれば、陽羽里を守る事ができる。

 そう思ったら、急に自分の事が好きになれたのだ。


 変わりかけている、そう信じる事ができた。


「彼女は僕を道具ではなく、初めてパートナーと呼んでくれた」


 明石と陽羽里の間にあった不可侵領域に、陽羽里の方から入ったのだ。


 過去を晒した、後悔を吐露した、罪を白状した、二人は一歩前へ進んだ。


 その上で、陽羽里は明石に助けを求めた。

 たとえ死んでもやり遂げたい事がある。


 それが今、彼女自身の手で叶えられようとしている。

 ……邪魔をさせるわけにはいかなかった。


「陽羽里さんは言ってくれた――僕は強いと」


 彼女の言葉には不思議な力が宿っていた。

 あの言葉があるから、明石はこうして江戸屋扇を目の前にしても、再び立ち上がる事ができた。


「君よりもだ」

「そうかよ」


 江戸屋は笑って受け止めた。

 もしも万全な状態だとしても、自分に自信を持った今の明石王雅には、勝てないかもしれない。


 見た目ではない。

 こうして向き合って感じた彼の殺意に、実は足が震えているのだ。


 ……久しぶりだった。

 戦いにおいて、相手に畏れたのは。


 目が見えていないのは幸運だったかもしれない。

 見えていないからこそ、彼の殺意だけを受け止めるところで留まっている。

 これにいつもの見た目が加われば、体が動いていなかった可能性もある。


「王雅……、王か」

「僕は嫌いだよ、こんな名前。僕が王なんて、相応しくないんだ」


「今はどうだ? その王の名、ちょっとは手放したくなくなっただろ」

「…………そうだね。今なら、欲しいと言えるよ」


「なら、奪い合うしかねえだろ。どっちが王なのか――ここで決めようぜ」


 互いに拳が握り締められた。

 どちらも余力はこの一発分しか残っていないだろう。


 ここまでくれば、もう河澄の指示もいらなかった。

 明石の圧力が、ここにいると大声で教えてくれているようなものだからだ。


「江戸屋扇」

「なんだ? ……初めてだな、そうやって呼び捨てにされるの」


 目が見えていない江戸屋への配慮だった。

 明石王雅はやはり、喧嘩には向いていない。


「行くぞ」

「こいよ、受けて立ってやる」


 直後である。


 衝突音と視界が揺れるような衝撃が周囲の炎をかき消した。


 互いに拳が、相手の顔面に直撃し――、


 立っていた者は、いなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る