第20話 傷跡
あれからひと月が経った。
ムネチカは相変わらず、ずるずると怠惰な生活を送っていたが、以前と少し変わったところがあった。
モイラやバズと過ごす時間が減ったのだ。
ときどき一緒に映画も見るし、週末のパーティにも二回に一回は顔を出すが、そのたびに誰に対してかはわからない、後ろめたさを感じるようになった。
「おーい、あたしの部屋においでよ、今から映画みようよ」
今日もモイラが誘いに来たが、具合悪いから、といって追い払ってしまった。
ケタミンを吸って、映画のストーリーなんて追えるわけはない。それは繰り返される日々についても同じだった。トリップしている間は楽しくとも、その記憶は夢日記でもつけていない限り、淡雪のように解けてなくなる。思い出として蓄積されることはない。
「ぼくはここでなにをしてるんだろう」
そうムネチカが自問自答している矢先に、建つけの悪い扉がバンとあいて、モイラが部屋に入ってきた。
複雑なスパイスの香りが部屋中に広がった。モイラが一階のファストフード店でチキンウィングをダースで買ってきていた。もちろんビールも。
「具合悪いなら病院に行ってきな」モイラは仁王立ちで、こちらを見下ろしている。
「悩んでることがあるんなら、話してみなよ。あたしら友達でしょ」
あなたが悩みの原因です、とは言えない。悩みの種はモイラだけではないし。自分の堕落した生活はモイラのせいではない。
「ぼく、ドラッグやめようかな」
思いもよらぬセリフが口をつき、ムネチカは自分で驚いた。
「ふふ」モイラが微笑みながら、ベッドに腰を下ろした。
「なにがおかしいの」ムネチカはバカにされたような気分になり、ムッとした。
「そういう時期って、みんなあるんだよ」笑ったことを謝るように、眉じりをさげてモイラがいった。
さっそくチキンの入った箱を開けながら、
「酒や、煙草や、ギャンブルと同じ。やめたきゃやめればいいよ」
ムネチカは、スウェットの袖をまくり上げ、リストカットの痕が残る腕をさすった。
「ぼく、このフラットに来てから、リストカットしてないんだ」
「そうなの?すごいじゃん」モイラが目を輝かせた。
「でもそれって、ドラッグのせいなのかもしれない、って思う自分がいて」
ムネチカは間違えないように、なるべくゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「ドラッグをやめたら、またリストカットが始まるのかもって。もしかしたら、いまだにぼくの頭の中は日本にいるころと変わっていないのかもって」
「そもそも、なんで自分の腕なんて切るわけ?痛くないの?」
「痛いよ。痛いけど、切った瞬間だけ、スカッとするんだよね」
「えー、こわーい」チキンに手を伸ばしながらモイラが悲鳴のような声を上げた。
「こわいよね、ふつうは」情けなくムネチカが笑う。
「理由がどうであれ、リストカットをしなくなったんだったら、この国に来て正解だったね」そういってニッコリと笑った。
モイラの笑顔は本当に人を癒す力がある、と、ムネチカは思った。
「あたしは、ドラッグで心の病が治るならそれでいいと思う。だって、ムネチカにも、医者にも、この病は治せなかったんだから。でも、最近のムネチカ見てると、前みたいに、つるんでくれなくなったし、少し寂しい」
「うん」かみしめるようにムネチカがうなずいた。
モイラは片膝を抱えながら、
「でもね。せっかく海を渡ってまでこの国に来てさ、ひとりでドラッグやって部屋にひきこもってるくらいなら、日本に帰ったほうがいいのかもね」
と、何食わぬ顔で言った。
高い絶壁の上から、とん、と背中を押された気がした。
ああ、やっぱりぼくは駄目かもしれない、とムネチカは目の前が真っ暗になるような気持ちになった。
それを察したのか、モイラはとびきりの笑顔をつくってみせた。
「どっかいこっか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます