棫樸(引用2:文王の施政)
枝葉茂るタラの木々。
切り取り薪とし、備蓄として積む。
それはまるで文王の左右に、
賢才俊才が集まっているかのごとく。
文王を祀る廟を、俊才らがよく祀る。
その祭礼の様子は実に厳か、
士人かくあるべし、と思わされる。
涇水に浮かぶ舟は、波を蹴り進む。
舟子は舟を威勢よく進める。
文王の出師に、大軍が付き従う。
輝かしき、天の川。
それはまるで天に描かれる文様。
文王はその長らくの人生で、
多くの人々を鼓舞された。
奮い立たぬものなどあっただろうか。
その徳の輝かしきこと宝玉のごとく、
また黄金のごとくあり。
勤勉精勤なる我らが文王、
よく四方を治められた。
○大雅 棫樸
まだまだ文王のターンであった。まぁ、いくら讃えても讃え切れぬものな。
■孫権の発言はダメ
三國志47 孫権 注
言自后稷以來皆得祭天,猶魯人郊祀也。是以棫樸之作,有積燎之薪。
孫権が皇帝の座についた直後、臣下らは孫権に対し天を祀る祭礼をなすべきと語るが、孫権はそれを却下した。「いまだ祭祀をなすべき地、洛陽を得られていない」がその理由である。これに対し臣下らはよくよく道理を弁えていると感嘆したそうであるが、いやいやそうしたら洛陽を手中にしてなかったはずの文王の先祖である后稷や魯国の人間が天を祀ってたのはどーするのさ、だからこそ文王だっていまだ洛陽手に入れてないはずなのに当詩でタラノキを集めたが如く、天を祀る祭祀の準備をしてんだろ、とのことである。お、おう。
■ぼくに宮仕え無理
宋書62 王微
書云「任官維賢才」。而君擢士先疹廢,芃芃棫樸,似不如此。
王微は宋武帝劉裕の皇帝即位にあたり大いに働いた王弘の甥。周囲からはその才覚を期待されていたのだが、本人は基本的に出仕を拒む口であった。後に文帝劉義隆の側近となる江湛から招聘の手紙を受け取っても、弟の看病をしなければならないとか、当詩を引いて「私じゃ薪にはなりませんよ」と語り、辞退する。後々宮中ではクソのような権勢争いが繰り広げられるわけで、彼の振る舞いは賢、の一言に尽きよう。
毛詩正義
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AF%9B%E8%A9%A9%E6%AD%A3%E7%BE%A9/%E5%8D%B7%E5%8D%81%E5%85%AD#%E3%80%8A%E6%A3%AB%E6%A8%B8%E3%80%8B
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