◎崔浩コラム⑤ 儒家センセー
ごきげんよう、
当作にては儒家センセーにご登壇いただき、
「伝統的解釈」をご紹介いただいておる。
当然だが、本来は複数名である。
ただ当作はライト、インスタントを目指す。
そこでどのセンセーがどう発言なされたか、
などとやらかし始めてしまえば、
いろいろとぶち壊しとなろう。
故にセンセー方を合体させ、
謎のハイパーメディアクリエイティブ儒者、
「儒家センセー」を爆誕させておる。
というわけで、ここではあえて
センセーを分裂させ直そう、
と試みる次第である。
無論当コラムが終わり次第、
再び合体し直していただくがな。
それではしばし、お付き合い願いたい。
○オリジン
ここからだ。ここからである。
儒の樹立者孔子と、高弟の一人、子夏。
「三千余の詩を三百余に収斂した」
とのことであるが、いや孔子の段階で
もう三百にまで絞られてたんじゃね?
とも言われておるそうである。
えっじゃあ孔子の存在意義って……。
詩経成立史をたどると、儒教は、
何人もの手によって成し遂げられた
「儒」の確立を、一つのアイコンに
取りまとめたのではないか、
という印象がある。
無論
しかし、儒の経典の全てをこの謎の偉人の
仕事と見立てるのは、正直無理がある。
故に、この二人については
「何人もの儒者が古来より伝わる詩たちを
編纂するに当たり、権威付けのために
その名を拝借した」
とみなすのがよろしかろう。
名もなき偉大ないにしえの儒者たち。
そのアイコンとしての孔子、子夏。
それが詩経解釈史において、
初めて存在を伺える人物である。
膨大な詩からのチョイスは
間違いなく行われておろうからな。
チョイスおよび配列は、詩経における
第一の解釈と呼んで差し支えあるまい。
○いきなり漢代に飛ぶ(三家詩&毛詩)
詩経解釈学は、ここで突然の
ブラックボックスにぶち当たる。
何があったか。
「
歴史のあれこれに立ち入るつもりはないので
ふんわりと書くが、
「そう呼ばれている儒の災難」により、
春秋戦国期の経典研究が塵となった。
漢の儒者は、これらの復興が急務であった。
残されていた詩経のタネ本を
再編成の上、刊行したのが、
の三名。各詩は彼らの出身国より
魯、斉、韓詩と呼ばれていた。
とは言え一つの経典が
三種出ておれば、権威もクソもない。
統合の必要はどうしても出てくる。
そこで出てきたのが後発の「毛詩」。
新たなテキストである。
このテキストは結果として、
前三者をことごとく駆逐した。
この毛詩を、彼らの弟子であった
ブラッシュアップし、各詩に序をつけた、
とされている。つまり貫長卿こそが、
一人目の儒家センセーである。
○漢の時代の動向
前漢後漢を通じ、経典解釈が進められた。
その皮切りとなったのは
まぁ、彼の解釈はあまり残っておらぬのだが。
今ここでは、
紹介するに止めておこう。
ぶっちゃけ、謎の人物である。
それぞれの詩に序をつけた、
くらいしか経歴がない。
しかもそれでは貫長卿と
功績がバッティングしておる。
まあ、かれが序をつけたと仮定しても、
そこに物語が伝わらぬため、
あまり面白みがないのだがな。
○
ここで、化け物が登場する。
伝統的にはじょうげん、と呼ばれておる。
そう、コラム④に登場した、
奴隷いぢめをぶち決めるオッサンである。
先に毛詩が他テキストを駆逐した、と書いた。
何故か。鄭玄がなした毛詩注が、
異常な完成度だったためである。
経典が権威であるなら、注も基本は一家が
スタンダードとして存在することとなろう。
その解釈スタンダードの座を、
みごと鄭玄が射止めたのである。
つまり、儒家センセーを語る場合、
その6〜8割がたは鄭玄注に帰する。
そこまで言ってもよいのやもしれぬ。
ちなみに、そういうオッサンだからこそ
いぢられている、とも考えられような。
○毛詩解釈まで空白ですか!?
鄭玄というモンスターの登場が後漢末。
ここよりいわゆる
すなわち、戦乱の時代に入る。
この時期について、毛詩正義序文は語る。
晉宋二蕭之世,其道大行。
齊魏兩河之閒,茲風不墜。
南朝めっちゃ鄭玄注流行りました☆
北朝でもアゲアゲでした☆
つまり、進展がなかったのである。
なかったのである!!!
いやそれならそれで別に構わぬのだが。
ただ、毛詩正義を追っていると、
ときおり
個々人が断片的には解釈を
発展させてはおったようであるが、
総体的な動きまでには至らなかった、
といった辺りであろうかな。
○毛詩正義への動き
数百年の戦乱をおさめ、
新たなスタンダードとなった国、である。
その存在意義がどのように発露されるか。
過去の総括、である。
例えば、いわゆる正史。
唐帝の勅令により編纂されたのが、
また唐の史学者がカヴァーしきれなんだ、
他の史書との統合により、
「
これらが何を示すか。
唐は、次の時代のあらゆるスタンダードを、
唐基準で揃えようとしたのである!
ヒュッー! ヒュツー!
と言う訳で、その標的は「儒」という
思考の枠にも、当然及ぶ。
開幕するのは思想家戦国時代。
毛詩正義は、突然毛詩解釈者の名を列挙する。
いわく、
ほうほう?
なんだかここに並ぶ人間が
クソゴミカスみたいな話が続いていますね?
注釈能力はすごいが、どうにも人品的に
クソゴミカスであったため、
毛詩正義の編纂責任者たる
といった人物の力を借り、
これら注釈を毛詩正義として
まとめ上げた、との事である。
ちなみに孔穎達は孔子三十二代目の孫と自称。
うーんこの。
ただ、その孔穎達であるが、
秦王、すなわち後の唐太宗
サイキョーの学者十八名のうちの一人である。
つまり、李世民よりの信任絶好調!
かくて唐の時代、毛詩正義による解釈が
「お国のスタンダード」と位置づけられた。
めでたし、めでたし☆
○いやめでたくねーわ
以上の話を乱暴にまとめてしまえば、
ハメクリ儒者、「儒家センセー」は、
孔子子夏によって編纂されたテキストを
毛氏親子が復元したものに対し、
貫長卿もしくは衛宏をベースとし、
その思考の大半を鄭玄に依拠した、
孔穎達の思考である、と規定し得よう。
毛詩正義の誕生は、
その後の詩経解釈に対する発展を
大きく阻害した、と言われている。
それはそうである。
「この解釈がジャスティス!
逆らうやつはタヒね!」
と言われ、誰があえて噛みつけようか。
ただ、こうは言える。
毛詩正義の解釈は、
間違いなく当時の政権が
求めたものなのである、と。
直接的に言えば唐人の行動規範を
占うものであるし、
間接的には唐までの時代の支配層が
求めた領民の姿。
繰り返しとなるが、毛詩正義的解釈、
すなわち、儒家センセー的見解は、
現在、かなりの部分が却下されておる。
ただし、それをもって
毛詩正義の価値を貶めることは叶わぬ。
間違いなくそれらが、
当時の行動規範だったのであるからな。
そして、これも繰り返しとなるが、
ならばこそ今の価値観と違うんだし、
好きに読んじゃっていいじゃん!
ともなるのである。
長くなってしまった。
では、また次回。
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