伯兮(出征した夫/戦争批判)
妻→夫 兵役 無事を願う 不安 無体 戦争批判
我が夫は偉大なお方。
お国の英傑。
夫は矛を取られ、
王の先駆けとなられる。
我が夫が東に出征してより、
私の頭は乱れたヨモギ。
髪なぞ簡単に整えられようが、
誰のために整えるのだ。
雨よ降れ、雨よ降れと願えど、
願いむなしく、煌々とした日差し。
そうすれば夫も帰ってこれように。
頭も痛くなってきた。
ワスレグサにでも頼って、
この憂悶を忘れ去りたいのに。
夫の帰還を願い、
我が心は千々に乱れるのだ。
○国風 衛風 伯兮
勇ましく出征をしてゆかれた夫を応援したくも、戦死してしまう恐怖、隣におらぬさみしさの方が圧倒的に勝つ。そのように感ぜられる詩であるな。第一連だけがやけに勇ましいので、うっかり勘違いしてしまいそうにはなるのだが。
○儒家センセー のたまわく
「刺時也。言君子行役,為王前驅,過時而不反焉。」
衛の宣公の時代に起こった戦役にて、多くの者が出征した! そのうちの何名かは遂に帰ってくることがなかった! 無体な戦役によって士大夫を駆り出す無体を批判するのである!
■あっ河伯だった
伯兮で拾おうと思ったら、史記は「河伯」兮であった。やあ、こいつはうっかり。せっかくなので載せたままとする。どれも当詩を引用したわけではないのだが、漢書敍傳は劉邦の兄弟について語るにあたり、あえて伯兮としておるあたりやや当詩に引っかけようとしておる気もせぬではない。
・史記29 河渠書
為我謂河伯兮何不仁,泛濫不止兮愁吾人?
・漢書100.2 敍傳下
太上四子:伯兮早夭,仲氏王代,斿宅于楚。
・後漢書59 張衡
文斷袪而忌伯兮,閹謁賊而寧后。
■楚辞の兮はオウファック
史記84 屈原
邑犬羣吠兮,吠所怪也;誹駿疑桀兮,固庸態也。
史書に載る屈原の詩よりの引用である。屈原の詩が多く収録される詩集「楚辞」では兮字がいわゆる句の区切りに差し挟まれることが多い。作者はここをどう訳に落とし込むと良いのか一通り悩んだあげく「せや! オウファック的合いの手としておけばええんや!」などと言い出した。愚昧である。ともあれここでは桀兮とされておるわけであるが、ぱっと見夏王桀と言い出したいところ「傑出」の意味だそうである。本気か?
■簡文サマすてき
世説新語 言語56
簡文作撫軍時,嘗與桓宣武俱入朝,更相讓在前。宣武不得已而先之,因曰:「伯也執殳,為王前驅。」簡文曰:「所謂『無小無大,從公于邁』。」
晋の簡文帝司馬昱がいまだ将軍であったころ、同僚の桓温とともにときの皇帝に謁見した。この時お互いに先導を譲り合ったのだが、最終的に桓温が先に立つこととなった。この時桓温は「我が敬慕する司馬昱様の前駆となりましょう!」という思いで、この詩を引用している(ちなみに簡文帝の応答も詩経魯頌よりの引用である)。
その印象が強かったため誤解につながったのであるが、詩全体が勇壮な雰囲気になっているのかと思えば、まるでそんなこともなく。これはやはり鄭玄の女奴隷の応答と同じように「詩全体の含意を踏まえず、飽くまで句だけで拾う」ほうがよいのかな。簡文帝が引用しておる魯頌「泮水」はいわば英雄叙事詩であるし、下手に詩全体からの援用と考えてもろくなことにはならなさそうである。
■矛を取る、の雅語
左伝は本文に載っておるが、三国志はいわゆる上奏文である。なぜこのようなことになるか。左伝の時代「殳」が現役武器だったようなのである。
http://paulbeauchamp.org/2021/04/28/%E8%BF%91%E6%B3%81%E5%A0%B1%E5%91%8A%E3%80%80%E3%80%8E%E5%91%A8%E7%A4%BC%E3%80%8F%E5%86%AC%E5%AE%98%E3%81%AE%E5%AE%9A%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AE%B3%E3%81%AE%E8%A6%8F%E6%A0%BC/
そして三国志の時代には伝承上にしか残らぬ武器と化し、よって雅語扱いとなった、と言うことなのであろう。
・左伝 昭公23
聞烏存執殳而立於道左。懼。將止死。
・三國志47 孫権 注
殿下既為宗室,有維城之責,不荷戈執殳為海內率先,而於是自名
■伯也執殳の変形
晋書71 熊遠
臣子之責,宜在枕戈為王前驅。
東晋元帝に「なにてめーのほほんと過ごしとんのじゃボケが!」とぶち切れた諫めの手紙の一節である。当時は懐帝愍帝が立て続けに前趙に殺され、東晋としてはその恥を雪ぐべく北伐を志さねばならぬというタイミング。しかし元帝は廷臣らとのんべんだらり。そこで熊遠がキレておる。「今は枕元に矛を立てかけておき、ひとたび王命があれば即前駆として動かねばならぬタイミングのはずなのになんやねんこれは!」というわけである。このおブチ切れ上奏が熊遠でんの約2/5を占めており、晋書編者も元帝ののんべんだらりぶりにだいぶいらついておるのが見える。
■飛ぶヨモギとは
三國志6 袁紹 注
雷震虎步,並集虜庭,若舉炎火以焫飛蓬,覆滄海而沃熛炭,有何不消滅者哉?
陳琳が官渡にあたり曹操撃滅のための檄文をものした際の一節である。袁紹軍の勢いなら曹操軍なぞ「飛び散るヨモギを燃やすがごときもの」だという。乱れている有様でも、さらにバラバラ感が強くなりそうなニュアンスが感ぜられる。
■この兄弟はもう……
三國志19 曹植
妃妾之家,膏沐之遺,歲得再通,齊義於貴宗
妃妾之家, 膏沐疏略,朕縱不能敦而睦之,
ある時曹植が曹丕に「なあなあ兄ちゃん、もっと親族大切にしてくれよう、妃の家にも化粧品送ってやるとかさあ」と上奏すれば、「うーん確かに朕その辺疎かだったね、対応したよ」と答えた、とされる。ここのやり取りにおいて他の語彙であまり照応が見られぬのに、この部分にだけ照応が見られるのには、何らかの微言を見出すことも可能なのやも知れぬが、よくわからぬ。このあたりを掘れると曹丕曹植の手紙のやり取りは面白いのやもしれぬな。
■心の病?
宋書44 謝晦
哀弱息之從禍,悲發中而心痗。
劉宋の謀臣謝晦が劉義隆により追い詰められ決起するも敗れ、捕らわれ、刑場に護送される際に詠んだ『悲人道』の一節である。これと対になる句では同僚の徐羨之および傅亮の死を悼んでおったので、こちらはおそらく連座を受ける子たちのことを悲しんだのやも知れぬ。当詩を踏まえれば、彼らの死を思うと心が千々となる、と言ったあたりになるのであろうかな。
毛詩正義
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AF%9B%E8%A9%A9%E6%AD%A3%E7%BE%A9/%E5%8D%B7%E4%B8%89#%E3%80%8A%E4%BC%AF%E5%85%AE%E3%80%8B
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