君といた夏

さっぷうけい

「必ずお読みください

 君との出会いは、21歳の夏のこと。


 その年は暑い夏が続き、東京では観測史上最高気温を記録した、と涼しい顔をしたリポーターが伝える。


 することもなく惰性でつけたテレビを横目で見ながら、しばらくは戻りたくないと心から思っていた。


 その思いに気付いたのか、木々たちの呼吸で風鈴が優しい警鐘を鳴らした。


 東京で通っている生物学系の大学には考えるだけで億劫おっくうになる研究だってあるし、早く夏休みに入ろうと持ち帰りにしたレポート用紙だって、あの入

 道雲のように真っ白だ。


 やっぱり急いで帰らねば、というブラック企業に取りつかれた社畜にも似た使命感が脳裏をよぎる。頭がふらふらしてきた。


 とりあえず今日には実家を出ることを決意し、その旨を伝えるため母に声を掛けようとする。


 しかし同じタイミングで


「ねぇ、向かいのおじさんが大きなスイカが採れたっておすそ分けしてくれたんだけど、今から食べるかしら?」


 _____まぁ、その後でも問題ないか。





 都会のスーパーでは信じられないほど赤くて大きいスイカを食べた後、何か引っ掛かって思い出せないような感覚とともに縁側で風を浴びていた。


 田舎だとコンクリートもビルも無いためか、扇風機もエアコンも絶賛無職である。


 きっと来年もこいつは就活をサボるんだろうなと、来年に就活を控えた自分になるべく目を背けながら考える。



 …ずっとこのまま居られればいいのに。一度は忘れられた都会の喧騒けんそうが、ひるんだ時を狙ったかのように思い出される。


 やはり頭が痛くなる。


 そこまで暑くもないのに陽炎かげろうのように目の前が揺れて見え、遠くに青々と茂る山は輪郭がはっきりせず、都会に帰ろうとする自分をはばむようだった。



 あぁ、もういっそこのまま___

 なんて考えていたときだった。



 目の前を彼女が

 いやが、通り過ぎて行った。



 彼女は子供とも大人とも言えない顔立ちをしており、しかし背丈は小さく、女性らしい綺麗なS字を描くスタイルをしていた。


 何よりも目を引いたのが、田舎には似つかわしくない、言うなれば白黒のボーダーのシャツにオフホワイトのロングスカートというような服装だった。


 その見た目に、思わず目を奪われて離せなかった。


 それだけではない、どこか懐かしさも感じていた。が、微睡まどろんだ頭では上手く思い出せない。


 そして一瞬彼女と目があったような気がして、それだけで胸が高鳴る。こんなことを言うなんて、やっぱり頭がやられてるのかもしれない。


 きっと、夏の暑さのせいだ。そう思うことにした。



 白昼夢のような感覚から目覚めて、気付くと空は夕焼けの赤色に染まっていた。


 忘れていた使命感を今更になって思い出し、帰りの電車がないという都会で使い慣れた言い訳を自分に言い聞かせながら、今日もここに泊まっていくことにした。





 次の日の朝は夏の風物詩のむずがゆい羽音で目が覚めた。


 それと同時に、今日も彼女が来るかもしれないという期待に胸を躍らせて縁側に向かう。


 刺されて少し腫れた腕を掻きながら、彼女が幸せなら自分だって幸せだと鼻歌交じりに考える。


 しかしすぐにはっとして、どこまで頭がおかしいのだろうと自分に少しあきれる。



 そして思った通り彼女は居た。昨日と全く同じように、白と黒のコントラストが目に映える。


 その場で立ち止まってあたりをうかがう様子から、今日は誰かを待っているのだろうか。

 一瞬目が合って、やはりすぐに逸らされたような気がした。



 彼女を見つめながら当然のように赤みの引かない腕を掻いていると、急に痛みが走る。


 腕を見ると、爪で強く掻き過ぎたせいか血が出ている。彼女に夢中でかゆみ止めも塗らず、無意識のうちに掻きむしったのが原因だろう。


 ただ成分によっては匂いがキツいものもあるので、それで彼女に嫌われてはたまらない。


 寝起きとは思えないほど軽い腰を上げて、血を洗い流そうと水道に向かう。早く戻らなければ、と今度は幸せな使命感から小走りになる。



 そしていざ洗い流そうと腕を見た瞬間、思い出した。彼女を見たときに感じた違和感。


 それはもう十年以上も昔の、あの日のこと。





 その頃は正義感が強く、とにかく誰かの味方になってあげたかった。

 当時昆虫採集が好きだった影響か、流行はやっていたスーパー戦隊の影響か、それとも消防隊として活躍していた父の影響か。


 そんな自分が、『女の子に悪口をいう男の子』という典型的なまでのいじめを見たらどうなるか。もちろん全力で女の子を助けに行こうとした。

 

 そして男の子を、殴ってしまった。


 それは、たった一発だけだった。

 しかし彼の顔に当たり、唇あたりを切ってしまった。別に全然大したけがじゃない。


 それでも口元からは血が出ていて、殴った拳にも少し付いていた。


 男の子の方もそれに気付いたらしく、慌てるように逃げて行った。



 これで助けられた、と達成感とともに女の子の方を振り返る____しかし彼女は、恐ろしいようなものを見る目でこちらを見つめていた。


「そ、それ、血……」


「うん、でもぜんぜん大丈夫!あの男の子は追い払ったから…」


「来ないで!!」


 その悲鳴のような叫びが、衝撃だった。


 彼女の目からこぼれる光を失った涙は、今でも目に焼き付いている。


 そして走り去っていく彼女の、白と黒のボーダーTシャツを見つめることしか出来なかった。




 随分と昔の、痛々しい記憶を思い出してしまった。


 すでに血は固まっており、急いで縁側に戻る。


 しかしすでに、彼女の姿はなかった。耳にジージーとセミの鳴き声だけが響く。


 その日も一日中、足りない何かを埋めるように縁側から空を見つめていた。雲一つない快晴の空だったが、それが逆に物寂ものさびしさを引き立てた。


 そして、ふと今日は村の花火大会があることに気付く。この空も夜になれば花火と星の光で満たされると思うと、どこか自分も期待してしまう。


 きっとそれは正義感の押し付けに似た、昔の悪いクセだ。




 今日も家に泊まってく旨を母に伝え、ついでに花火でも見てくる、と家を出ようとしたときだった。母から蚊取り線香を渡される。


 彼女に会うことを考えると、こんなものは要らないと突っぱねようと思った。


 しかし母親に強く勧められるとどうにも断れず、結局持っていくことにした。



 都会とは違い道路照明灯のほとんど無い田舎の道は妙に薄暗くて、星の明かりだけが力強く、でも頼りなく光っていた。


 それでも、昔の記憶を頼りに花火が打ち上げられる会場へと向かう。


 行く道の途中で、浴衣ゆかたの子供たちがはしゃぎながら走っていった。きっと向かう先は同じだろう。


 そんな彼らの方が、星なんかよりもずっとまぶしかった。




 男の子を殴ってしまった一件から先生にはひどく叱られ、彼の両親にも謝罪した。決して女の子を守ったことには触れられないまま。


 そして友達は離れていき、花火大会に誰かと行くことも無くなった。


 中学からは逃げるように村の外の全寮制の学校に通って、とにかく勉強した。高校、大学と順調に進学もできた。


 それなのに、心に穴は開いたままだった。



 そして今日、ようやくその理由が分かった気がする。


 自分の正義感が、振りかざしていた善意が、結局あの女の子を傷つけてしまったことが悔しかったのだ。




 そんな重苦しいことを考えながらも足取りだけは皮肉なほど軽く、気がつくと会場に着いていた。


 思った以上に混雑していて、これだけヒトがいれば彼女だってきっと来ているだろうと確信する。


 しかし、どうしても彼女に合わせる顔がなかった。自信がなかった。傷つけてしまわないか心配だった。



 会場の賑わいとは裏腹に、まだ夜空は静かである。その空の暗がりは、地面の明かりや星の光なんてもろともせず、やはり暗いままだ。


 やっぱり今日は帰ろう。そして、明日にはもうこの村を出よう。


 ___そう思ったときだった。



 見知らぬ一人の少女が、道の小石につまづく。


 そしてザザッ、と目の前で転んでしまう。


 思わずその少女に駆け寄った。


 綺麗な水色の浴衣は膝元ひざもとが泥で汚れており、反射でついた両腕には痛そうな傷があって、少女は涙目である。


 すぐにポケットから絆創膏ばんそうこうを取り出し、傷口を洗って貼り付ける。


 それでも見るからに痛々しい姿の少女に、「大丈夫か?」と尋ねた。


 泥でくすんだ涙の跡がまだ残っている。


 浴衣の汚れは、洗っても落ちそうにない。


 そんな姿なのに少女は、


 少女は、満面の笑みで。


「もう大丈夫だよ。ありがとうお兄ちゃん!」


 その言葉だけで良かった。





 少女を見送った後、振り返ると彼女の姿が見えた。彼女もこちらに気付いたようで、何も言わずに近づいてくる。


 そのとき、夜空に一輪の花火が上がった。


「たーまやー」という、男性の力強い声が聞こえる。この声は多分、消防隊として見回りをしている父のであろう。


 そしてそれを合図に、次々と花火たちも雄叫おたけびを上げながら夜空を照らす。


 それに圧倒されてか、思わず手にカが入る。


 しかしその手を握るのではなく、優しく両手で包み込んだ。


 もうこの拳を誰にも上げるまい、と胸に誓って。


 

 さっき助けた少女が向かう先に居た人物を思い出す。

 

 あれは決して忘れることのない、10年前に助けた女の子だった。

 

 そして彼女も、笑っていた。これで良かったんだ。

 


 ふと思い出して、ポケットから火のついていない蚊取り線香を取り出す。

  

 隣にいた彼女は不思議そうにこちらを見ている様子である。

 

 それを空に思いっきり放り投げると、同じくして火のつぼみが上がった。


 そして開いた花弁はなびらの光を浴びて、独特な緑色の”花火”が打ちあがった。



 である君に捧げる、特別な”蚊取り線香”が。 」





 __という話が、蚊取り線香のパッケージ裏にあった。どうやらメーカーが宣伝にと始めた『蚊といた夏』という創作らしい。

 見た瞬間にお腹のS字の膨らみからメスと判断できる大学生と、白黒のボーダーシャツを着たヒトスジシマカ、か。


 夏の暑さにやられた人々の末路とは、恐ろしいもである。


 焚いたばかりの蚊取り線香を掻い潜り、手にカが入ってきた。

 そして迷うことなく、それを握り潰すのだった。





 …逃げられた。

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君といた夏 さっぷうけい @hatareiyu

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