旄丘(黎の士大夫、衛の乱れを責める)

旄丘ぼうきゅう 引用14件

臣下 亡命 困窮 やけくそ



旄丘之葛兮ぼうきゅうしかつけい 何誕之節兮かたんしせつけい

叔兮伯兮しゅくけいはくけい 何多日也かたじつや

 そこの丘にカズラが生えている。

 随分と伸びて節のついたものよ。

 見よ、ご歴々。

 なんと日にちが経ってしまったもの。


何其處也かきしょや 必有與也ひつゆうよや

何其久也かききゅうや 必有以也ひつゆうじや

 何をぐずぐずしているのか?

 何かいいことがあるとでも?

 それで随分と時間が経った。

 何か理由でもあるのかな。


狐裘蒙戎こきゅうもうじゅう 匪車不東ひしゃふとう

叔兮伯兮しゅくけいはくけい 靡所與同びしょよどう

 あなたの着る狐の皮衣。

 随分とボロボロになったが、

 それでもいまだ援軍は来ぬ。

 見よ、ご歴々。

 どなたが我らと苦難を

 共にしてくださるのかな。


瑣兮尾兮はんけいびけい 流離之子りゅうりしし

叔兮伯兮 褎如充耳ゆうじょじゅうじ

 随分とまぁ、落ちぶれたことよ。

 すっかり浮浪人の子ではないか。

 あたりのご歴々は、

 イヤリングからして

 豪華であらせられるに。



〇国風 邶風 旄丘

亡命してきた国の臣下が亡命先の国がまるで救いの手を差し伸べてくれぬことに対してブチ切れておる。「亡命先のお歴々」にいくら訴えても意味はなく、気づけば亡命した時には大して伸びていなかったカズラが伸び、すっかり節がつくくらいの月日が経ったというに、いまだ状況は改善せぬ。臣下どののブチ切れぶりが半端なくてよいな。



〇儒家センセー のたまわく

「責衞伯也。狄人迫逐黎侯。黎侯寓于衛。衛不能脩方伯連率之職。黎之臣子以責於衛也。」

式微に引き続き、黎侯が衛国に亡命したシーンにて臣下がブチ切れておる詩である! ただしここでのブチ切れは、あくまで身なりばかり飾って実態はただの怠け者に過ぎぬ衛国の士大夫らに向けられておる! 窮地に立たされた黎国の者たちが救いを求めた衛国は、これまでの詩にて述べられてきたとおり主権の凋落により、乱れに乱れておった! 黎国の士大夫の叫びを通し、衛国の乱倫ぶりを間接的に批判したのである!




■爾雅、曰く

爾雅 釈丘

前高旄丘。後高陵丘。偏高阿丘。宛中宛丘。


丘の様々な種類が記されておる。それによると手前が高くて後ろが低い山を旄丘と呼ぶようである。なるほど、と思ったのだが、殺人的に用例が少ない。まぁ史書と言うよりは一般書に見えがちな言葉にもなるのであろうがな。



■詩専門用語じゃねーかw

宋書67 謝霊運 撰征賦

麥萋萋於旄丘,柳依依於高城。相雎鳩之集河,觀鳴鹿之食苹。

 

「麦は小高い丘に萋萋と生え、柳は高い城のほとりに依依と垂れる。鳥たちが川面に集まっているのを眺め、鹿が鳴きながらヨモギを食べているのを見る。」言葉だけみればあら大自然の素敵な様子ね☆ で終わるのであるが、一句目は当詩(麥萋萋はいろいろなところで出てくるので割愛)、二句目は小雅采薇の「楊柳依依」、三句目は関雎と、四句目は小雅鹿鳴と大盤振る舞いである。つまり国家の繁栄を祝賀する句なのであるが、まぁさすがにこの辺りは詩経が基礎教養であったことを考えれば「簡単なミーム」であった、と評するしかないのであろうな。さすがは当世最強の詩人謝霊運、詩に「簡単な寓意」を織り込むのもお手の物、と言うことのようである。



■ずいぶん時が下っちゃいましたね

何其久也。訓読すれば「何ぞそれ久しかりきや」となる。どんだけ時間が空いとんねんと、かなり嫌味のニュアンスが強い。36 巻は注であるから当然114巻のほうが先の用法であるが、ここでも「あら~蛮族くんご先祖はそれでも礼儀知ってたけど、子孫はずいぶん時間が経っちゃいましたからねー、仕方ないですね~☆」という感じであり、司馬遷先生が越の民に無邪気にヘイトたたき込んでおられていてよい。


・史記36 陳杞世家 注

 按:孔子以魯定公十四年適陳,當陳湣公之六年,上文說是。此十三年,孔子仍在陳,凡經八年,何其久也?

・史記114 評

 越雖蠻夷,其先豈嘗有大功德於民哉,何其久也!



■狐裘:ケモノの革の服

ここのほか秦風終南・檜風羔裘・小雅都人士にも見えておるが、まぁ昔のえらい人が着ていた服、という感じでよろしかろう。左伝に多いのは当然で、左伝時代にはそもそも雅語ではなく「普通に存在するえらい人の着ていた豪華な服」だからである……と言おうと思ったのだが、左伝に載るものもほぼほぼ雅語であった。また史記46の記述を受けて晋書128の発言が発生しているのも伺えるであろう。こうした連結を見出すことこそが詩経引用の醍醐味である。


・左伝僖公5

・史記39 晋献公

 退而歌曰:「狐裘蒙茸,一國三公,吾誰適從!」

・左伝 襄公4

 國人誦之曰。臧之狐裘。敗我於狐駘。

・左伝 襄公14

 辭曰。余不說初矣。余狐裘而羔袖。

・左伝 哀公17

 大子請使良夫。良夫乘衷甸。兩牡。紫衣狐裘。


・史記37 衞康叔世家 注

 衞侯求令名者與之食焉,太子請使良夫,良夫紫衣狐裘,不釋劍而食,太子使牽退,數之罪而殺之。

・史記46 斉威王

 淳于髡曰:「狐裘雖敝,不可補以黃狗之皮。」


・晋書78 孔愉

「晏平仲儉,祀其先人,豚肩不掩豆,猶狐裘數十年,卿復何辭!」

・晋書128 慕容超

 宏俱有不平之色,相謂曰:「黃犬之皮恐當終補狐裘也。」



■ズタズタビリビリ

魏書107.2 律暦下

臣等職司其憂,猶恐未盡。竊以蒙戎為飾,必藉眾腋之華;輪奐成宇,寧止一枝之用。


なんと、狐裘蒙戎で「金持ちや貴族などの上流階級の人が権力を悪用して、国家が乱れること。」という意味の四字熟語となるらしい。初耳である。そしてたぶん作者はすぐ忘れる。現代で用いても通じる気が一切せぬしな。



■董仲舒くんクソ才人

漢書56 董仲舒

今子大夫褎然為舉首,朕甚嘉之。


前漢の暴君だか名君だかである武帝は、即位してすぐに「自分の足りないところを補いたい!」と学者たちを選抜試験に掛けた。このときの試験開催宣言において用いられておる。一文字だけやん!? と思えば、ここで顔師古が注にて「ここで言う褎は叔兮伯兮,褎如充耳の褎だよ!」と解説しておる。じつは漢書の注には結構この手の解説があるのだが、わりとスルーしておる。だのに敢えてここで紹介したのは、ここでしか「褎然」なる語句が用いられておらぬからである。何と言うか、開催宣言を執筆なされた文人氏は新進気鋭の言葉として褎然を用いたのであろうが、残念ながら2500年ほど早かったようである。かわいそうなのでひろってあげました。



毛詩正義

https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AF%9B%E8%A9%A9%E6%AD%A3%E7%BE%A9/%E5%8D%B7%E4%BA%8C#%E3%80%8A%E6%97%84%E4%B8%98%E3%80%8B

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る