第28話 start

「……うん、頑張って」

「それをもっと大きな声で言ってやればいいんだよ」


「いいえ、ここで甘い誘惑を、あの子に与えるわけにはいかないから。……ありがとう、江戸屋君。ここまできてくれて。私たち親子を結びつける約束をさせてくれて。……あの子のパートナーになってくれて」


 別に、河澄親子のためではない。

 だが、口に出したその言い訳は、誰が聞いても嘘だと分かるだろう。

 それを指摘しないのは、江戸屋を知った上での母親らしい対応だった。


「江戸屋君、あなたはいいの? 優勝して良い思いをするのはミトだけよ? あなたは一体、どんな動機で優勝を目指しているの?」


 ここでパートナーのためと言えたら、この恋愛島プロジェクトを代表できるベストカップルになり得たのかもしれないが、二人の関係性はそんな真っ直ぐに進むほど素直ではなかった。


 彼は、既にもう報酬を貰っている。

 貰っているのだから、今度はそれを返す番だ。


 どんなに自分が人間の最底辺だろうとも、貰った恩義は必ず返す――それができなくなった時、そいつはもはや人間ではない。


 路地裏に捨てられたゴミと同じだ。


 そんな事情を河澄の母親に言う必要はない。

 だからいつも通りにこう答えた。


 それだけでは自分だけしか守れないともう自覚していながら――。


「……強さを、求めて」




 試合開始一〇分前。

 ――江戸屋は長く、しかし実際には短い睡眠から目を覚ました。


 ここは……控え室のベンチの上だ。

 蛍光灯が眩しくて、手をかざして遮光する。


 数秒じっとしてから、体を起き上がらせた。

 いつもなら体が鈍らないように多少の準備運動をするのだが、今回、江戸屋の役目は河澄への指示である。

 使うのは頭であり、体ではない。


 だから一眠りし、頭を休めようとしたのだが、鮮明な夢のせいで逆にどっと疲れたような気がした。

 重い体をうんと伸ばして徐々に解していく。


 すると、控え室にある小さなディスプレイには次の対戦相手が出ていた。


 江戸屋・河澄ペアの相手は、銀髪・警察帽子ペアであった。


 実際は二人の本名が並んで表示されているのだが、興味のない江戸屋の目には見えない。

 どうせ、倒す相手だ。

 名前なんて覚えたところですぐに忘れる一過性のものである。


「河澄……は、まあ、待ち合わせの場所に行けばあいつもいるだろ」


 控え室は二つある。

 江戸屋が今いる、選手全員が利用できる休憩所のような一室と、舞台に繋がっている、試合開始直前にしか入れない一室。


 そこはまさにこれから出場する選手しか入る事ができないトップシークレットと言える一室である。


 その部屋はドームの四隅にあり、江戸屋と河澄はAと表示された一室、対戦相手はDと表示されている一室へ向かう決まりだ。

 徒競走のコースのように一つの通路でぐるぐると移動できるため、選手同士がすれ違う場面は多かった。


 ――こんな風に。


「あら、お久しぶり」


 河澄、陽羽里と同じドレスを着ている。

 ただ、違うのはその色だ。


 警察帽子を被る彼女のドレスは真っ黒だった。

 そして前者の二人とは似ても似つかない膨らんだ胸が特徴的だ。


 江戸屋は立ち止まった彼女のその横をすうっと、通り過ぎた。


「なによ、つれないわね」


 彼女の腕には鎖が巻き付いている。

 それを見逃す江戸屋ではないし、風を切る音が後ろから聞こえて、振り向く江戸屋でもなかった。


 かつて彼女と戦った時のように、江戸屋の手の平が彼女が放ったおもりを掴む。

 掴んでから初めて、江戸屋が振り向き、彼女に言葉を返した。


「試合外乱闘を望むのか?」


 当然、選手同士が試合以外で戦う事は禁じられている。

 女子の戦力ダウンのために男子が危害を加える事が予測されたからだ。


 口喧嘩くらいならば厳しく禁止されてはいないが……それがヒートアップして実際に手を出してしまえば同じ事だ。


 ただ、今回に限って彼女はお咎めなしだろう。

 おもりのついたその鎖は言い逃れができない凶器だが、向けた相手が江戸屋となれば、攻撃力もあってないようなものだ。


 現にこうして受け止められている。


「いいえ、試合外ではなく、試合であなたたちを負かしてみせるわ……。あなたは無理でも、パートナーのあの子なら、簡単に沈める事ができるからね。教えてあげる。……あなた自身が強い事は、他の誰かを勝たせる事に直結しないって事を」


「そうかよ」


 江戸屋の視線が一瞬、彼女の後ろに注がれた。

 なまじ戦闘慣れしている彼女はその視線に気づき、反射的に後ろを振り向いてしまう――その隙に、江戸屋が握っていたおもりを彼女の顔面に投げつけた。


「え」


 命の危機を予感させるゾッとした感覚に振り向こうとしたが、体が追いつかない。


 もしも迫るおもりが顔面に直撃すれば、江戸屋は試合外乱闘によって相手選手を傷つけたとして退場処分になるだろう。

 なのに、彼は一瞬も躊躇いを抱かなかった。


 なぜなら、彼の視線が彼女の後ろに向いたのは、フェイクではなかったのだから。


 顔面に当たる直前、おもりが手の平に収まり――切らずに、ぐに、と手首が嫌な曲がり方をした。


 声にならない悲鳴を上げ、手首の痛みに立ちながら悶絶する。

 そんな、後ろから飛び出してきた彼は、涙目になりながらも江戸屋を睨み付けていた。


「みーちゃんに、なにしやがる……!」

「お前が守るって分かったから投げた。感謝してほしいな、俺はその女が大切にしているおもりを返しただけだぜ?」


 思いの外、手首のダメージが大きく、銀髪の彼はいつまでも空いている片手で痛む手首を押さえ続けていた。


 江戸屋も飛び出してくるとは分かったが、受け止められるかは分からなかったのではらはらした。

 選手ではなくナビゲーターならば怪我をしたところでそう試合に影響する事はないだろう。


 痛みを我慢するか耐え切れなくなるかは銀髪の根性次第である。

 すると、彼女の方が銀髪を屈ませ、手首を観察する。


「それ、見せてみな……大丈夫、氷を当てて包帯を巻いて固定すれば痛みも和らぐはず……」

「うん、ありがと、みーちゃん」

「以前とは全然違ぇな、大分打ち解けてんじゃねえか。弱いそいつで満足したのか?」


 江戸屋が彼を鼻で笑った。

 瞬間、彼女が立ち上がり、ずんずんと江戸屋の眼前に迫ってくる。


「今の言葉、取り消せ――彼は弱くなんかない。……あんたなんかより、よっぽど強いわ」


「じゃあ、これから示してみろよ。あいつの強さは喧嘩がどうこうじゃねえ……だろ? 俺にだってそれくらい分かる。ここであーだーこーだと口で言い合っても仕方ねえ、これから俺たちは戦うんだ。ぶつかり合えば、おのずと勝敗が決まるだろ?」


「みーちゃん、いいよ、だってオレは弱いんだ」

「そんな事は……」


「あるよ。だってまだ、あの江戸屋扇を目の前にすれば足が震えちゃうからね」


 彼の足は小刻みに、しかし言われなければ分からない程度でしか震えていない。

 だとしても対戦相手に既にもう怯えているというのは、この時点で勝敗がついたようなものではないか。


 だが、彼が彼女の手を握ると、震えていた足がぴたりと止まった。


「オレはどう足掻いたってあいつには勝てない……でもね、君を――みーちゃんをこの試合に勝たせる事はできる。……約束するよみーちゃん、オレは負けない」


 格好良いセリフだが、対戦相手に言われるとなると、そう易々と有言実行させるわけにもいかない。

 誰もがそうであるように、江戸屋にも負けられない事情がある。


「じゃあ試合でな」


「待て、江戸屋扇」


 と、江戸屋が踏み出した足を止めるように、前に立ち塞がる銀髪。


 彼は江戸屋の視線に気圧されそうになっていたが、なんとか口を開く事ができていた。


「オレの、名前は――」

「聞かねえよ。興味ないんでな。聞かされたって覚えやしねえ」


 そうして、一組と一人はすれ違う。

 試合開始まで、もう会う事はないだろう。


 試合が開始しても、江戸屋は今の二人と顔を合わせる事はない。



 Aと書かれた控え室に入ると、既に河澄がスタンバイしていた。


 ベンチに座って静かにしているので緊張しているのかと思いきや、どうやら瞑想をしているらしい。

 いい傾向だ、と思いかけたが、彼女にすっかりと騙されていた。


「逃げたい逃げたい逃げたい逃げ出す逃げ出してみようかな全部台無しにして寝ちゃおうかなそうしよう目を閉じて夢の世界でだらだらだらだらお母さんと一緒にだらだらだらだら――」


「怖ぇよ。なにしてんだ、聞こえるか聞こえないかくらいの声でぶつぶつと」


「実際に逃げ出せないから言葉に出して発散してたの。一万回も逃げたいって言えば気持ちも楽になるものだから」


 根本的に逃げたいという感情からは逃げられないらしい。

 まあ、外から見ると悪霊にでも取り憑かれたようだが、それで気が楽になるというのであればした方がいいのだろう。


 幸い、控え室には江戸屋と河澄しかいない。

 すると控え室の扉がノックされ、係員の男性が江戸屋を呼んだ。


 ナビゲーター専用の部屋へ行く必要があるためだ。


「じゃあな、河澄」

「お母さんとだらだら猫とじゃれじゃれだらだら――え? ああ、うん、いってらっしゃい」


 欲望を口に出す事で逃げちゃダメだと言い聞かせているのだろうか。

 にしてもだらだらが多過ぎる。


 よほど、なにもしたくないらしい。

 そう言えば島での生活の内、休日は家でごろごろしている事が多かった――まさに今彼女が口に出した猫のように。


「あ、江戸屋くん」


 忘れ物、みたいな感覚で河澄がかけた言葉は。


「全部任せちゃうから、言葉通りにわたしを勝たせてね」

「……お前、随分強かになったな……人の弱みを見せたらすぐにこれだ。いい性格してる」


 河澄を勝たせないとならない江戸屋の本心を彼女は知っている。

 それが分かった途端、河澄は遠慮をしなくなった。

 自分が必要だと知った彼女は利用できるものは全て利用する。


「江戸屋くんにおんぶに抱っこでわたしはお母さんに会えるもん」

「…………あー、ったく。分かったよ。その代わり、お前は俺の指示をきちんと聞けよ?」


 正確な指示とそれに対応したずれのない動き。

 ミスがなければ勝てる勝負だと思い込んでいた。


 いや、実際、ミスがなければ勝てる勝負である。

 対戦相手が誰だろうともそれさえ徹底していれば負ける方が珍しいだろう。


 それは多種多様な、どんな競技だろうとも当てはまる。


 ただし、全てを完璧にこなせれば。


 そして誰もがこう言う――




『それができれば苦労しない』

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