東山(引用7:遠征からの帰還/士卒を労う)

東山とうざん



我徂東山がそとうざん 慆慆不歸とうとうふき

我來自東がらいじとう 零雨其濛れいうきもう

我東曰歸がとうえつき 我心西悲がしんせいひ

制彼裳衣せいかしょうい 勿士行枚こつしぎょうまい

蜎蜎者蠋えんえんしゃしょく 烝在桑野じょうざいそうや

敦彼獨宿とんかどくしゅく 亦在車下えきざいしゃか

 東山に出征し、久しく時がたつ。

 ようやく帰ろうという時に、外は雨。

 東にいた時には帰りたいと思い、

 西のかたを見て泣いていた。

 いま平服に身をまとい、思う。

 もはや戦時中に物音を立てないための

 板を口に咥えるような事はしたくない。

 うごめくクワムシが

 クワ畑にのたうつように、

 おれもまた、戦車の下で一人寝ていた。


我徂東山がそとうざん 慆慆不歸とうとうふき

我來自東がらいじとう 零雨其濛れいうきもう

果臝之實かえいしじつ 亦施于宇えきしうう

伊威在室いいざいしつ 蠨蛸在戶しょうそうざいこ

町畽鹿場ちょうたんろくじょう 熠燿宵行ゆうようしょうぎょう

不可畏也ふかいや 伊可懷也いかかいや

 東山に出征し、久しく時がたつ。

 ようやく帰ろうという時に、外は雨。

 カラスウリは軒先で実を結び、

 トコムシが室内にはびこり、

 アシタカグモは戸口に巣を張る。

 畑のあぜ道にはシカが遊び、

 鬼火が夜中にふらふらとさまよう。

 恐れる必要はない。

 ここがわが故郷なのだから。

 

我徂東山がそとうざん 慆慆不歸とうとうふき

我來自東がらいじとう 零雨其濛れいうきもう

鸛鳴于垤かんきゅううてつ 婦歎于室ふたんうしつ

洒掃穹窒しゃききゅうちつ 我征聿至がせいしんし

有敦瓜苦ゆうとんかく 烝在栗薪じょうざいりつしん

自我不見じがふけん 于今三年いこんさんねん

 東山に出征し、久しく時がたつ。

 ようやく帰ろうという時に、外は雨。

 コウノトリは蟻塚でアリをつつく。

 ああ、妻は家で泣いていた。

 辺りを掃き清め、家の穴を修繕する。

 ついに、帰ってこれたのだ。

 ぽっかりとニガウリが、

 クリの木にぶら下がる。

 このような有様を見るのも、

 実に三年ぶりのこと。


我徂東山がそとうざん 慆慆不歸とうとうふき

我來自東がらいじとう 零雨其濛れいうきもう

倉庚于飛そうこううひ 熠燿其羽ゆうようきう

之子于歸しいしうーき 皇駁其馬こうばくきば

親結其縭しんけつきり 九十其儀くじゅうきぎ

其新孔嘉きしんこうか 其舊如之何ききゅうじょしか

 東山に出征し、久しく時がたつ。

 ようやく帰ろうという時に、外は雨。

 ウグイスが飛び、その羽を輝かせる。

 嫁ぎゆく娘は黄毛の馬と赤毛の馬が

 引く馬車に乗った。

 親が手ずから紐を結ぶ。

 婚礼の儀礼は華やかなもの。

 新婚夫妻よ、幸福であれ。

 わが妻よ、昔のことを

 思い出しているのだろうか。




○国風 豳風 東山


随分とドラマティックな詩であるな。これまでの詩は帰ってこない夫を思って悲しんだり、出征した夫が故郷を思ってこそいたものの、国風の大詰めに至り、こうして無事帰ってきた夫のことが描かれた。無論戦地で死んだ夫も多かろうが、せめて詩の世界の中でだけはこうして妻と再会し、娘の嫁入りを無事に見送れてほしいものである。




○儒家センセー のたまわく


当詩は周公旦が東に三年間の遠征をしたのち、凱旋した折に歌ったものとされる! 彼に付き従い、戦い抜いてくれた士卒らの苦労を思い、ねぎらうために詠み上げたのである!




■出征しといて何ほざいとんだ


三國志2 文帝本紀裴注

豈如東山詩,悠悠多憂傷。


曹丕が呉を討伐するため自ら出征し、その途上で読んだ詩の一節である。当詩に描かれたように、戦争とは素晴らしいものばかりではなく、多く悲しみや痛みをも長く伴う、と歌う。そしてこののち曹丕は引き上げる。いや、お前がこの出征認可したんやろがい!




■簡文帝、臣下の働きを思う


晋書9 簡文帝本紀

每念干戈未戢,公私疲悴,籓鎮有疆理之務,征戍懷『東山』之勤。


時おりしも前秦の苻堅が前燕を完全に葬った直後。つまり、前秦がいよいよ最悪の敵になったころの詔勅である。兵士らが国境防衛の任、すなわち東山の勤めに疲弊していることを思う、という内容である。なお詔勅はそののちに「なので慰労の使者を桓温のもとへ遣わせよ」と語る。「東山の務め」をなす「大司馬桓温」は周公旦にも比定しうる徳を供えている、と語るに等しい。晋書において簡文帝が桓温に禅譲する詔勅を書いては臣下に破られていた、というエピソードを踏まえると、闇がほの見えてステキな内容となる。




■謝安様、東山に引き籠る


晋書79 謝安

卿累違朝旨,高臥東山。


桓温の簒奪謀議、そして前秦南征という東晋においてトップクラスの苦難を乗り越えた大宰相、謝安。ところで今ふと思ったが「やばいピンチはそもそもやばい国にしか訪れない」ものであるよな。まぁそれは良い。そんな謝安は、四十歳まで隠遁生活を送り、度々の招聘も断ってきていた。しかし弟である謝万が失脚したのを受け、ついに表舞台に引きずり出される。その見送りの宴で、さんざん謝安の出仕いやでござるな振る舞いに煮え湯を飲まされていた官僚、高崧が謝安にこの言葉をぶつけた。「ったくあんたぁ随分とお国の要請を突っぱねて東山で居眠りぶっこいてくれたもんですよ」とのことである。晋書の謝安はこれに恥じ入り、世説新語の謝安はこれにふふっと笑う程度のリアクションを残している。つまり諸氏の趣味に応じてこの二種のリアクションを使い分けられるのが良い。ともあれここでいう「東山」は謝安が会稽郡山陰県の東にある山に隠棲していたからの呼称なのであるが、のちの結果から逆引きをすれば「大宰相、でございますね?」的皮肉と取れなくもない。やや無理筋であるのだが、そう超解釈すると無駄に楽しい。




■会稽東山は、他のところにも


・晋書49 阮裕

在東山久之,復征散騎常侍,領國子祭酒。

・晋書64 司馬道子

東山安道,執操高抗,何不徵之,以為朝匠?

・晋書80 王羲之

時劉惔為丹陽尹,許詢嘗就惔宿,床帷新麗,飲食豐甘。詢曰:「若此保全,殊勝東山。」


こうして読むと「東山」は本気でただの地名でしかないことがわかるのであるが、そこはまぁ、それということで。




■命令守れやクソが


宋書57 蔡興宗

伏尋揚州刺史子尚、吳興太守休若,並國之茂戚,魯、衞攸在,猶牧守東山,竭誠撫莅,而辭擇適情,起自庶族,逮佐北藩,尤無欣荷。


劉宋文帝~明帝期の名臣の一人に数えられる蔡興宗はその直言ぶりでだいぶ煙たがられており、そのため宮中から外部に左遷されることとなった。その時の辞令は長江下流域であったのだが、何故か蔡興宗は蜀のエリアへの異動を希望。それによって時の宰相が激怒し、皇族たる劉子尚、劉休若が「東山を守って」頑張ってんのに、こいつそのサポートする気ねえとか舐めてんですかね、と時の皇帝にチクった。それでベトナム方面に左遷されそうになったのだが、チクった人が処刑されたために取りやめとなった。




毛詩正義

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