第17話 gun
河澄は海へ向かっているのに速度をまったく落とさず、逆にさらに加速した。
足が地面から離れ、彼女の体が江戸屋の視界から消え、代わりに水飛沫が舞い上がった。
海岸から下を見ると、海を泳いでいるのか、溺れているのか、判断がつかない動きでまったく前に進めていない河澄がいた。
やがて、彼女の体が小さな波に飲まれていく。
何度か浮き沈みを繰り返したが、一度沈んでから一向に上がってこない時間が長く続いて、江戸屋の腰がやっと上がった。
「げほっ、がほっ――」
水中で全ての息を吐いていた河澄を引っ張り、なんとか水面へ顔を出す事に成功した。
海岸に引き上げると、灰色の地面が滴る水によって黒く変色していた。
水を吸ってしまって重たい制服を脱ぐ。
そこでやっと、河澄の呼吸が整った。
「……お前、泳いで帰ろうとしたのか? バカじゃねえのか」
「た、たとえ、無謀でも……」
河澄は一度溺れかけ……いや、あれは確実に溺れていた。
それでもまだ、視線は都心へ向いている。
「泳いで帰るのが一番、追いつかれにくいから――」
「やっぱ、お前はバカだ……こんな時に行動力を発揮しやがって……普段からそうしろっつうんだよ。……いいから、帰んぞ」
「帰らない……絶対に帰らないよ……!」
「誘ってるわけじゃねえよ、お前の意思なんか関係ねえ」
河澄の手首を掴んで引っ張り、立ち上がらせる。
「はな、して……!」
「離すか。今みたいに入水自殺されたら困るんだよ」
「……どうせ、わたしを表舞台に立たせて利用したいから、でしょ……」
「ああ、そうだぜ? それ以外に俺がお前を連れて帰る理由があるとでも?」
もしもパートナー制度によって組まされていなくて、この場に居合わせたなら。
江戸屋は溺れているかどうかも分かりづらい河澄の事など、放っておくだろう。
「このままお前が辞退して、俺が参加できなくなったら周りに逃げたと思われるだろ。そのせいであいつらになめられんのは我慢ならねえ。だからお前には最後まで付き合ってもらうぞ」
「江戸屋くんの都合に、わたしを巻き込まないでよ……知らないよ、勝手になめられてればいいでしょ……」
「女には分からねえだろうけどな、一度なめられ出したら、終わりなんだよ」
「分からないよ……だって、わたしは女だもん。だから、関係ないよ」
すると、引っ張る手に抵抗感があった。
江戸屋の力に負けないように、河澄も力を入れているのだ。
だが、軽過ぎて少し力を入れれば河澄の体を引っ張る事ができる。
彼女の抵抗はなんの障害にもならなかった。
「もう、嫌なの……! 帰りたいの――だから、はなして!」
「うるせえ。つべこべ言ってねえで」
進行方向から振り向いたその時だった。
江戸屋の視界が一瞬だけ、明滅した。
そして頬に感じる熱と、じんじんと痒みにも似た、微かな痛み。
河澄の手を取ってはいたが、片手だけだ。
彼女のもう一本の手は自由に動く事ができる。
だからと言って、まさか――こいつがビンタをするなんてな。
これまで見た事のない、強気な表情を浮かべていた。
「……力でどうこうしようとすんなら、俺も遠慮しなくていいよな?」
江戸屋の足が河澄の足を蹴り上げ、あっという間に背中を下にして倒す。
逃げられないように片手で腕を地面に縫い付け、もう片手で彼女の前髪をかき上げるように持ち上げ、頭を地面に固定させる。
彼女の瞳がよく見える。
だが、今日の河澄は、決して逸らしたりしなかった。
「……初めて会った時みてえだな」
初日から早速荒れてしまった二人の部屋を思い出した。
「……あの時、こんな島、すぐ出て行ってやるって、思ってたよ――」
でも河澄が帰ろうとしなかったのは、方法がなかった、というのもあるだろうが、この島で送る日々が、時間が経つに連れて居心地の良いものになっていたからであった。
江戸屋との微妙な距離感も、それはそれで、日常になりつつあった――なのに。
「平和だったのに、なにも怖い事なんて、なかったのに――それを、壊さないでよ……!」
変化なんてしなくて、このままで良かった――。
江戸屋が全てを背負い、暴れるだけなら河澄も付き合うつもりだった。
だけど、江戸屋の代わりに戦場に出るマリオネットになるのは我慢できなかった。
その先には傷と痛みしかないと、彼女の本能が警鐘を鳴らしていたのだから。
「もう、嫌だ……、もう、帰りたい、よ……!」
助けて……と。
言葉にはしなかったが、確かに河澄はそう言っていた。
……誰に? 絶対に、江戸屋ではない。
それについて文句なんてなかったし、自業自得だと自覚をしていても、胸の風通しが良くなったのは、どうしてだろうか?
その時、後ろに一台の車がブレーキ音を鳴らして停まった。
ごく普通の一般的な軽自動車だ。
運転席から下りてきたのは、二〇台半ばに見える、女性だった。
……誰かに似ている気がしたが……、しかしすぐには思い当たらなかった。
かけていたサングラスを額に乗せる。
見た目は格好良い、と誰もがそう評価を下すだろう容姿をしている。
強気な表情と瞳――その瞳を、今まさに見たばかりだった。
「ごめんな、ミト……まだお前を、こういう場に送り出す時期じゃなかった」
「え、あ……、叔母、さん……」
「帰ろう。――お前を、連れ戻しにきたぜ」
快活な笑顔と共に、手の平に収まる拳銃が江戸屋に向けられた。
「…………は?」
「さて、不良君。うちの可愛い姪っ子から、手を離せ」
じゃねえと撃つぞ?
言いながら、彼女の指がいとも簡単に引き金を引いた。
「なーんてな」
暗転していた視界を開けば、拳銃の銃口は上へ向いていた。
もちろん、引き金を引こうが弾は出なかった。
元々入っていなかったのではなく、銃そのものがまず本物ではなかった。
弾が出る仕様ではない。
よくよく考えれば、人工島とは言え、日本から独立しているわけではない。
銃刀法違反はきっちり適応されている。
そういう法律を度外視する側の人間だとしても、まさか日中、しかも監視カメラが多数あるこの場所で拳銃を撃つとは考えられない。
モデルガンだというのはすぐに気づいても良かったはずだ。
だが気づけなかった……それは銃を握る女性が、もしも本物を握っていたとしても躊躇いなく撃つくらいの迫力があったからだ。
「あら、意外と可愛いじゃん、江戸屋扇くん」
「…………なんで知ってんだよ」
「ぎゅっと目なんか瞑っちゃって、さすがに君でも拳銃は恐いみたいで安心したよ」
「おい、質問に答えろ、なんで俺の名前を知って――」
「ミトから手を離せ、と私は言ったはずだけど?」
カツカツと地面を鳴らしていた高いヒールのまま、江戸屋に向かって一直線の蹴りが繰り出された。
江戸屋にとっては避ける事も受け止める事も容易い慣れた攻撃だが――彼女の蹴りには他とは明確に違う特徴があった。
江戸屋でなければ、避けられずに一生ものの怪我を背負っていたはずだ……それを、この女はまったく躊躇なく……。
咄嗟に後退して難を逃れる江戸屋。
「おっ、やっと離したか」
「そりゃあ、な。一直線にヒールの先っぽが眼球に迫れば」
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