第38話 queen
河澄ミトが動き出した事で、観客席のざわめきも収まりつつあった。
彼女の足取りから不安が感じ取れるものの、本人は一生懸命、この試合を最後までやり遂げようとしている。
……誰かが呟いた言葉が、やがて波紋のように広がり、客席から直接舞台へ大声を出す者が現れるまで、そう時間はかからなかった。
「頑張れ!」
流れが変わり出した。
それでもまだ陽羽里と比べた支持率で言えば三割くらいだろう。
まだ大多数の人間が陽羽里に期待している。
だがそれも今後の展開次第だ。
「うあ、熱!?」
『ミト、そこは迂回しろ。炎が激し過ぎる』
江戸屋の指示に従って進んでいると、ごんっ! と頭の中で星が散った。
「っ、たぁあ……?」
『悪い、俺のせいだ。間隔が分かりにくくてお前を壁にぶつけちまった』
河澄の目の役目を完全に江戸屋に預けていれば、こうなる事もある。
歩幅、曲がるタイミング、真っ直ぐ進んでいるつもりでも徐々に曲がっていっている、など、当人になったつもりで指示を出していてもそういった癖のせいで動きにずれが出てくる。
何十年も共にした一心同体とも言えるペアであれば話は違うだろうが、三ヶ月程度の江戸屋たちではその域には全然達していなかった。
しかし三ヶ月程度の割には、息は合っている。
時間と共に壁に当たる回数も減っていった。
『あいつはもう、すぐ近くにいる――』
視力をなくした者同士、部屋を一つ挟んだ位置にいる。
互いに気づいているのだ、どちらかが動けば、次の部屋で邂逅するだろう。
勝負が決する時がきた――。
「熱いな……」
観客席からそんな声が上がった。
……今日の気温は低いとは言えない、試合が盛り上がっているため、興奮しているせいかもしれない。
本物と見間違うほどの映像の炎を長時間見続けた事によって、脳が勘違いして熱さを錯覚したのかもしれない。
……にしても、だ。
本当に灼熱の海にいるような、本能が逃げろと叫んでいる熱さだった。
「……?」
そんな中でたまたま目に入った、前の席にいる他人の髪の毛。
その毛先が、燃え上がった。
それは観客席のあちこちで起こっていた。
慌てて火を消す者、距離を取る者、服に燃え移ってしまってパニックになるもの……千差万別の反応に司会者も異変に気づいた。
千葉道は反対に落ち着いていた。
それは、この事態が想定されたものだから、ではない。
炎は映像エフェクトである、という思い込みが、本物の炎ではないと勝手に判断をしてしまっていたのだ。
映像を映し出すのは機械だ。
その機械が想定外の出力に耐えられなくなってオーバーヒートしているのだとすれば。
現実の炎が虚構の炎に混ざってこの場にいる全員に猛威を振るう。
それは誰一人例外なく、プレイヤーにさえも噛みつく事もある。
焔城から広がった炎が観客席を覆い始める。
その時、最悪のタイミングで陽羽里を映す監視カメラの映像が無作為に選ばれ、巨大ディスプレイに映された。
誰もが聞いた。
そしてこれこそが彼女の狙いであったと、勘違いした。
『ミト……いるでしょ? これがあたしの強さの証明。さらにもう一押し、あんたを倒して優勝する。あたしの力と示した実力が抑止力よ!』
炎は勢いを増していく。
止まらない。
流れ続ける。
彼女の怒りが鎮まらない限り、この炎はきっと消えてはくれないだろう。
「陽羽里ちゃん! もう、これ以上は――」
炎が邪魔をし、陽羽里に近づく事ができなかった。
足下で揺らめいている炎が、まるで足首を掴み、引きずり込もうとする手のように、彼女の足を焼いた。
「うぅ!?」
大丈夫、ドレスから発せられた偽の感覚だ。
直接焼かれたわけではない。
そう思ってはいてもそのリアリティに本物としか思えない痛みだった。
本物としか思えない、という感想は技術者を喜ばせるだけだろう。
雑念を振り払った。
陽羽里には伝えなくてはならない。
このまま続行し、政府に渡會陽羽里は危険因子だと判断されれば、そのドレスに備わっている機能によって陽羽里の活動が停止させられる。
体に軽いショックを与えるだけだが、体の弱い陽羽里には致命傷になりかねない。
二人は知る由もないが、観客席に漏れた炎のせいで、舞台の外では騒ぎになっている。
これが陽羽里の意図した事だと勘違いされたままであれば、簡単にスイッチが押されてしまう。
時間的猶予はほとんどない。
「陽羽里ちゃんが、死んじゃうかもしれないんだよ!」
「覚悟の上よ」
と、陽羽里はそう言った。
「え……」
「体の弱さをあたしは自覚してる。いくら防護ドレスを着ていても、体にまったくダメージがないわけじゃない。無理をすれば死ぬ可能性がある事くらい分かってるわよ。その上で、あたしは今日という日から逃げなかった。今こうして、あんたと向き合ってるのよ」
どうして、なんのために……そこまで?
愚問だった。
「そんなの、あたしたちのために決まってるでしょ」
誰かがやらなければならない。
じゃあ誰かがやってくれるのを待とう、と言って知らんぷりをするのが河澄であるなら、陽羽里はまったくの真逆だ。
誰かを待つくらいなら自分で立ち上がって成功させる。
ずっと昔から、陽羽里はそうだった。
彼女は一度も曲がらず、ここまできていた。
今更生きるか死ぬかの瀬戸際で、自分のしたかった事を諦めるような女ではなかった。
「死ぬ気はないわよ。でも、それでも死んだなら、本望よ」
その時だった。
天井の壁が崩れ始めた。
映像の炎であればこんな事態は起こらない。
だから二人はただのギミックであると思ったが、実際は本物の炎が塔を焼いた末に、建物が砕けたのだ。
瓦礫の雨によって陽羽里と河澄が分断された。
陽羽里の方は塔の頂きに向かう逃げ道があれど、河澄の方は後退しても炎の壁があり、閉じ込められてしまう。
その炎は映像なのか、本物なのか、見分けがつかなかった。
一か八かで飛び込み、もしも本物の炎であれば、彼女の体は火だるまになるだろう。
本能的に気づいた河澄は足がすくんでしまった。
……動けない。
それでも瓦礫の雨が止む事はない。
一際大きな瓦礫が、彼女の足下に影を作った。
目の見えない彼女には、大きな瓦礫の接近に気づく事ができない。
千葉道が伝え忘れた、ドレスの微調整による効果について。
視力の回復速度が早くなった、とある。
エフェクト機能を過度に使うと失われていく視力は時間と共に回復していく仕様だ。
微調整前は、過度に使った分だけ回復までが長くなっていたが、それを廃止し、全員一律にしたのだ。
そのため、エフェクト機能を使い続けている陽羽里は回復の兆しがまったくないが、河澄の視力は、今、戻りつつある。
失っていた光が、彼女の目に映る。
急激な光に目を瞑ってしまい、ゆっくりと、まぶたを持ち上げた。
そこには。
半身が使いものにならないくらいぼろぼろの姿で、江戸屋扇が立っていた。
「……江戸屋、くん…………?」
「よう、悪いな。こりゃあ試合放棄って形になるかもしれねえ」
血が滴り落ち、足下の血溜まりに波紋を広げた。
……血の量が多過ぎる。
しかも、左半身が黒焦げで、瓦礫の破片が大量に腕に突き刺さっている。
……瓦礫を、受け止めたから?
「これで反則負けになっちまったら……悪い。母親とは、会えなくなっちまうな」
「そ――そんなの、今はどうだっていい!」
「どうだっていいって、お前な……せっかく謝ってんのによ……!」
「左目!」
江戸屋は、ああこれ、と軽く、指で片目を差した。
瓦礫を受け止めた際、顔の半分が激しく擦れて、肌とは認識できないくらいに黒く染まってしまったのだろう。
左目は当然、潰れていた。
「右が見えてんだ、問題ねえよ――ったく、ここまできちまったんだ、ついでにあいつも一緒に止めておくか。この先に移動したのが見えたからな。塔の最上階……逃げ道はもうねえ」
半身が使いものにならないような大きな怪我を背負いながら、江戸屋扇は前へ進む。
「もうじゅうぶんだ。ミト、お前はもう、いつ逃げてもいいんだ」
それは江戸屋扇なりの、危険だから逃げろというメッセージだったが、さすがに河澄でも逃げるのは忍びなかった。
こんな場所で、そんな大怪我をしている、パートナーを、一人で行かせるわけにはいかない。
「相手は渡會だろ? こんな怪我くらいで俺があいつに負けると思うか?」
……分からなかった。
江戸屋の心は折れていないし、自信があるがゆえの強気のセリフなのだろう。
だが、心が折れていないからと言って体の方に余裕があるとは限らない。
彼は、いつ倒れてもおかしくないはずなのだ。
「わたしも、行――」
突然、新たな瓦礫が降ってきたのかと思ったが、違う。
瓦礫よりも大きい。
塔全体が揺れたような衝撃……その大きさに備わった、重さ。
立ち塞がっているのは――、
渡會陽羽里を守る、最後にして唯一の騎士だった。
「ここで、お前が出てくるか……――明石ぃッ!」
「ここから先へは通さないよ、江戸屋君」
初めて、彼らは向き合った。
拳を握り締めて。
たった一つの、守りたいもののために。
――相手を確実に叩き潰すと決心をして。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます