王風(おうふう)

黍離(引用9:亡国の悲しみ)

黍離しょうり



彼黍離離かしょうりり 彼稷之苗かしょくしびょう 

行邁靡靡ぎょうまいびび 中心搖搖ちゅうしんようよう 

知我者ちがしゃ 謂我心憂せいがしんゆう

不知我者ふちがしゃ 謂我何求せいがかきゅう 

悠悠蒼天ゆうゆうそうてん 此何人哉こかじんか 

 かの地でキビの穂が揺れている。

 こちらにはウルキビの苗がある。

 ただふらふらとさ迷い歩く。

 心中はぐらぐらと揺れている。

 私を知るものは、

 心中の憂いを指摘しよう。

 私を知らぬ者なら、

 何を探求しているのか、と思うだろう。

 ああ、遥かなり、蒼天よ。

 いったい誰が、このような世にしたのだ。


彼黍離離かしょうりり 彼稷之穗かしょくしすい 

行邁靡靡ぎょうまいびび 中心如醉ちゅうしんじょすい 

知我者ちがしゃ 謂我心憂せいがしんゆう

不知我者ふちがしゃ 謂我何求せいがかきゅう 

悠悠蒼天ゆうゆうそうてん 此何人哉こかじんか 

 かの地でキビの穂が揺れている。

 こちらにはウルキビが穂を付けた。

 ただふらふらとさ迷い歩く。

 心中は酔っぱらってしまったかのよう。

 私を知るものは、

 心中の憂いを指摘しよう。

 私を知らぬ者なら、

 何を探求しているのか、と思うだろう。

 ああ、遥かなり、蒼天よ。

 いったい誰が、このような世にしたのだ。


彼黍離離かしょうりり 彼稷之實かしょくしじつ 

行邁靡靡ぎょうまいびび 中心如噎ちゅうしんじょえつ 

知我者ちがしゃ 謂我心憂せいがしんゆう

不知我者ふちがしゃ 謂我何求せいがかきゅう 

悠悠蒼天ゆうゆうそうてん 此何人哉こかじんか

 かの地でキビの穂が揺れている。

 こちらにはウルキビが実っている。

 ただふらふらとさ迷い歩く。

 心中はむせび泣きたい思いにあふれる。

 私を知るものは、

 心中の憂いを指摘しよう。

 私を知らぬ者なら、

 何を探求しているのか、と思うだろう。

 ああ、遥かなり、蒼天よ。

 いったい誰が、このような世にしたのだ。




〇国風 王風 黍離


詩経全詩の中でも、特に連ごとの文字の変更が少ない詩、なのだそうである。それはなぜか。変更した場所以外の思いがそれだけ強いからである。「かの地に実るキビ」は、もともとは繁栄した宮城の跡である、と言う。その地を思い、懊悩を抱えたままさ迷い歩いていたら、気付けば自らの近くにあったウルキビはすくすくと育ち、実を結ぶにまで至っている。かれの懊悩は深く、いつまでも、いつまでも心をむしばみ続ける。


つまりこの詩は17文字に集約できよう。

なつくさや つはものどもが ゆめのあと




〇儒家センセー のたまわく


王風とは東周の都、洛陽があった地周辺の風土を言う! ここで語られるキビの実る地こそが、まさに周の都があった場所であり、古の周の繁栄が、今やキビの下にうずもれてしまっていることを歌う! 亡国の悲しみである!




■晋書は黍離が好き、三國志は、まぁ


・三國志48・晋書54 陸機りくき伝「弁亡論」

夫然,故能保其社稷而固其土宇,麥秀無悲殷之思,黍離無愍周之感矣。

陸機が「弁亡論」にての滅亡について論じた、その締めの言葉。「国さえよく治まっておればいんの旧跡で麦の穂が揺れることも、しゅうの旧跡で黍の穂が揺れることもなかったであろうに」と嘆じておる。なお三國志では裴松之はいしょうしが注に弁亡論を引用して紹介する形である。


・晋書49 向秀しょうしゅう(竹林七賢)伝

踐二子之遺跡兮,暦窮巷之空廬。歎黍離之湣周兮,悲麥秀於殷墟。

向秀と仲のよかったふたりの才人、嵇康けいこう呂安りょあん司馬昭しばしょうに殺された。魏国中で専権を振るう司馬氏を憎んだためである。後に向秀がかれらの元いた場に立ち入った時に、主無きことを嘆くものとして黍離麥秀が用いられておる。


・晋書86 張駿ちょうしゅん

伏惟陛下天挺岐嶷,堂構晉室,遭家不造,播幸吳楚,宗廟有黍離之哀,園陵有殄廢之痛,普天咨嗟,含氣悲傷。

五胡十六国ごこじゅうろっこく時代前期、涼州りょうしゅうを平和に導いた明君、こと張駿が東晋の穆帝ぼくてい(というより摂政していた会稽かいけい司馬昱しばいく康献褚こうけんちょ皇太后)のもとに使者を飛ばした時の手紙の内容。「せっかく晋が開かれたのに洛陽らくようは滅びて廃墟となり、呉楚の地に逃げ延びる羽目になってしまったこと、悲しくて仕方がありません」と言った内容で盛り込んでおる。


・晋書100 逆臣伝 史臣評

遂使生靈塗炭,神器流離,邦國軫麥秀之哀,宮廟興黍離之痛。

西晋末、劉淵りゅうえんに従い大いに晋を攻撃した武将「王弥おうび」についての評の中の言葉。王弥をはじめとしたクソ野郎どもが暴れ回ったため「生靈」「神器」、即ち天意の代行者たる皇帝は汚辱にまみれ、流浪する羽目に陥った。これこそがまさしく黍離麥秀の悲しみである、とするのである。


・魏書108-4 礼志4

晉博士許猛解三驗曰:案黍離、麥秀之歌,小雅曰「君子作歌,惟以告哀」,魏詩曰「心之憂矣,我歌且謠」。

北魏末期、葬儀についての議論がなされた際、元珍と言う人物が三つ、悲しみを歌う歌を上げた。一つが黍離&麥秀、ひとつが小雅四月、そして最後の一つは魏風園有桃である。



なおしょっちゅうワンセットとなって出てくる「麥秀」は史記しきそう微子びし世家に載る詩「麦秀漸漸兮 禾黍油油 彼狡僮兮 不与我好兮」による。殷のちゅう王がクソだったから殷の都跡地で麦の穂が揺れる羽目に陥ったのだ、と、紂王の叔父である箕子きしが詩にて嘆いた、という代物である。




■世説新語では二条に引用


言語36

温嶠初爲劉琨使來過江。於時江左營建始爾,綱紀未舉。温新至,深有諸慮。既詣王丞相,陳主上幽越,社稷焚滅,山陵夷毀之酷,有黍離之痛。温忠慨深烈,言與泗倶,丞相亦與之對泣。敘情既畢,便深自陳結,丞相亦厚相酬納。既出,懽然言曰:「江左自有管夷吾,此復何憂?」


傷逝17

孝武山陵夕,王孝伯入臨,告其諸弟曰:「雖榱桷惟新,便自有黍離之哀!」


言語36は東晋とうしん初期。東晋を開いた王導おうどうが、西晋の滅亡まで戦い抜いた武将劉琨りゅうこんの副官であった温嶠おんきょうを迎えた時に、西晋の滅亡を「黍離の痛」と呼んでおる。そして傷逝17にては東晋の孝武帝こうぶていが死んだ後、後継が皇族の陰謀により白痴の安帝あんていとされたことを、士大夫の王恭おうきょうが嘆いておる。「あぁ、これで亡国は規定ルートだ!」と。榱桷すいかくとは家の大黒柱を言う。そしてこの発言は全く同じものが晋書巻84にも見えておる。

なお、世説新語に詳細な注釈をつけておる劉孝標は、この二条の注で詩経の存在を語っておらぬ。「いや常識でしょさすがに?」と言わんばかりである。いやいや……。




毛詩正義

https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AF%9B%E8%A9%A9%E6%AD%A3%E7%BE%A9/%E5%8D%B7%E5%9B%9B#%E3%80%8A%E9%BB%8D%E9%9B%A2%E3%80%8B

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