王風(おうふう)
黍離(亡国の悲しみ)
滅亡 絶望 周の滅亡
かの地でキビの穂が揺れている。
こちらにはウルキビの苗がある。
ただふらふらとさ迷い歩く。
心中はぐらぐらと揺れている。
私を知るものは、
心中の憂いを指摘しよう。
私を知らぬ者なら、
何を探求しているのか、と思うだろう。
ああ、遥かなり、蒼天よ。
いったい誰が、このような世にしたのだ。
かの地でキビの穂が揺れている。
こちらにはウルキビが穂を付けた。
ただふらふらとさ迷い歩く。
心中は酔っぱらってしまったかのよう。
私を知るものは、
心中の憂いを指摘しよう。
私を知らぬ者なら、
何を探求しているのか、と思うだろう。
ああ、遥かなり、蒼天よ。
いったい誰が、このような世にしたのだ。
かの地でキビの穂が揺れている。
こちらにはウルキビが実っている。
ただふらふらとさ迷い歩く。
心中はむせび泣きたい思いにあふれる。
私を知るものは、
心中の憂いを指摘しよう。
私を知らぬ者なら、
何を探求しているのか、と思うだろう。
ああ、遥かなり、蒼天よ。
いったい誰が、このような世にしたのだ。
○国風 王風 黍離
詩経全詩の中でも、特に連ごとの文字の変更が少ない詩、なのだそうである。それはなぜか。変更した場所以外の思いがそれだけ強いからである。「かの地に実るキビ」は、もともとは繁栄した宮城の跡である、と言う。その地を思い、懊悩を抱えたままさ迷い歩いていたら、気付けば自らの近くにあったウルキビはすくすくと育ち、実を結ぶにまで至っている。かれの懊悩は深く、いつまでも、いつまでも心をむしばみ続ける。
つまりこの詩は17文字に集約できよう。
「なつくさや つはものどもが ゆめのあと」
○儒家センセー のたまわく
「閔宗周也。周大夫行役至於宗周,過故宗廟宮室,盡為禾黍。閔周室之顛覆,彷徨不忍去,而作是詩也。」
王風とは東周の都、洛陽があった地周辺の風土を言う! ここで語られるキビの実る地こそが、まさに周の都があった場所であり、古の周の繁栄が、今やキビの下にうずもれてしまっていることを歌う! 亡国の悲しみである!
■晋書は黍離が好き、三國志は、まぁ
・史記31 餘祭 注
杜預曰:「王,黍離也。」
春秋呉の王子季札には各国の詩を聞くことでその国の情勢を言い当てるという変態技があった。王風を聞いたときに季札が「うーん、美しいですけど恐くはないですねえ、周の都の近くの歌ですかあ?」とコメントしたそうなのであるが、なぜか杜預がこのコメントを読んで「これは黍離を歌ったものだよね!(キリッ)」と注を付しておる。え、どこコメントのどこに黍離要素があるんですか?
・三國志48 陸機 注
・晋書54 陸機
夫然,故能保其社稷而固其土宇,麥秀無悲殷之思,黍離無愍周之感矣。
陸機が「弁亡論」にて呉の滅亡について論じた、その締めの言葉。「国さえよく治まっておれば殷の旧跡で麦の穂が揺れることも、周の旧跡で黍の穂が揺れることもなかったであろうに」と嘆じておる。なお三國志では裴松之が注に弁亡論を引用して紹介する形である。
・晋書49 向秀
踐二子之遺跡兮,暦窮巷之空廬。歎黍離之湣周兮,悲麥秀於殷墟。
向秀と仲のよかったふたりの才人、嵇康と呂安が司馬昭に殺された。魏国中で専権を振るう司馬氏を憎んだためである。後に向秀がかれらの元いた場に立ち入った時に、主無きことを嘆くものとして黍離麥秀が用いられておる。
・晋書86 張駿
伏惟陛下天挺岐嶷,堂構晉室,遭家不造,播幸吳楚,宗廟有黍離之哀,園陵有殄廢之痛,普天咨嗟,含氣悲傷。
五胡十六国時代前期、涼州を平和に導いた明君、こと張駿が東晋の穆帝(というより摂政していた会稽王司馬昱&康献褚皇太后)のもとに使者を飛ばした時の手紙の内容。「せっかく晋が開かれたのに洛陽は滅びて廃墟となり、呉楚の地に逃げ延びる羽目になってしまったこと、悲しくて仕方がありません」と言った内容で盛り込んでおる。
・晋書100 評
遂使生靈塗炭,神器流離,邦國軫麥秀之哀,宮廟興黍離之痛。
西晋末、劉淵に従い大いに晋を攻撃した武将「王弥」についての評の中の言葉。王弥をはじめとしたクソ野郎どもが暴れ回ったため「生靈」「神器」、即ち天意の代行者たる皇帝は汚辱にまみれ、流浪する羽目に陥った。これこそがまさしく黍離麥秀の悲しみである、とするのである。
・宋書67 謝霊運
至如昏祲蔽景,鼎祚傾基。黍離有歎,鴻雁無期。
みんな大好き謝霊運『撰征賦』、劉裕様かっこいいーしびれるーだいてー(まがお、そんなことよりうちの祖父のかっこよさがですね)を歌う賦の一節である。鴻雁は小雅で、天子が軍役収まらぬ日々を士庶らに強いるのを心痛む詩であり、劉裕の勲功を讃える安帝の詔勅にて援用されてる。こうした内容を踏まえることで劉裕の「新たな世の覇者たるに足る格」を讃えるのであるが、問題はこの詩をまともに読むと「あー一応褒めときますけどそんなことよりだりぃ、うちのじいちゃんマジかっけえ」のほうばかりが印象に残るという、いやこれを宋書に載っけるとかどうなっとんのだ沈約の美的感覚とそわそわせずにおれぬ。。
・魏書108-4 礼志4
晉博士許猛解三驗曰:案黍離、麥秀之歌,小雅曰「君子作歌,惟以告哀」,魏詩曰「心之憂矣,我歌且謠」。
北魏末期、葬儀についての議論がなされた際、元珍と言う人物が三つ、悲しみを歌う歌を上げた。一つが黍離&麥秀、ひとつが小雅四月、そして最後の一つは魏風園有桃である。
なおしょっちゅうワンセットとなって出てくる「麥秀」は史記の宋微子世家に載る詩「麦秀漸漸兮 禾黍油油 彼狡僮兮 不与我好兮」による。殷の紂王がクソだったから殷の都跡地で麦の穂が揺れる羽目に陥ったのだ、と、紂王の叔父である箕子が詩にて嘆いた、という代物である。
■世説新語では二条に引用
・言語36
温嶠初爲劉琨使來過江。於時江左營建始爾,綱紀未舉。温新至,深有諸慮。既詣王丞相,陳主上幽越,社稷焚滅,山陵夷毀之酷,有黍離之痛。温忠慨深烈,言與泗倶,丞相亦與之對泣。敘情既畢,便深自陳結,丞相亦厚相酬納。既出,懽然言曰:「江左自有管夷吾,此復何憂?」
・傷逝17
・晋書84 王恭
「雖榱桷惟新,便自有黍離之哀!」
言語36は東晋初期。東晋を開いた王導が、西晋の滅亡まで戦い抜いた武将劉琨の副官であった温嶠を迎えた時に、西晋の滅亡を「黍離の痛」と呼んでおる。そして傷逝17にては東晋の孝武帝が死んだ後、後継が皇族の陰謀により白痴の安帝とされたことを、士大夫の王恭が嘆いておる。「あぁ、これで亡国は規定ルートだ!」と。榱桷とは家の大黒柱を言う。そしてこの発言は全く同じものが晋書巻84にも見えておる。
なお、世説新語に詳細な注釈をつけておる劉孝標は、この二条の注で詩経の存在を語っておらぬ。「いや常識でしょさすがに?」と言わんばかりである。いやいや……。
■おまえいなきゃやーやねん
魏書63 王肅
尋徵肅入朝,高祖手詔曰:「不見君子,中心如醉,一日三歲,我勞如何。」
王粛は琅邪王氏の主流のひとつ、王謐の爵位を継承しながらも北魏に降った人物である。つまり北魏から見ると「最高峰の南朝貴族がうちにやって来てくれた」となる。こうした人物の前に立つと孝文帝はめちゃくちゃ尻尾を振り始めて「わんわんぼくの教養見てー見てーしゅごいでしょーべんきょうしてるんだよー!」とばかりに引用祭を始め、ここでもその一角を示す。はっきり言って読んでいて気恥ずかしい。
■青空はクソ
最近作者がなぜか読み始めておるダンマパダ016には以下の句がある。「いまその心を焼き、死後もなお焼くものは、両所の心を悪事にて焼く。悪、我を形作らんと呟いては焼き、より悪しき場にまでなだれ落ち、焼け果てる。」人の心はそのありようによって外況を解釈する、というものである。言うまでもなく青空とは爽やかさの代名詞とされるのだが、我が身、共同体、もしくは国が滅びなんとするときの青空は、むしろ青空ならばこそ、見る者の心を焼く。当詩を引き、こう叫ぶ者たちが史上にはあったのである。
・三國志51 孫匡 注
宗廟山陵,於此為墟。悠悠蒼天,此何人哉!
・宋書100 沈璞
悠悠上天,此何人哉。
・魏書45 韋儁
常不為惡,今為惡終。悠悠蒼天,抱直無訴!
毛詩正義
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AF%9B%E8%A9%A9%E6%AD%A3%E7%BE%A9/%E5%8D%B7%E5%9B%9B#%E3%80%8A%E9%BB%8D%E9%9B%A2%E3%80%8B
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