河廣(望郷の思い/遠き息子を思う)
望郷 強がり 衛宣公 烝
黄河のどこが広いというのだ。
アシで編んだ船で渡れるではないか。
宋のどこが遠いというのだ。
つま先立ちすれば、
私の眼はかの地を見出せる。
黄河のどこが広いというのだ。
小刀も入れられぬほど狭いではないか。
宋のどこが遠いというのだ。
あの地に行くなど、
それこそ朝飯前ではないか。
○国風 衛風 河廣
じゃあ渡れや、行けや、と言ってしまうのは野暮である。実際にはそんなことがないからこそ、この詩には黄河の向こう、故郷の宋国への思慕がべっとりと染みついている。あまりにも遠すぎて帰れないとわかっているからこそ、そうつぶやかざるを得ぬわけである。容刀
○儒家センセー のたまわく
「宋襄公母歸於衛,思而不止,故作是詩也。」
衛の宣公に嫁いだ姜氏は、義理の息子頑と「烝」をなし子をもうけた! その娘の一人がこの詩の詠み手である! 彼女は宋の桓公に嫁入りし、のちの宋の襄公を産むも離縁され、衛へと戻ってきた! 生まれたばかりの子と引き離された彼女が、子を思いこの詩を詠んだのである!
○崔浩先生、瀕死
仕方のないことではあるのだが、各国国公の諡号がガンガンかぶって地獄であるな……なおこの詩は、「元の解説はクソ」が基本スタンスである朱子学的解釈においても儒家センセーの説を採っておるそうである。春秋左氏伝の閔公二年条にこの話が実際に見えており、あえて棄却する必要もない、と判断したのであろう。となるとそこをアンチ毛詩解釈過激派がどう解釈したのか、気になるところであるな。
■我が身を思い
魏書65 李諧
望鄉村而佇立,曾不遙之河廣。
みんな大好き北魏末期の大暴君、北海王元顥の配下にいた人が元顥破滅後に詠んだ賦の一節である。既に燕燕にても紹介した句であるが、故郷に帰りたくとも帰れない李諧の苦衷の思いが偲ばされるかのようである。
■長江なんて葦で渡れます!
当詩で言う「一葦杭之」と言う言葉は、奇しくも長江の南北で用いられておる。時期は違うのだが、あるいは前者が後者のもとに辿り着いた、と言う流れもあるのやもしれぬ。曹丕が長江北岸にまで迫り、その軍旅の途中で詠んだとされる「載帝於馬上爲詩」。その一節で用いられたこの句は、或いは威嚇として呉にももたらされたのやもしれぬ。それを用いて賀邵が孫皓に対し「あいつら本当に一本の葦でも渡ってきますよ」と諫めたのであれば、まぁ、なんと言うか、孫晧に激怒されても仕方がない気もせぬではない。「お前は魏の肩を持つわけだな」と逆切れを食らってもやむなき流れとなるからな。
・三國志2 曹丕 注
誰云江水廣,一葦可以航,不戰屈敵虜,戢兵稱賢良。
・三国志65 賀邵
臣聞否泰無常,吉兇由人,長江限不可久恃,苟我不守,一葦可航也。
■袁顗反逆とか諦めーや
宋書84 袁顗
跂予南服,寤寐延首,若反棹沿流,歸誠鳳闕,錫珪開宇,非爾而誰。
劉宋明帝の時代、袁顗は晉安王劉子勛を担ぎ謀反を志した。それに対し「おまえそう言う無謀なことやめて大人しく戻ってきなさいよ」と明帝がたしなめた書面の一節である。いいからちゃんと身だしなみを整えて戻ってきなさいよ、と言った感じなのであろうかな。
■刀の入る隙間
晋書48 閻纘
一朝不朝,其間容刀
黄河を「刀の入る隙間もないほどに狭い」とはまたずいぶんな誇大表現であるが、そこをひっくり返し閻纘伝では距離が離れることを「容刀」と語っておる、ようである。なおこの句は大雅公劉にも出てくるが、そちらは儀礼用の刀を言う、とのことである。
毛詩正義
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AF%9B%E8%A9%A9%E6%AD%A3%E7%BE%A9/%E5%8D%B7%E4%B8%89#%E3%80%8A%E6%B2%B3%E5%BB%A3%E3%80%8B
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