第30話 vision

 眼前に迫るおもりは河澄の鼻先をこすって地面に落下した。


「……?」


 と違和感を抱いた対戦相手が、仕切り直すため鎖を引っ張りおもりを引き寄せる。

 僅かな間隔……その隙に河澄は別の小窓から隣の部屋へと移動した。


「あわっ、とと、うぁ!?」


 着地に失敗し、足がもつれて派手に転ぶ。

 ドレスを身につけている部分は無事だが、剥き出しになっている膝や脛からかすり傷による血が出てしまっていた。


 痛む足を手で押さえながら立ち上がり、距離を取ろうとするが、じゃらじゃらと鎖の音が河澄よりも早い速度で追ってくる。


 一定の距離から振るわれた鎖の先端のおもりが、河澄の一歩手前でまたもや地面を穿った。

 狙い通りに放っているはずなのに毎回、河澄まで届かずに鎖がぴんと張ってしまう。


「……なるほどね、どうやら鎖が少し短いみたい」


 分かったなら修正できる……だが、そう上手くいかないのが使い慣れた自分の武器と同じ形状をしているレプリカの落とし穴だ。


 とは言え。


 三分の一の確率で、振るったおもりは命中するだろう。


 めきめき……ッ、と嫌な音が聞こえるほど強く、河澄の肩におもりが落ちた。

 体重が片側に寄った彼女の体が、ばたりと真横に倒れてしまう。


「ッ、ん――――――あぐッッ!?!?」


 反対の手で肩を押さえて悶える。

 激痛に喋る事も、耳から入る音を言葉として認識できなかった。


 痛い、逃げたい、嫌だ、二度もこんな目に、遭いたくない! 

 内面ではそんな言葉が繰り返されている。

 呼吸も荒くなり、目尻には涙が溜まっていた。


 ひゅんひゅんと回るおもりが、今度は河澄の胴に叩きつけられた。

 が、彼女はうっ、と声を漏らしただけで、肩に当たった時のように激痛を感じてはいない。


 なぜなら胴は防護スーツ……ならぬドレスに守られているからだ。

 もしも、ドレスが客受けのためでなく彼女たちの安全を第一に考え、全身に備わっていたのならば、河澄がここまで苦しむ事もなかったのだ。


 観客席で誰かが呟いた……。

 可哀想だな……。


 その言葉が出たのは、この島の者ではないからという証拠であった。


「ギブアップすればこれ以上の攻撃はしないわ」

「ぎ、ぶアップ……を」


『河澄、おい、さっさと動け! ちょっとだ、顎を揺さぶればいい。脳が揺れて、弱い力でもじゅうぶんに効くはずだ!』


 こんな状況でも江戸屋は無茶ぶりを要求してくる。

 一旦距離を置け、ではなく、立ち向かえと言ってきたのだ。


 こっちの気も、状態も知らないで……! 

 それでも江戸屋への不満がエネルギーになったのか、河澄が立ち上がった。

 そして指示通りに相手の顎を狙うが、


 ひょろひょろのパンチはあっさりと避けられた。

 当然だ、分かっていた。


 江戸屋扇なら一発で決まる攻撃だ。

 だが、今戦っているのは河澄ミトであり、彼女は最初から気づいていた。


 喧嘩の天才である江戸屋扇から正確な指示を出されたところで、河澄ミトはその指示に体が絶対に追いつかないと。

 知っていながら、言わなかった。


『あんなパンチで当たるわけねえだろ! お前――ちゃんとやれよ!』


 本人の強さがパートナーを勝たせる事には直結しない事を分からせて、馬鹿にするためだ。

 ほおら見ろ、と言いたかった――たったそれだけのためだが、あの自信に満ちた顔を歪められるのならば、こんな肩の痛み、我慢くらいできる。


「つぎ、は――」


『おもりの側面を手の平でいなして相手の懐に入れ。鎖を掴めばいい、そうすりゃおもりを振るわれる事もなくなるはずだ』


「この肩、で……? 本気で言ってるの?」


 直撃を受けた片方の肩と腕はまったく動かない。

 そんな状態で相手の懐に入り、鎖を掴めという指示は実際に戦う河澄の事を考えていなさ過ぎだった。


『できるできねえじゃねえよ、やるんだ。じゃねえとお前は、負けるぞ!』


 河澄はひとまず鎖を掴んだ。

 おもりを振るわれるのは厄介だからだ。


 だが、懐に入るという事は竜巻の中心のようにおもりに対しては安全地帯かもしれないが、相手の拳と蹴りを喰らう危険性がぐんと高まる。


 腹部に強烈な蹴りが叩き込まれ、河澄の体が建物内から屋外へと飛ばされた。

 胃の中のものを全て吐き出しそうな威力だったが、ドレスのおかげで軽減されていた。

 河澄は痛む肩を押さえながら、屋外に出た事で開けた逃げ道をひたすら走る。


「江戸屋くん……わたしは、君じゃないんだよ」



「酷い指示ね」


 客席には聞こえていないが、千葉と桧木には両者、ナビゲーターの指示が同時に伝わっている。

 主催者である千葉にだけ許された特権に、桧木も一枚噛ませてもらっていた。


「あんな指示じゃどう動けばいいのか分からないし、動けたとしてもすぐその先の指示が必要になる動きよ。全部、頭の中に自分なりの動き方があるのね。でも、あの子に伝わるように指示できてない。というか指示を全部聞いて実行したからって、彼が望む結果が得られるとは思えないんだけど……」


「そうだの、扇の悪いところは自分と同じパフォーマンスを仲間に期待しているところだろうな。誰もがあいつと同じ動きができるわけではないからのう、指示がいくら正確だからと言ってもポテンシャルがなければ実現できないものだ。勝利なんて尚更、難しいだろうのう」


「……あの二人、負けるのかな」

「濃厚だの。相手の方は指示も正確、互いに良く理解し合っている。理想的なパートナーだ」


 しかし、両者共にまだドレスのエフェクト機能を使用していない。

 殺傷系ではないにしても、そろそろ使用する頃合いだ。

 負けが見えてきている江戸屋たちは使いたいはずだろう。


「……ここがチャンスだ、根本的な事に気づかんと、お前はここで負けるぞ、扇」



 ――わたしは君じゃないんだよ。

 その意味を考えている内に次の展開が起こっていた。

 深く考えている暇もない。


「河澄! その先の曲がり角、いるぞ!」

『え、もう回り込んで!?』


 しかし、足を止めた河澄は後ろから追ってきている相手の足音を聞いた。

 迷った挙げ句、一か八か、飛び出した彼女は曲がり角の先に、誰もいない景色を見た。


『……江戸屋くん、いくらわたしが指示通りに動けなかったからって、腹いせに嘘をつくのはちょっと……』

「なにやってんだよ! お前今、攻撃されてんだぞ!?」


 江戸屋の目には河澄におもりを投げつけている相手の少女の姿が見えていた。

 正確にはディスプレイの映像を見て、江戸屋が河澄に見たままを伝えている。


 しかしその映像の中では、おもりは河澄に当たらず、すり抜け、地面を割っていた。


「…………? なんだ……?」

『江戸屋くん、攻撃されてないんだけど?』


 カメラ越しに、非難するような彼女の目が向けられた。

 それによって、観客の一部が盛り上がる。


 攻撃されていたのは江戸屋が見た幻だったが、後ろから追われているのは事実だった。

 戸惑いながらもディスプレイを確認すると、河澄の後ろにもうすぐそこまで迫っている相手の姿が見えた。


「逃げろ! 走れ!」


 そして対戦相手の後ろには……もう一人。

 まったく同じ姿の、警察帽子の少女が走っていた。


「な……にが、起こってんだ!?」


 相手が手負いの河澄に追いつくのは簡単だった。

 逃げる河澄の上を飛んで、空中で一回転、追い越されたと気づいた河澄の目の前に着地する。

 そして、おもりが投げつけられ、しかし距離感を誤ったために届かず、地面が割れた。


「河澄、後ろは!?」

『え、後ろ!? そんなの見てる暇ないよ、だって目の前に』

「いいから誰もいねえか確認しろ!」


 敵を目前にしながら後方に注意を向けるのは愚策であるとは江戸屋も自覚していたが、知っておかなければならない。

 江戸屋の疲れから見た幻なのか、それとも意図的に見せられている誰かの思惑の内なのか。


『誰もいないってば!』

「でも、映像の中には河澄を飛び越えて着地するもう一人の女が見えるんだよな……」


 そして、映像の中の少女が重なった。

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