第7話 escape
一人の男子が、二人の間のテーブルを蹴り上げた。
河澄の弁当がこぼれ、中身が盛大に散らかってしまった。
テーブルが転がり、パラソルが倒れ、直射日光が二人を遠慮なく突き刺した。
「……ぁ、ぅ」
「な――ッ、なにすんのよ、あんたらッ!!」
「どけどけ、女には勿体ねえ席だ」
そうだそうだー、と蹴り上げた男子生徒の後ろから、同調するヤジが飛んでくる。
「はぁ!? 席なんてたくさん空いてるでしょ。そこを使えばいいじゃない!」
「そりゃ使うぞ? もちろん。俺たちが言ってんのは、女ごときがパラソルの席を使ってんじゃねえ、って事だ」
「ふッッざけんじゃ……ッ」
手を上げようとした陽羽里の手を、河澄が止めた。
「……も、もう、戻ろうよ……陽羽里ちゃん……っ」
こぼしてしまったおかず収めた弁当箱を抱え、
「男の子に逆らうのは、やめておこう……?」
「女子が肩身狭い思いをするこの風潮を受け入れるわけ? あたしには無理ね。威張ってるこいつら自体、大した事ない人間のくせに、従う気にはなれないわ」
「この女……ッ!」
「あら、図星を突かれたわけ? どうせ男子の中じゃ威張れないから力の弱い女の子を狙って憂さ晴らしでもしてたんでしょ。器が小さいわね」
陽羽里の暴走を止めようと制服の袖を引っ張る河澄だが、陽羽里はびくともしなかった。
彼女は元々、女子が男子よりも低い立場に置かれたこの風潮には反対していたのだ。
既に諦め、受け入れている河澄とは違って。
陽羽里は一人で、納得がいかない状況では、こうしていつも抗っている。
「調子に乗ってんじゃねえぞ……ッ!」
「あんたらこそ。あたしたちのサポートがあってこそ輝けると思い知りなさい!」
「うるせぇ!!」
どんっ! と肩を押され、陽羽里が耐え切れずに尻餅をついた。
大した力を入れていないのに吹き飛んだ様子を見て、男子生徒が不気味に笑う。
「はっ、やっぱり弱ぇじゃんか」
尻餅をついて起き上がらない陽羽里に気づき、河澄が慌てて駆け寄った。
「陽羽里ちゃん!」
彼女の闘志は萎えてはいなかったが、顔色が悪かった。
暑さのせいではない、ぷつぷつと嫌な汗をかいている。
必死になにかを我慢しているような表情が隠し切れていなかった。
日頃から明石が傍にいるのはパートナーとしての義務と同時、陽羽里の緊急事態においてすぐに対処できるから、なのかもしれない。
陽羽里は体調を崩して明石に背負われる事が少なくない。
時間が経てばけろっとしているのでそう重い症状ではないと思っていたが……しかし今、寄り添えるのが自分だけだと知って河澄が感じ取る。
きっと、陽羽里のやせ我慢を信じていいものではない。
「……陽羽里ちゃん、保健室に行こう……!」
「ふざけん、じゃ、ないわよ……ッ、こいつら、を――」
言葉が途切れ、陽羽里が直射日光によって熱せられたアスファルトの上に力なく倒れる。
目を閉じて、ぴくりとも動かなくなってしまった。
「は、早く保健室に……っ」
「おい、逃がすと思ってんのか?」
陽羽里を連れて立ち去ろうとした河澄の髪の毛を、上からくしゃっと掴んだ男子生徒。
そのまま引っ張り上げられ、河澄の膝が僅かに伸びる。
「あ、う……っ!」
「この長ぇ前髪、切ってやろうぜ」
男子生徒が、ハサミを持ち出した。
――どくんっ! と河澄の心臓が跳ねる。
前髪がなくなれば、素顔を晒す事になる。
多くの者が河澄の目を見るだろう。
前髪がある事で目を合わないようにし、影を薄くしていたのに、それがなくなったらと考えると――体が震えてしまう。
「大胆に切っちまうか」
周囲の男子が、やーれ! と仲間を煽る。
ハサミの刃が髪の毛に触れ、瞬間、肩が大きく跳ねた。
同時に、じょきんっ、と河澄の前髪が切られた。
落ちた髪の毛は、束としては薄い。
河澄の視界は大きく変わってはいなかった。
「ったく、お前が動くからずれちまったじゃねえか」
鏡を見れば、前髪は斜めに切れているだろう。
横一線に切られるよりはマシだが、見た目の違和感は消えない。
「じゃ、今度こそ……」
「…………やだ、やだやだ!」
「やだじゃねえって。男子に逆らった罰だ。そこで寝てる、その女を恨むんだな」
逃げようとする河澄を止めるため、二人の男子生徒が左右から河澄を固定する。
彼女の力ではどう足掻いても振り解けない拘束だった。
「さて、明日からは隠したい素顔を晒して生きていくんだぜー?」
逃げたかった。
全てを放り投げて。
――いつもみたいに。
でもここで逃げたら、残された陽羽里がなにをされるか分からない。
多分、昔の河澄ならそれでも構わないと、陽羽里を囮にして逃げて、二度と会わないように引きこもっていただろう。
しかし、今はもう無理だ。
陽羽里を失う事と自分が傷つく事を天秤にかけて、止まってしまったのだから。
捨てる事と背負う事。
彼女は答えを出せなかった。
今回はたまたま、迷っている内に事態が動いて、河澄が傷を負う結果になってしまっただけの事だ。
良いか悪いかで言えば、もちろん、迷う時点で悪いだろう。
それでもきっと、迷った末に答えを出せなかったところに、積み重ねてきた彼女の人生において意味がある。
「? なんだ、曇ってきたな?」
違和感に反応して、男子生徒のハサミが止まる。
日陰が河澄たちを覆い、ふと見上げた男子生徒が、グリズリーの強面と目が合った。
――男子の野太い悲鳴が上がるよりも早く、
河澄の両腕を掴んでいた二人の男子生徒が、同時、水切り石のように地面をバウンドして屋上の壁に激突していた。
「ふ、へ……?」
真ん中にいた男子生徒の手から、ハサミが抜かれた。
さくさくさく、と小刻みに音がして、足下に髪の毛の束が積もっていく。
日陰に紛れて、そこにはもう一人いた。
「――鬱陶しそうな前髪がスッキリしたな」
「に、似合う……?」
男子生徒が媚びを売った笑みを見せたが、
「ああ。後は骨格をちょっと変えれば、な」
次には、ドゴォッ!! という殴打音とは思えない鈍い音がして、男子生徒がパラソルとテーブルを巻き込んで地面を転がっていく。
定位置に置かれたテーブルなどがなくなり、大分屋上が広く感じられた。
出入口は一つ。
そこへ向かうには、現れた二人を倒して行くしかなかった。
「全員で六人……三人脱落して残り三人か? まあ――まとめてかかってこいよ」
グリズリーの前には、静かに闘志を燃やす、一匹の狼が立っていた。
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