崔浩コラム⑧ わかるはわかってない

ごきげんよう、崔浩である。


「わかってるやつはわかってないし、

 わかってないやつはわかってる」。


本コラムは、この点を語る。



○東方之日の毛詩正義は言う


東方之日兮

彼姝者子 在我室兮

在我室兮 履我即兮


東方之月兮

彼姝者子 在我闥兮

在我闥兮 履我發兮


このしゅけべ詩であるが、

毛詩序-毛詩正義ラインと、

鄭玄注での解釈がズレておる。


毛毛ラインは「東方之日」句をもって、

賢主の明察なるを説く。

「昔の君主は偉大であった、

 しかし今の君主は違う」。

なので世が乱れてしまったのだ。

斯様な方向性で、この詩を解する。


一方の鄭玄は、

見目麗しいが不実なる男が、

女の部屋に夜這いにやってきた。

このふしだらな振る舞いを、

朝日に、月の出のもとに晒し、

世に暴き出さん、と解する。



何が言いたいか?

「正しい解釈など、ない」のだ。

後漢の時代で、すでに。

なので誰もが「テキストから推測」している。

繰り返すが、後漢の時代で、すでに。



○わかってるはわかってない


古典絡みの出版物で

よく見かける論調がある。


「今、古の知恵の精髄を明かす!」

「○○が言いたかったことは、これだ!」


アホか、である。


そもそも今読んでいるテキストが

原テキスト通りであったか、

それを保証するものは、一切ない。


まして詩経は秦~漢勃興期に

いちど滅びかけておる。

文献が残らず、

記憶より再構成された詩とて

少なくはあるまい。


そんなものをつかまえて、なーにが

「テキストに秘められた真実」だ、である。

ねーわんなもん。

あっても掘り出せるはずもない。


「わからんからわからんなりに探る」


しか、我々には許されておらぬのである。



○わかってないはわかってる


原典の言わんとしたことは、最早わからぬ。

ただ、その言葉そのものは残っておる。

ならば、それとどう接するか。


頑張って考えるのだ。

以上。


古典から見出される教訓について、

決して勘違いしてはならぬことがある。


「古典の言葉を己の思考と照合し、

 何らかの形に適合したもの」


こそが教訓なのである。


我々にとり、

古典はもはや言葉でしかない。

たとえ過去の偉人がどのような意図で

その言葉を述べたにしても、

結局は読み手というフィルタを介してしか、

その言葉は形質をまとわぬ。


偉大なる先人の言葉を、どう解釈するか。

その時「先人の真意がわかるはずがない」

と実感を抱けたところで、

はじめてその言葉との接点が生まれる。


先人、と言うまでもないな。

他者は自分ではない。

他者を理解した、などと称するのなぞ、

おこがましいにもほどがある。


わからないものを、わかるよう努力する。

わからないと知るのが、第一歩である。


では、また。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る