第2話 room
まだ明るいが、それでも時刻はもう夕方だ。
そろそろ、夕飯の支度をする時間になってくる。
風呂から上がった江戸屋が見たのは、髪を元に戻した、見慣れた河澄の姿だった。
小柄で細く、膨らみも少ない、華奢な体つきをしている。
集合写真では埋もれてしまってすぐに見つけられないくらいの特徴のなさだった。
洗いものをやっと終えた河澄が一段落して椅子に腰を落ち着けていた。
江戸屋がいない間、彼女は一人で生活していたため、洗いものも後回し後回しにしていたらしい。
だからこそ、かなりの量が溜まっていたのだ。
一人だと意外とだらけたりするらしい。
風呂から上がった江戸屋に気づいた河澄が、恐る恐る、口を開いた。
「あ、その、夕飯、どうしますか……?」
「俺が帰ってきたのは想定外だろ? 材料がないだろ」
「ううん、一応、買い置きしてますから、あります、よ……」
落ち着きがなく、そわそわと周りを見回しながらなんとか言葉を絞り出している様子だ。
居たたまれない。
こういうのが嫌で、家出をしたのだった。
「……どうしてそこまで怯えんだよ」
「ち、違っ、怯えては……っ」
「いるだろ」
江戸屋の手が、強めにテーブルを突いた。
ほとんど無意識だった。
「ひっ!?」
彼女の小さな悲鳴と、両目を強く瞑って怯える様子に江戸屋も冷静さを取り戻した。
「……ッ、訳分かんねえよ」
二人の間に蔓延する悪い空気を晴らしたのは、鳴り響いたチャイムの音だった。
一階のエントランスからではなく、扉の前のチャイムが押された音だった。
外の人間ではない。
玄関まで向かい、江戸屋が声をかけるよりも早く、向こうが先に名乗った。
「あたしよ!」
覗き穴から外の様子を見れば、目を引く金髪の少女が腰に手を当て仁王立ちをしていた。
青いワンピースという服装も相まって、実年齢から二歳ほどマイナスされるような、未発達な体つきが分かる。
そんな彼女の後ろには、覗き穴からでは全体図を見る事ができない大男が立っていた。
「…………なんだよ」
「ちゃんと帰ってるようね、感心感心」
「確認が済んだならさっさと帰れ」
「あんたじゃなくて、あたしはミトに用があるの。鍵を開けないなら力尽くで壊すけど?」
その言葉は冗談では済まないだろう。
溜息交じりに仕方なく鍵を開けると、解錠したと同時にドアノブが回った。
ツインテールの少女が江戸屋の脇をすり抜け、
「ミトー! 久しぶりね!」
「あ、
「まださん付け? 余所余所しいのはなしって言ったじゃない。友達なんだからもっとフランクに接してくれていいのよ?」
「ご、ごめんなさい……っ」
河澄の人との接し方は江戸屋以外でも似たり寄ったりだ。
女子友達の方が多少は柔らかくなるが、遠慮と、少なくても怯えは抜け切れていなかった。
「えーと、江戸屋君、入ってもいいかな……?」
「……ん、ああ。
「無理だよ、僕に陽羽里さんをどうこうする力はないよ」
頭を下げて玄関を通る大男は、陽羽里とパートナーを組んでいる。
江戸屋が河澄と組むようになった経緯とまったく同じ、人工島プロジェクトの参加者だ。
「お前、そんなでけえ体してるくせに、なんでそんなに肝っ玉が小せえんだよ」
体が大きいだけではない。
見下ろしてくる顔がかなり強面なのだ。
本人にそのつもりがなくとも、他者は威圧されていると感じるらしい。
噂が膨らみ尾ひれがついて独走してしまっており、不良界隈では有名だ。
……彼自身がなにもしていなくとも、だ。
陽羽里が言うには、空腹で凶暴になったグリズリーが恐怖で過呼吸になり目の前で倒れたらしいが、本当かどうかは分からない。
ただ、あり得ると思わせてしまうくらい、彼の見た目には説得力があった。
「……どうしてだろうね」
彼は愛想笑いを浮かべた。
……その笑みも、知らない人が見れば獲物を目の前に喜んだ獣のようにも見えるだろうが、江戸屋は勘違いをしなかった。
似ていたのだ……雰囲気が。
他人の機嫌を気にして自分を押し殺すところが。
自分に、自信を持てないところが。
そんなところがそっくりだから、腹が立ち、だけど見捨てられないのかもしれない。
「ちょっと、
「え……、うん、分かったよ」
突然の陽羽里の注文に文句をつけず、再び玄関をくぐろうとする大男を呼び止めたのは、意外にも河澄であった。
「だいじょうぶ……冷蔵庫にたくさんあるから……」
「それは悪いわよ。ミトが買い置きしたものでしょ? こっちの都合で消費するのはねえ。あたしたちの事はあたしたちでやるわ」
既に陽羽里はソファに堂々と足を組んで座り、家主よりもくつろいでいた。
「言ってる割に、お前はなにもしねえんだな」
棘のある江戸屋の言葉に陽羽里が反応した。
二人の鋭い視線がぶつかり合う。
「人んちのやり方に口出ししないでくれる?」
「お前が言うのかよ、それ」
これまでの、河澄との付き合い方に色々と注文された記憶が蘇る。
河澄が主張しなさ過ぎるとしたら、陽羽里は自分勝手過ぎる。
二人を足して二で割れば、丁度良い感じになるだろう。
「……俺らの関係に口うるさく言ってきたくせによ」
「あんたと組まされたミトがずっと放っておかれて可哀想だから言ってんのよ。あれこれうるさく言われたくないなら、ちゃんとミトと向き合いなさいよ。もう匿ってやんないわよ?」
家に帰らなかった間、江戸屋は陽羽里の部屋に居候をしていた。
陽羽里というより数少ない友人(?)である大男……
それを言われてしまうと、江戸屋も強くは出られない。
恩を仇で返す事は、男の恥であった。
「陽羽里さ……ちゃん。わたしは、一人でもだいじょうぶだから……」
陽羽里の服の袖を掴む河澄の不安な表情に、陽羽里は毒気を抜かれたのか、
「平気、ね。そうかしら? ふん……まあいいわ。感謝するのね、ミトに免じて許してあげるわ。……なにしてんの、早く買ってきなさいよ。――さっさと動けっ!」
「てめ、いい加減にッ!?」
と、陽羽里へ詰め寄ろうとした江戸屋の足が浮いた。
後ろにいた明石が江戸屋の肩を掴んで持ち上げたのだ。
引き止めたならまだしも、持ち上げた……?
しかも片手だった。
「江戸屋君、行こう」
「明石……てめっ――離せよ!」
「離さないよ。もしも陽羽里さんに手を上げるのなら、君だろうと許さない」
自分の事だと言い訳をもしない明石が、陽羽里の事となると人が変わったようだった。
「いつまでも、女の言いなりかよ。だからお前は、弱ぇんだ」
「……かもしれないね」
やはり、『弱い』と評価された事に、言い訳をしなかった。
江戸屋たちほどこだわらない性格である事を加味しても、彼には闘志がなかった。
闘志のない者を上から叩き潰す江戸屋ではない。
彼の戦意も、同時に萎えている。
「離せ。……行けばいいんだろ、買い物。どうせ後で行くつもりだったしな。ついでだ」
「素直じゃないんだから」
明石の手をはたいて、江戸屋が地に足をつける。
そんな彼の言葉に陽羽里が笑った。
「お前の注文なんざ聞かねえよ。……で、お前はなんかあんのか?」
江戸屋の視線は河澄に向いていたが、彼女は気づいていなかった。
とんとんっ、と隣の陽羽里に肩を指で叩かれ、やっと江戸屋の視線に気づいた。
彼女は目をぱちくりとさせ、
「え、……いや、だいじょうぶ、です。わたしは、別に……」
「……適当になんか買ってくる」
どうせ返事を待っても遠慮しか返ってこないだろう。
面倒な譲り合いになる前に、江戸屋は明石を連れて足早に家を出た。
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