◎崔浩コラム⑥ 「詩経」とかウソつくな

ごきげんよう、崔浩である。


そろそろオコラレを

食らってしまいかねぬと

謎の危惧を抱いたにより、

本コラム、と言う名の

エクスキューズを決める。


何が言いたいか?

いやお前、詩「経」扱ってねえだろ、

というものである。



当作品はライトに、インスタントに、

がモットーである。

故にもろもろ厳密には喋っておらぬ。

そしてこれは、タイトルにも及ぶ。


「詩経」という言葉を生んだのは、

これまでにも何度か言及している、

朱子学である。


つまり朱子学的解釈を踏まえて

語るのであれば「詩経」なのであるが、

当作は、そこからも自由であろうとする。

故に当作は、「詩経」は

取り扱っておらぬことになる。


のだが、言うてこれらを呼ぶのに

一番ピンとくるのって「詩経」でしょ、

という理由で、

用いさせていただいておる。


ワッカルカナァ?

――書いてて我も混乱してきた。



○詩「経」の成立


南宋の初めまで、

当作にて扱うテキスト群は

「詩」、もしくは「毛詩」

とのみ呼ばれていた。それを朱子学が

「伝統的な解釈から解放し」

「改めて経典として命名した」

のである。


……怖っ。なにこの人たち。


まぁ、アレだ。

作者は毛詩正義で止まる人間であるため、

(それすらだいぶ許容年代を

 オーバーして瀕死であるのだが)

朱子学にて詩経解釈が

「解放」されるに至る経緯を

踏み込んで調べられてはおらぬ。


が、それでも毛詩正義が

詩経解釈の発展を妨げて

おったというのであれば、

水面下でそれを疑問に思う動きが

あったと考えるのは、

自然なことなのであろう。


あるいは、朱子学の解釈は、

それらのうねりの集成であった、

のやもしれぬ。



○当作タイトルについて


当作は、厳密にタイトルを規定せば

「毛詩正義」講座とするのが正しい。

遊びたいのは、毛詩正義であるからな。


が、それで当作が何をやっているのかと

ピンときていただける方には、

「いうて毛詩正義雑に扱ってんじゃん」

と指弾を受けてしまう。

反論の余地一切なし、である。


つまり、タイトルに

毛詩正義を挙げたところで、読者諸氏には

何をやってるのかよくわかって頂けぬ、

しかもわかる方には毛詩正義を

想像を絶する雑さで

取り上げている、と瞬時にバレる。


問題外なのである。


それならいっそのこと、一番雑な

くくりで行ったほうがいいじゃん!

そのほうがお互いに混乱せず、ハッピー!


斯様な次第により、「詩経」を

タイトルに掲げ、ついでに今流行の

長文タイトルとさせていただいた。


なにぶん「カクヨマー的には」

ほぼニーズがないもので

遊ぶわけであるからな。

少しでも接しやすいものではありたい。

そう考えておる。


また諸氏におかれても、

当作がより気軽に様々な方に

接していただけるための

アイディア等ござらば、

ぜひ、ご教示願いたい。


古典をより楽しく、より気軽に。

そうやって遊んでくださる方が

増えてくれれば、

作者がより楽しい。


では、また次回。

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