第19話 ユニコーン

 ムネチカはひとり、キーモのフラットを訪れていた。

 ここは元マネキン工場らしく、一階の廊下には今でもプラスチック製のトルソーや、腕や、足が転がっていて、ムネチカは少し怖かった。

 住居としては幅広すぎる階段を上り、広々としたリビングへ通された。

 他のフラットメイトは出払っているらしい。

 L字に置かれたソファの正面には大きなテレビが置かれ、左右の棚にはおびただしい数のDVDが積まれていた。

 インド綿で包まれた照明はとてつもなく暗く、青く、まるで海の底から水面を仰いでいるようにみえた。 

「モイラとは仲直りしました?」手土産のビールを袋から出しながらムネチカが訊ねた。

「いや」キーモは、すらりとした長い腕でステラビールの缶を掴むと勢いよく開けた。

「ぼく、今度のことは、本当にショックだったんです」

「だろうな」

 あの夜、勇敢にもエイプリルを取り押さえたキーモは、スコットランドヤードから表彰状をもらうらしい。

「で、用はなんだ?」

「モイラが身体を売る理由を知ってますか?」

 キーモは一瞬、目を皿のようにしてムネチカを見た。

 そしてビールを一口飲むなり、

「ふつう、金だろ」

と、短く言った。

「お金に困ってるようには見えないけど」

「そうだな」

キーモはテレビをつけ、何を見るでもなくチャンネルを変えていく。

「おまえ、モイラが好きなのか」

 不意を突かれ、ムネチカはビールを吹き出しそうになった。

 なんて不躾な質問だろう。モイラを好きかだって?そんなこと決まっている。

 すぐに答えかけたが、ムネチカの中に、なぜか思い留まらせようとする自分がいた。

 ドラッグのヘビーユーザーで、男娼で、売人で、生物学的には男性、頭の中は性別不明。

 そんな存在を自分の中でどう捉えればいいのか。

 たしかに、二人でドラッグをやって、語り、踊り明かした日々は、例えようのない喜びではあった。

 しかし、それを恋愛感情と呼ぶべきかどうか。

 ムネチカが頭の中を整理するために黙り込んでいると、キーモが独り言のように語り始めた。

「俺が思うに……モイラは、金のために身体を売ってるわけじゃない。愛を、測ろうとしているんじゃないか、と思う」

「愛を測る?」ムネチカはうろんげに、キーモを見た。

「さしずめ、金はその物差しってところだろう」

「愛ってお金で測れるんですか」ムネチカは汚れたものでも見るような目をした。

 キーモは、共感を示すようにうなずいた。

「ふつうの人間はそう思うかもな。だがあいつにとっては、愛は存在するかどうかも怪しい、謎そのものなんだ。確かめたくもなるさ」

 ムネチカはウィルアックスの言葉を思い出した。

 

 あいつはな、ユニコーンなのさ。


 違う。

 この世にそんなものは存在しない。少なくとも、ムネチカには信じられない話だった。

「やっぱり、ぼくには理解できません」

 拳をぎゅっと握りしめて、キーモを見つめた。

「おまえ、女はもう経験したのか?男でもいいが」

 またもやデリカシーのない質問が飛んできて、ムネチカはいよいよ腹が立ってきた。

「なんの関係があるんですか」

「答えろよ。重要なことだ」

「まだですよ」

 そうか、といってキーモは背もたれから身を起こし、ムネチカを見た。

「では、あらためて訊くが、アセクシュアルであるモイラの気持ちがおまえにわかるのか」

 わかります、とは言えなかった。

 愛、とはなにか。

 生まれてから今日まで、愛していると、誰かに言われたことも、言ったこともない。

 ムネチカは自分の記憶を掘り起こしてみた。

 初恋は幼稚園の頃だった。

 相手はあーちゃん。背が高く、快活で、運動神経が良い女の子だった。

 あーちゃんが幼稚園を休んだ日は、気分が落ち込んだのを覚えている。折り紙をたくさん折って、プレゼントしたこともあった。

 あれは、愛、だっただろうか。

 たぶん違う。

 小学校の時も、中学校の時も、片思いの子はいた。

 あれらは、愛、というものだったのだろうか。

 見返りを求めず、自己を犠牲にしてでも守りたいと思うほどの感情があっただろうか。

 よくはわかりませんが、と前置きをして、ムネチカは口を開いた。

「少なくともぼくは、誰かを好きになります。自分のものにしたいと思うし、同じ時間を共有したい、という感情は持っています」

「答えになっていないな」といって、キーモは灰皿を引き寄せ、煙草を巻きはじめた。

「まあいいさ。じっさい、モイラの気持ちを理解できる人間は少ない」

 ムネチカは、口を閉ざした。

「マイノリティに、孤独はつきものだ」

 キーモは、巻き終えた煙草に火をつけた。

「あいつは何かにつけて、友達、友達というが、親もいない、愛情が理解できないとなれば、友達に依存するのは当然だ。だから、おれはあいつのそばにいる。あいつがドラッグをやる理由も同じだろう。俺たちには、愛という名のクソすげえドラッグがあるが、あいつにはそれがないんだからな」

 そんなの悲しすぎる。

 ムネチカは心の底からモイラのことを哀れに思った。

「なんだおまえ、泣いてるのか」

 ムネチカはこぼれ落ちる涙をぬぐった。

 キーモは吸っていた煙草をムネチカへ差し出しながら、

「まあそう大げさにとらえるなよ。結局は本人の選択次第ってやつだ。他人が口出しすることじゃねーよ」と、微笑んだ。

「本気でそう思うんですか?」ムネチカは、キーモの顔を睨むように見た。

 キーモの顔からすーっと笑みが消え、彫刻のように整った顔が、ムネチカをしっかりと見据えた。

「じゃあ、おまえはどうなんだ。他人の人生をどうこう言える立場なのか」

 ムネチカは言葉に詰まった。

 ここのところ学校を休みがちになっている。

 モイラの部屋に入り浸り、ケタミンを吸い、映画と音楽に時間を費やす日々を送っている。

 週末はスクアットパーティに繰り出し、月曜の朝までハイになっている。

 銀行預金はまだ残っているが、ゆとりがあるとは言えなかった。

 しかも、学生ビザでは週二十時間までしか労働が許されていないので、モイラと一緒にさばくドラッグが、生活費の一端を担っているのは確かだった。

 もはや語学留学生というより、アンダーグラウンドに迷い込んだ野良犬、といったあり様だ。

 ムネチカは返す刀を持たぬまま、勇気を振り絞って反撃に出た。

「あなたはどうなんですか」

 キーモは、何を今さら、といった顔で、

「俺か。俺の本業はバウンサーだよ。モイラのボディガードは、ボランティアだ。いつかバックパッカーとして世界を周る。そのために今は金を貯めてる。ちなみに、バズのやろうはDJで成り上がるつもりだ」

と、答えた。

 ムネチカは、景色が一斉に遠のいていくような気がした。

(みんな夢を持ってるんだ)

 ムネチカは、短く礼をいうと、逃げるようにしてキーモのフラットをあとにした。

 通りを早足で歩きながら、まるで世界に自分一人だけが取り残されたような気分だった。

 さっきまでの、モイラを哀れみ、涙していた自分が恥ずかしくてたまらなかった。

 

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