第18話 family
動き自体は大した事ない。
運動神経も良いらしいが、同年代に比べればの話。
江戸屋と比べたら明らかに劣る動きだ。
それを自覚してか、狙う場所はほぼ当たれば一撃で相手を沈められる場所に限定している。
当たった後の事など考えていないかのような……。
「ミト、怪我は?」
「大丈夫……」
「お前、前髪はどうした? なんだよこのアンバランスな感じ。ちょっと待ってろすぐに整えてやるから」
言いながらハサミを取り出し、瞳に被っていた分の前髪を大胆に横一文字で切った。
「……え、」
視界が開けた事によって自分の身になにが起きたのか理解したらしい。
河澄が間抜け面を晒していた。
「おし、これで姉貴に似たお前の可愛い顔がよく見える」
「おば、おば、ば、叔母さん!? こんなばっさりいくなんて……! 酷い、よ……っ」
「慣れろ。前髪で目を隠すから気持ちが暗くなるんだって言っただろ。……落ち込むなよ、オシャレな髪留めでアレンジすればいいだろ」
腰のポシェットから掴み取りのように大量の髪留めを取り出し、河澄の前に積もらせた。
「全部やる。だからめそめそすんじゃねえよ」
「…………うん」
――江戸屋は、二人の間に入る事ができなかった。
現れた女性の大胆かつ早い行動に呆然としてしまったのもある。
いきなりやってきたと思えば河澄をあっという間に手懐けてしまった。
保護者なのだろうが……しかし、なら母親は? 父親は?
人の家の事情に首を突っ込む気はないため、答えが聞けない疑問だった。
ただ、乱暴で雑な女性だが、河澄が心を開いて認めているのは確かだ。
頭を撫でられ、安堵からの笑みを無防備に晒している。
近くに江戸屋がいるという事も忘れているのかもしれない。
「おい――」
「千葉のジジイから聞いてたんだ。だからお前を知っていた」
一瞬、訳が分からなかったが、さっきまで無視していた江戸屋の質問に答えたのだ。
それにしても、最初からずっと、この女にペースを握られっぱなしだ。
「逃げてきたんだろ? この島に」
江戸屋の心音が跳ねた。
千葉から聞いていたのであれば……江戸屋が人工島にくる前の出来事など、この女が知るはずもないが……。
いや、千葉なら、プロジェクトに参加する人間の経歴は調べるだろう。
そもそも江戸屋は入学試験も入学金も必要なく寮がある学園へ通う事ができる、と仲間から聞かされ、勢いのまま承諾し、気づけば眠らされてこの島にいたのだ。
今思えば野蛮な連行だが、江戸屋がいた世界では普通の事だった。
気を抜けば拉致されるのは日常茶飯事である。
だからこそ、身を守るための『強さ』が必須だったのだ。
「…………」
「ポーカーフェイスは苦手みたいだな?」
「否定はしねえ。つーかべらべらと……あのジジイにはモラルがねえのか」
「私が無理やり聞き出したから責めないでやんなよ。陰口なら好き勝手言ってもいいが直接どうこうするのは私が許さん」
「てめえの言う事を、なぜ聞かなくちゃならねえ」
「別に、聞かなくてもいいけどな」
意外とすんなり退いた女に不気味さを感じた。
「お前の経歴を知っているって事がどういう意味なのか、分からないなら恩知らずだな」
「……あ?」
「逃げてきたお前はそれで安全を確保したと思っているかもしれないが、大切なものを野放しにしてるって事に気づいていないのか?」
江戸屋が逃げた事で相手の矛先がこっちに向けば狙い通りだが……。
行き先は人工島だ、追いつけないと知って諦めるのが理想だし、江戸屋はそうなるだろうと思っていた。
だが、江戸屋からの報復がないと分かって狙いが再びあの二人に向かってしまえば、わざわざ人工島まで距離を取った意味がない。
しかも、手を伸ばしてもすぐに届く事ができない。
江戸屋を誘き出すためではなく、単なる憂さ晴らしで行動されてしまえば……。
今頃、江戸屋の大切なものは野放しになっているはずだ。
「そんな顔すんなよ」
自分がどんな表情を浮かべていたのかは分からなかった。
「分かったなら恩はきちんと返しておくべきだ」
「千葉……あいつが、なんかしてやがんのか……?」
「あれでも七〇年生きた男だ、参加した子供の世界はきちんと守るはずだ。ま、実際守り切れてるかは知らねえけど。帰ったらどうせ通り道だし、見といてやろうか?」
本能がこの女に借りを作らせるわけにはいかないと訴えていた。
意地やプライドの問題ではなかった。
単純に、この女を信用できないのだ。
「二度と近寄んな」
「やだね。お前の母親と妹とは個人的な友人なんでな。会うのは私の自由だ」
既に江戸屋のパーソナルエリアはかなり浸食されていた。
「そうだ、ミト。お前も連れてってやるよ。こいつの弱みも握れるかもしれねえぞ?」
「……うん」
「うんじゃねえよ、なに人の家に上がり込んで弱点探そうとしてんだ――、……そもそも」
母親と友人関係なら知っているだろうが……家に江戸屋の私物なんてほとんどない。
家の間取りももう忘れた。
短い期間で近所の家を転々としていたし、もう今の家だって変わっているかもしれない。
連絡先も知らない、向こうも江戸屋の番号を知らない。
直接会う以外に連絡の取りようがなかった。
これは江戸屋が一方的に切ったためだ。
鬱陶しかったからだ。
まともに家に帰らず、仲間たちの溜まり場で夜を明かして喧嘩に明け暮れていた毎日。
強さだけを求め、天井の見えない上を目指し続けていた。
気づけば、喧嘩において圧倒的な強さを持つようになっていた。
でも、ただそれだけだったのだ。
「……あの家に、俺の居場所はねえよ」
「そういや、引っ越す気はないって言ってたぜ?」
引っ越す理由が江戸屋の喧嘩相手からの襲撃だったので、その危険性がなくなったからこそ引っ越さなくなったのならば、江戸屋の狙いは果たせたわけだ。
それでも念のため、江戸屋が去ってから一度くらいは引っ越してほしかったが。
「親の心、子知らずだねえ」
まあ、無理は言わない。
片親で朝から晩まで仕事をしても経済的に厳しいのだ、そうぽんぽん引っ越しができる余裕もない。
物が少なく近所だから知り合いのツテで格安で引っ越せていたが……それでも頻繁におこなっていれば貯金も底をつく。
そういえば妹も来年は受験生だったか……、多分、だったはず、と妹の年齢も曖昧だ。
距離を取り過ぎていた弊害だ。
「で、お前はどうすんだ?」
「質問の意味が分からねえ」
「心配をかけた家族の元へ帰るのか? 帰らねえのか?」
「帰らねえよ――興味本位で首を突っ込んでくんじゃねえ」
「ああ、そう。じゃ、私らは帰るか、ミト」
河澄の手を引き、停めていた車の助手席に乗せた。
それは放り投げたと言うべきだろうが。
江戸屋はそれを見送るだけだ。
「意外だな、止めないのか」
「…………止めて、」
「ああ、ミトがお前に心を開くわけねえよな。おっ、自分で気づけたのか、成長したもんだ」
「……何様なんだよてめえは」
「お前より年上だ、敬称をつけて喋らないとぶっ飛ばすところを好意で免除してやってんだ、ありがたく思いなよ」
滅茶苦茶だ。
……どうやら、河澄をこの島に送り出したのも、この女の仕業らしい。
あの引っ込み思案な河澄を、無理やり……――保護者とは思えないやり方だ。
谷に突き落とすにしても、高過ぎるだろう。
「…………」
ガラス越しに薄らと見えた助手席にいる河澄の横顔を見て、引き止める気などなくなった。
――安心し切った顔をしやがって。
俺と離れるのがそれほど嬉しかったのか……、そんな女々しい感情が胸中で渦巻いた。
「じゃあな少年、二度と会う事はないだろうね」
そう最後に言い残して、扉が閉められた。
エンジン音が鳴り響き、二人を乗せた車が江戸屋から遠ざかって行く。
いつもはバックグラウンドで、主張をしていない波の音が、今だけはやけに騒がしい。
まだ、日は落ちていなかった。
濡れた制服は、もう渇いていた。
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