◎崔浩コラム② 三国志と詩経

ごきげんよう、崔浩さいこうである。


当作のごときアオリを決める作品を

覗いてみよう、と心される諸氏である。

あるいは、三国志さんごくしを史書にて

お読みになっておられるやもしれぬ。


そういった方々に申し上げよう。

ぜひ諸氏におかれては、

史書上に現れる詩経引用を、

当作の「儒家センセー」欄に基づき

解釈なされるとよろしい。


今回は、その理由について語ろう。



毛詩正義もうしせいぎ


当作は、各詩の末尾に

毛詩正義へのリンクを掲示している。

これは、大雑把に申せば

とうまでの詩経解釈のスタンダード」

である。


何せ、詩である。

ぶっちゃけ、どう解釈してもよい。

っが、それでは経典として成り立ちづらい。


そこで唐の太宗、李世民が

「ごちゃごちゃしてわけわかんねー。

 経典として参照しやすくなるよう

 一通りまとめ上げろ」

と命令。解釈を集積させた。


つまり毛詩正義は、それまでになされた

詩経のさまざまな教条的側面を

一冊にまとめ上げたものなのである。

ゆえに、いわゆる「正史」にある

詩経引用の背景は、おおよそ毛詩正義より

参照が叶う、と考えられる。


この辺り、更にぶっちゃければ

大方が史書記述の文脈に沿うわけであるから

「はい詩経の引用ねオッケーオッケー」

とスルーしてしまっても、

割と構わない、ともなるのだがな。


ただ、記述に織り込まれた感情の襞。

これを詩経引用より拾うとき、

毛詩正義に基づくか、後世に興る

「素朴な解釈の復興」に求めるかで、

だいぶニュアンスが異なってくる。


ここは見逃せぬ点であろう。



○朱子学による「解放」


毛詩正義による解釈が、現在わりと

「バカジャネーノ」的扱いである。

元々その動きはあったのであろうが、

それが決定的となったのは南宋なんそうの時代、

いわゆる「朱子学しゅしがく」の登場。


こんにち的な儒の姿、乱暴に言えば

「中華」というイメージの姿を、

ほぼ決定づけたと言って良い学問である。


この学問が提示した「新解釈」により、

各語句は、伝統的な解釈より解放された。

よりおおらかで、みずみずしき、

古来の歌い手たちの感情を取り戻した、

……と、される。


ただし。

よほど古来の解釈が憎かったようで、

南宋から時を下り、しんに至ると、

「すべての伝統的解釈=クソ」

といった過激派も登場したという。


現在は「さすがに全否定はねーわ」が、

おおかたの見方だそうである。



○引用との付き合い


作者はプロフィールにて

魏晋南北朝ぎしんなんぼくちょう時代キチ」を名乗る。

いわば「唐代以前」キチである。


ならば作者が詩経引用と向き合う場合、

「儒家センセー」の解釈が求められる。

当作において、あえて「伝統的解釈」を

掲載しておるのは、作者が遊ぶ時代において

割と必須だからである。


そして、その勉強を形に残しておくと、

三国志や、それ以前の時代で遊ばれる諸氏に、

「詩経引用ごっこ」という、

業深クソヲタムーヴを、

インスタントに提供できよう。



○業深クソヲタムーヴ


業深クソヲタムーヴは、

扉を開きさえすればよい。

一度その腐臭を味わったものは、

あとは勝手に転がり落ちゆくであろう。


深淵は、深淵を覗き込まぬ者をも

また、引きずりこもうとするのである。


よ う こ そ ……。

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