山有扶蘇(引用1:イケメンは遠し/美学に殉ずるはクソ)

山有扶蘇さんゆうふそ



山有扶蘇さんゆうふそ 隰有荷華しつゆうかか

不見子都ふけんしと 乃見狂且だいけんきょうしょ

 山には木々が生い茂り、

 沢にはハスの花が咲く。

 子都のような美男子はいない。

 いるのは狂愚の人ばかり。


山有橋松さんゆうきょうしょう 隰有游龍しつゆうゆうりゅう

不見子充ふけんしじゅう 乃見狡童だいけんこうどう

 山には高い松があり、

 沢にはリュウソウが生い茂る。

 子充のような良い人はいない。

 いるのはずる賢いガキばかり。




〇国風 鄭風 山有扶蘇


句ごとの照応を考えれば扶蘇や橋松を大として見、荷華や游龍を小として見るべきなのであろう。子都や子充については未詳。してみれば当時のイケメン代表格、といった辺りなのであろう。そうするとこの詩は「イケメンは遠くにばかりおり、近くにいるのは雑魚ばかり」という話になってこよう。……待って? 孔子この詩のどこに背筋伸ばしたの?




〇儒家センセー のたまわく


この詩も荘公の息子、忽を謗ったものである! 忽の如き振る舞いは、己の美学によって結局自らの身を滅ぼしたにすぎぬ!




〇崔浩先生、大混乱


思うに、詩序を付けた儒家センセーは、この鄭風の扱いに非常に困っているようである。まったくもって儒家センセーの解釈が異次元である。朱子学は基本的にこの章を「淫乱の気風を歌ったものです!」という方針で乗り切っておるので、何とかなっているのだが。儒家センセーに置かれては、せめて春秋の鄭国から離れれば「我が国に集まる人士はどうしてこう凡夫ばかりなのであろうか」という嘆きに一般化できようにな。儒家センセーも大変である。




■孫権さまはすげかったぜ


晋書68 紀瞻伝

先王身下白屋,搜揚仄陋,使山無扶蘇之才,野無『伐檀』之詠。


陸機と紀瞻の、呉の滅亡について論じあった議論の一節。「先王」が誰を示すかを特定し切るのはやや難しいのだが、孫権が様々な立場の人間を取り立てて呉を栄えさせたことを考えれば、孫権の人材登用を語ったとみなすのが良いのであろう。ここで「山をして、扶蘇の才を無からしむ」であるから、当詩をオマージュして語っているとみなすのが良いよう感ぜられる。そうすると、「山にいる才能に満ち溢れた人間も逃すことなく召し抱えた」となるのではないか。




毛詩正義

https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AF%9B%E8%A9%A9%E6%AD%A3%E7%BE%A9/%E5%8D%B7%E5%9B%9B#%E3%80%8A%E5%B1%B1%E6%9C%89%E6%89%B6%E8%98%87%E3%80%8B

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