横田純一郎
岸泉明
第1話
暑い。春の日輪は容赦なく俺に照りつける。まだ四月なのに、この暑さは異常事態と言わざるを得ない。さっきから荷物を運ぶのはいいものの、汗をかいてしまって気持ちが悪い。いい加減に腕も疲れた。さっきからこのマンションの五階と一階を何往復しているのだろうか?机くらいならまだしも、タンスのように重たいものは、運ぶのですら嫌になる。
「おい横田!急げ!遅れてんだぞ!これ以上グズグズしやがったら給料減らしてやるからな!こののろま!」
上司の上浦さんは俺を怒鳴りつけた。遅れてる?だったら上浦さんも手伝え。上司なら手伝わなくていいなんてルールはどこにもない。でも、上浦さんはさっきからずっと日陰でタバコをふかしていて、自分は辛い思いをしようなんてこれっぽっちも思っていない。それなのに俺よりも高給取りなのだから、世の中って不平等だ。いや、世の中いつだって不平等なんだよ。平等ならこんな辛い仕事をしなくてもいいはずだ。平等なら安月給で死ぬほどこき使われることもないだろうし、休みだってもらえるはずだ。でも、思い返せば正月から一度も休んでいない。それどころか、給料がいいからといって、正月も働いていた。前に仕事の休みをもらったのはいつだろうか?思い出せない。とりあえず、しばらく休みがないのは事実だ。
金、俺は一度だって裕福であったことなどない。中卒で働く俺は当然ながら就職先が見つからず、しばらく公園で生活していた。その後なんとか仕事をみつけたものの、月十万にいくかいかないかのような安月給で毎日十時間はこき使われた。俺の勤める会社が、法律に違反する労働をさせるブラック企業だとは十分にわかっていたが、ここしか働けるところがないので仕方がなかった。だから、俺の財布はいつも空っぽだった。千円札が一枚入っていればまだいい方で、酷い時など、一円玉が二枚しか入っていなくて笑った。給料日の三日前、よく過ごせたな。あの時は。
そして、俺はひとりぼっちだ。天涯孤独。親も、兄弟も、親戚もいない。いや、わからないのだ。本当の親が。親は俺が赤ん坊の頃、なぜかわからないが俺を棄てた。だから、今の横田純一郎という名前も本当の名前ではない。施設でつけられた名前だ。俺は施設に入れられて、そして五歳から十五歳までを里親の元で過ごした。でも、その里親はひどかった。おばさんは俺のことを奴隷のようにこき使って家事をさせるし、おじさんは零細企業の社長だったが、実績が悪くなると、酒を飲んで、暴れて、俺に怒りを押し付けた。殴る、蹴るなんてことは日常茶飯事で、一升瓶で殴られたり、タバコを押し付けられることもしばしばあった。本当に酷い親だった。飯も満足に食わせてくれなかったし、服とか学用品とかも必要な分はくれなかった。それに、学校に行っても風呂に入ってないこともあったから豚と呼ばれて「臭い、臭い」どういじめられ、ボロばかりきているから貧乏人と蔑まれ、学用品も満足にないから勉強についてくのに必死で、バカにされた。そして仲間はずれにもされた。そのせいで友達は今でも一人もいない。人が怖いのだ。自分が何かすれば自分を責め立てる。これは今でも変わってない。職場でも仲間はずれにされたるし、低学歴だと散々バカにされる。高校だって、本当は行きたかった。おばさんからこき使われていたが、その合間をぬって必死になって勉強した。だから成績は悪くはなかった、むしろいい方だったが、おじさんに高校に行かせてくれるよう頼んだら、おじさんは激怒して俺が気を失うまで殴り続けた。
「お前のような役立たずのために金なんて払えるか!」
おじさんの言葉は今でも覚えている。「役立たず」、この言葉がガラスの破片のように俺の胸に突き刺さっている。
その時に運悪く、おじさんの拳が俺の目玉に当たって、眼球破裂。失明した。その傷は当然ながら今でも残る。もともと視力もそこまで良くないので、ものを見ることには苦労しているし、こんな見た目になってしまったのだから、きっと生涯俺はこのことをバカにされ続けるのだろう。
おじさんたちとは、中学卒業のその日に縁切りをされた。十五にして頼れるものもない孤独な存在になったのだ。
その日はなんとかクタクタになって仕事を終えた。けっきょく、上浦さんは一度も動くことなく、自分一人で業務をこなした。全身に疲れが溜まっていた。今すぐにでも布団に寝そべりたい気分だったが、まだ今日は終わりでない。
会社に戻って着替えた後、すぐに次の職場へ向かった。
「遅れてすみません。」
「おせぇんだよ!横田!早く皿洗え!溜まってんだよ!」
自分はただちに客が食べ終えた皿を洗い始めた。自分は引っ越しの手伝いの仕事以外に、居酒屋でバイトもしている。兼業はバレたらクビにだけど、こうでもしないと生きていけない。まだ春先はいいが、冬場はあかぎれがひどくて痛いのなんのって。そのあかぎれに洗剤がしみると、思わず悲鳴をあげたくなる。
黙々と四時間近く皿を洗い続けて、終わる頃にはいつも二十三時を過ぎていた。
そしてここから家にかえれば日付は変わっている。電車賃を浮かす為に歩いているが、そのせいで家まで随分とかかる。
家。といっても築五十年、いわくつきではないが、いかにも幽霊が住んでいそうな家賃月二万の風呂なし、トイレ共同のボロアパートに住まっている。錆びた鉄階段を登り、家の扉を開ける。当然、誰もいない。閑静な空間があるのみだ。わずか四畳一間の部屋には、年季もののちゃぶ台に、布団、窓際の小さいタンス。そしてわずかばりの本に、この前買った多肉植物のハオルチアがあるだけだった。
これだけの家具を揃えるのにもだいぶ苦労した。毎日食費を切り詰めてなんとか金を貯めて、これだけの家具を揃えたのだから、自分でも大したものだと思う。
自分は上半身裸になり、タオルを濡らして体を拭いた。風呂なしアパートなので近くに銭湯があるが、毎日行くなどそんな贅沢なことはできない。三日にいっぺん。それ以外はタオルで体を拭いて終わり。汗を掻くので毎日湯船に浸かりたかったが、貧乏人はそうもいかない。
体を拭き終わると、さっき買ってきたパンをかじった。今日の夕飯もパン一個。二十一の俺には当然これでは足りない。もっと肉とか、とにかくたくさん食べたかった。
でも、俺の収入では無理な話だった。こんなにも生活が苦しいのには訳がある。十七の時、俺の里親が死んだ。自殺だった。会社が借金ごまかしきれなくなって倒産したらしい。借金の支払いに追われたおじさんはそれを苦に自殺して、おばさんも道連れにした。そのせいで、里子だった俺に不幸が降りかかった。一千万近い借金を負い、俺は日々返済に追われている。おじさんが借りたのはこればかりでないはずだが、俺のところには一千万来た。それでも多い。利息とかも考えたら、月々の返済額は相当なものになり、毎月十万近く返さないといけなくなる。実に俺の給料の一ヶ月分。借金の返済に給料は消えてくので、これ以外にもなんとか他の仕事もこなしてやりくりしている。だから、贅沢なんてもってのほか。その日食うや食わずの生活を送っていた。今日も昼飯は抜き。夜はパン一個。よくこれで重労働こなせるなぁと自分も不思議にも思う。無論、貯金なんてものもない。あればこんなに苦労していない。
苦労してはいるが、こんな俺にも二つ日々の楽しみがあった。
一つ目は本。苦しい生活ではあったが、古本屋でめぼしい本を見つけては読むのが俺の楽しみだった。小説の主人公と自分を重ね合わせ、自分は小説の世界に入り込んで生きるのだ。小説というのは自由だ。今の自分とは正反対の愉快な暮らしができる。仲間も、家族もいる。自分はかりそめの世界で暮らすのを楽しんだ。きっと生涯俺は孤独なんだろうけど、小説は俺が一生かけても手の届かない世界へと案内してくれる。それが楽しかった。
二つ目は、一年前に買った多肉植物のハオルチアだ。一年前の誕生日、少しくらい贅沢をと思い、たまたま立ち寄った花屋に置いてあった小さな多肉植物のハオルチアを購入した。三百円。これで贅沢なのだから、いかに困窮しているかもう言わなくてもわかるだろう。
でも、これを買ってから俺の話し相手ができた。朝起きるたびにおはようと声をかけ、寝る前にはお休みという。辛いことがあれば話し相手になってもらうし、楽しいことなど滅多にないが、こいつにも話す。長年ひとりぼっちの俺にはなんでも話を聞いてくれる家族のように思えるのだ。俺が何か話をするたびに、ハオルチアはユラユラと揺れる。風のせいなのかどうかわからないが、この様子は喜んでいるようにも見えた。
その日も俺は上浦の怠惰さをハオルチアに話した。本当にありがたい。こいつが家に来て話すようになってから、自分の胸はスッと軽くなる。俺の低学歴や見た目をバカにしたりもしないし、人間なんかよりもこいつの方がずっと好きだ。
その日もお休みと言って、深い眠りについた。
俺はそんなこんなで働き続けていたが、一ヶ月ほど経ったある日、事件が起こった。
上司の大事にしているダイヤの指輪が無くなったというのだ。探してみたら自分のロッカーから出てきた。上司は俺を責め立てた。当然自分の身に覚えなどない。おそらく同僚のいじめだろう。しかし、あろうことか俺はこれでクビになった。いじめたやつはこれが狙いだったのかもしれない。六年勤めた会社をあっさりとクビにさせられた。明日からどう暮らせというのだ、金がない。しかも不幸なことに、今月の給料日前に辞めされられたから、本当に困窮してしまった。借金返済はとにかく、水道も、電気も払えない。家賃も、毎月苦しいのに今月も滞納してしまった。
家に帰ると大家が俺の部屋の前に仁王立ちしていた。
「横田さん、今月の家賃払えないってどういうことですか?」
大家さんはおれを睨みつけた。
「いえ、あの…。それは…。」
「あんた先月も、その前も滞納しましたよね。おかしいじゃないの?あんたに払う気がないなら私はあんたを追い出すことだってできるんだよ。あ?どうなんだ?」
語気は相当強かった。大家さんの怒りがひしひしと伝わってきた。
俺は即座に頭を下げた。
「申し訳ありません!明日にはきっとお支払いいたします。」
「きっとだよ、払えないなら即解約だ。問答無用で出てってもらうよ。」
大家さんは大きな足音を立てて出て行った。
俺は部屋に入った。部屋に入った途端、急に肩が重くなった。あれ?力が入らない。
俺はその場に倒れこんだ。意識が朦朧とする。どうした?何が起こった?早く金をかき集めないと。職を失い、家も失いなんてシャレにならん。ほら、早く立てよ。何しているんだ。心ではいくら強がっても、身体は言うことを聞かなかった。
情けない…。過労ってやつかな?ここんとこ働きづめだったから。いや、それだけではない。もうずっと休んでない。休みらしき休みをしばらくしていなかった。身体が熱っぽい。動けない。ここで死ぬのか?寂しい人生だったよ。いいことなんて何一つありゃしなかった。せめてうまいものでも食べておくんだった。友達が欲しかったなぁ。恋人とかも欲しかった。家族、どんなものなんだろう。もう知る由もないが、この世ともお別れかよ…。そこで気を失った。
気がついたらいつもの布団の上にいた。しかもちゃんと着替えてあった。どうしたんだろう?何が…
「まだ動かないで。」
優しい声がした。誰だ?俺の家にいるのは?泥棒?いや、泥棒なんて入っても盗むものなんてないし、第一俺を救ってなんてくれないだろう。大家さん?もない。あの意地悪大家が住人を助けたりなんてするもんか。じゃあ一体誰だ?
自分は声のする方をちらりと見た。そこには自分と同じ歳くらいの若い女性がいた。
髪は金髪ミディアムカットで、服装は白いTシャツにジーパンをはいていた。それ以外にイヤリングとかネックレスとかは何もつけていなかったが、そんなものを身に纏っていなくても綺麗で、清楚で、上品な雰囲気の女性だった。
「まだ寝てて。」
俺はうんとうなづいた。一体誰だろう。今まで女性と関わったことなどなかったから、一体誰なのか見当もつかない。でも、不思議といつも一緒にいたような、そんな感じがした。
「あの…。」
「なあに?」
彼女の優しい声に思わず胸がドキドキした。女性と話すなど久々な気がする。
「君は一体…。」
そう言うと彼女は少し寂しそうな顔をした。
「わからない?いつも一緒にいるじゃん。」
俺は孤独な男。一緒にいたやつなどいない。となると…
女は窓の近くに置いてある多肉植物のハオルチアを指差した。まさか…
「ハオルチアの精だよ。純一郎さん。」
まさか、ハオルチアの精…。本でそのようなことは聞いたことがあるが、まさか本当にそんなことが起こるとは…。彼女はうふふ。と、口に手を当てて笑った。その様子を見て、俺は思わず胸がドキドキした。そうか、俺の唯一の友達であり、恋人であり、家族だったもんな。
彼女は俺に近寄った。そして枕元に座ると、俺の額を触った。
「すごい熱…働きすぎよ、純一郎さん。」
そうか。そうかもしれないな。倒れるまで働くなんて、流石に働きすぎたかもしれない。彼女の手はひんやりと冷たくて気持ちが良かった。まるで天にも登るような、そんな心持ちがした。ずっとこうしていたいと思った。
「ねえ、純一郎さん。」
「どうした?」
「今は辛いかもしれないけど、負けちゃダメだよ。わたし、純一郎さんが大好きだからね。」
そうか、初めてだな。誰かに励ましてもらえるなんて。二十一年の長い間、ずっとひとりぼっちだった。それに、自分を好きなんて言ってくれる人も、誰一人としていなかった。嬉しいな。俺は思わず自分の額にある彼女の手を掴んだ。
「…どうしたの?」
「ご、ごめん。」
しまった。ドジだな。嬉しくなって女性の手を掴むなど、最低なことをするにもほどがある。俺は手を離そうとした。
「いいよ。」
「えっ?」
「寂しいでしょ。私がいてあげるから、安心して。」
彼女は俺の手を強く握った。彼女の手は冷たかったけど、俺は温かい思いで満たされた。
「なあ、ところでさ。」
「どうしたの?」
「お前は俺が怖くないのか?」
「どこらへんが?」
「片目…。」
「そんなの全然気にしないよ。純一郎くんは私の家族でしょ。」
家族…。自分の目から涙が溢れてきた。ずっと、ずっと寂しかった。家族の愛を知らない俺にとって、ずっと欲しかった言葉だった。この一言がどれだけ俺の救いになったか。胸の内がスッと軽くなった。
「なんで泣いてるの?」
「嬉しいんだよ。」
「うん、私も嬉しいよ。」
彼女は俺の手を再び強く握ってくれた。
そして俺は上半身を布団から起こした。
「起きて大丈夫なの?」
「ああ、なんとか。」
「無理しないでね。」
俺は彼女にこくんと無言のままうなづいて、そして彼女の瞳を見つめ、ゆっくり口を開いた。
「なぁ、一つお願いしてもいいか?」
「なあに?なんでも言ってごらん。」
「こんなこと言うと嫌かもしれないけど、ずっと俺の心の中にある願いなんだ。聞いてくれ。」
「うん。」
「…あのさ、俺をギュッと抱きしめてくれないか?」
「えっ?」
「あ、ごめん。そういう下心とかじゃなくて、その…。」
俺が言い終わる前に、彼女は俺を思いっきり俺を抱きしめてくれた。彼女の体の暖かさがじわじわと伝わってきた。甘いいい香りがする。彼女の胸の柔らかさが…。なんて言うべきだろうか?大きな愛が自分を包み込んでくれた。ずっとこうしていたい。もう俺から離れて欲しくない。今は、二人なんだ。一人じゃない。だから、ずっと二人でいてほしい。離れたら、また一人ぼっちに戻ってしまいそうで怖い。お願い、離れないで。
そんな願いも虚しく、彼女はしばらく俺を抱きしめてから離れてしまった。
彼女の温もりが自分の体に残っている。
「純一郎さん。」
「なんだい?」
「私もお願いしてもいい?」
「うん。何にもできないがな。」
「これからもずっと私と二人でいて。」
「…うん。」
また目から涙が溢れてきた。もう、苦しまなくていいんだ。もう、寂しい想いなんてしなくていいんだ。
「何泣いてるのよ。もう。」
彼女はフフフと笑った。そしてもう一度俺を抱きしめてくれた。
「ありがとう、ありがとう…。」
「横田!横田!今日こそ家賃払ってもらうからな!」
しかし返事はなかった。不審に感じた大家がマスターキーで部屋に入ると、そこには横田純一郎の骸が横たわっていた。直ちに緊急搬送されたが、病院で死亡が確認された。死因は過労。しかし死に顔は安らかだったという。
警察が死後の部屋をしらべると、彼の貧窮ぶりを物語っていた。
わずかばかりの家具と本、そして小さな多肉植物が窓際にあるだけだったという。
横田純一郎 岸泉明 @Kisisenmei
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