第18話 キーモの後悔
三月。
モイラが退院した。
さっそくスクアットパーティへ繰り出そうとするモイラを、バズとムネチカが慌ててひき止めた。
とりあえずこの週末は、バズの部屋でまったりと快気祝いをすることになった。
夕刻、キーモが珍しく手ぶらでやってきた。
バズはカムデンで親指ほどの小さなボンベに入った笑気ガスを二ダース購入してきた。
ムネチカは近所のマーケットで鯛らしき魚を買ってきて、鯛めしを振るまった。
あとは全員で金を出し、ピザと、山ほどの缶ビールを用意した。
一人部屋には不釣りあいなほど大きな液晶モニターには、バズの好きな日本のアニメが投影されている。BGMは、もちろんテクノ。
ひとしきり食事が終わると、バズが手のひらサイズの四角い大理石のタイルの上に、人数分のケタミンを引き始めた。
一人一人、順番にストローで吸っていく。
モイラは自分用に、誰も見たことのないような極太のラインを引き、右から左へ一気に吸いこんだ。
鼻の周りに吸いきれなかった粉が付着している。
「何週間ヤク抜きしてきたと思う?もうね、デトックスは完璧だから」
大いなる旅へ出発する準備はできているようだ。
楽しみで仕方ないといった表情でモイラはピースサインをして見せた。
いつのまにか、モイラは、キッチンスケールに白い粉を盛っていた。
いくら盛っても、盛っても、崩れることがない白い粉。
視界は、壊れた映写機のように同じ映像を繰り返す。
足元には裸の男女が瓦礫の山のように積み上がっている。
じんわりと感じる柔らかな感触。
生暖かい。
キッチンスケールの上に盛っていた白い粉は、やがて大きな洞穴のなかを滑り落ちていく。
気が付くと、モイラは湾曲したガラスの瓶に両手をあてていた。
それは巨大な砂時計だった。
砂時計はゆっくりと砕け散り、ガラスの破片が徐々に小さく、キラキラと瞬きながら消えてゆく。
身体は浮き上がり、ロンドンの市中を走る二階建てバスを見下ろしている。
バスはオイルを引いた床の上をすべるように、滑らかに前後する。
そのバス越しに、星空が見える。
目のまえを色とりどりの流星群が通過していく。
その速度が速まり、やがていくつもの斜線となっていく。
違う。
星だけではない。
モイラは落下していた。
大気圏に突入する。
流星群のただ中で、身体が青い炎をあげはじめる。
ガクガクと視界が揺れる。
崩壊しそうなほどに、大きく激しく揺れる。
流星たちは輝きを増していく。
やがてモイラは地上にゆっくりと着地した。
深い大きなため息と共に呼吸を取り戻す。
まぶたを開けると、かたわらには優しく手を握るムネチカがいた。
「おかえり」
久々のトリップは、満足のいくものだった。
バズは巻紙をぺろりと舐め、マリファナを巻き始めた。
煙草を混ぜないグリーン一色の代物だ。
「きついから少しずつ吸うんだぞ」
そういってムネチカに回すと、自分はDJブースに立ち、何百もあるレコード達の中から適当に数枚を選び抜き、繊細な手つきでゆっくりとプレイしはじめた。
マリファナを受け取ったムネチカはそうっと煙を吸い込み、息を止めた。
喉の奥が少しヒリつく。
そしてそのまま、モイラへ回し、ムネチカはバズの後姿を見つめていた。
このフラットにやってきた初日の情景を思い浮かべながら。
ムネチカの目つきが変わる。
サバンナで獲物を狙うチータのように、音を立てずに背後から近寄ると、バズのズボンに飛びかかり、一気に引きずり下ろした。
バズは今日もノーパンだった。
見ていたモイラが後ろにひっくり返って笑い転げた。
マリファナの効果で笑いが止まらなくなったモイラを、下半身をあらわにしたバズが「傷が開かないか」と、本気で心配をした。
それがまたツボにはまり、モイラはヒィヒィと涙を流して笑った。
オールドストリートにある小さなフラットの小さなパーティは、とても幸せなものだった。
危険なものはどこにもなかったし、何よりみんながいた。
音と戯れるようにひらひらとたゆたうモイラの腕を、キーモの大きな手がつかんだ。
「悪かった」
「なに?」何事かとモイラは周りを見わたした。
「俺のせいだ」
「なにがー?」
「今回のことは……」と言いかけたキーモに、
「ばかいってる」モイラの声のトーンが変わる。
「なぁ、聞いてくれ」キーモの顔はシラフだ。
「さっきからぜんぜん楽しそうじゃないじゃん。これってあたしの快気祝いなんでしょ?もっと明るくできないの?」
「おまえの方こそ。病み上がりのくせにやりすぎなんだよ。もう少し抑えたほうがいいんじゃないか」
「大人みたい」冷めた表情で、モイラが立ち上がった。
「そうだよ、俺は大人だ」
モイラはキーモのあごをクイとつかんで、
「あたしは違う!」
と吐き捨てると、よろめきながら自分の部屋へ帰っていってしまった。
モイラが消えたあと、キーモが申し訳なさそうに言った。
「予測できたんだ」
「なんのことですか?」ムネチカが、ギリギリまで短くなったマリファナをもみ消しながら訊いた。
「エイプリルのことだよ」
一瞬にして空気が凍りつき、明るいパーティの雰囲気が消し飛んだ。
バズがスピーカーのボリュームを絞って、どっかと床に腰を下ろした。
「予測できたってどういう意味だよ」
キーモの話によると、モイラとエイプリルが初めて出会ったのは今から数ヶ月前、ソーホーにあるブルーマジックというホテルだった。
モイラは特殊な男娼で、男女問わず相手をする。
最初、エイプリルはモイラを女だと勘違いしたらしい。
客の多くはモイラのそういうどっちつかずな容姿に惹かれるのだが、エイプリルもその中のひとりだったようだ。
モイラと身体を交わしたその日、エイプリルは「自分はレズビアンだ」と告白した。
そして「男とするのは初めてだった」と語った。
しかし、モイラにとって相手がストレートであろうが、ゲイやレズビアンであろうが、どうでもよいことだった。男娼と客という間柄に変わりはない。
エイプリルはすぐに常連になり、やがてモイラの遊び場であるスクアットパーティにも顔を出すようになった。
モイラが女装をして、二人でレズビアンバーに入ったこともある。
まるで沼に沈んでいくように自分に金を注ぎ込むエイプリルを、モイラはただの金づるとしてしか見ていなかった。
そんなある日、エイプリルが婚約指輪を持って現れた。
瞳を潤ませ、おぼつかない口調でプロポーズするエイプリルを、モイラは淡々と受け流した。
客だからとか、嫌いだから、といった理由ではない。
「モイラにはわからないんだ」キーモはいった。
本能的な愛が理解できない。
相手が異性であろうと同性であろうと、愛しみ、独占的に生涯を共にしたいという気持ちがわからない。
エイプリルは、モイラなしでは生きられないと嘆いたという。
そして、その望みが叶わないとなると、徐々にモイラへの憎悪を募らせるようになっていった。
キーモは、
「もっと早くに警告するべきだった」
と、悔やんだ。
そして、モイラは自分がアセクシュアル(無性愛者)であることによって、他人を傷つけることを知った。
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