或る日の明智小五郎

印度林檎之介

或る日の明智小五郎


中村警部がドアを開けて突入した時、

まさに明智小五郎に抱きかかえられた女は、力なく明智の手から冷たい床に滑り落ちるところであった。

さしもの明智小五郎も一瞬、呆然としていたようだが、中村警部の部下への指示、

「急げ、救急車だっ!」

の声に我にかえったようである。

「……そうだ、彼女を死なせてはならない」

そうつぶやくと、すばやく横たわった女に人工呼吸、そして心臓マッサージを始めた。

応急処置は明智にまかせ、中村警部は毒薬のビンを拾うと残った毒物の半分は鑑識に、半分は救急車で患者と共に病院に届けることにした。

即効性の毒のようだが、もし特定できれば対処法があるかもしれない。

ふりむくと、明智の必死の応急処置は続いていた。

あとは、時間との勝負だった。


一年後……

冬も近い或る日の朝、明智小五郎は御茶ノ水にある『明智小五郎探偵事務所』で、もの想いにふけっていた。

机の上には、その日の朝刊が置かれている。

そこには、近くある女性犯罪者の刑が執行される旨の記事が載っていた。


明智はここ一年、彼女とはついに会わなかった。

彼女の裁判は傍聴する気にはなれなかった。裁かれる彼女を見たくなかったのだ。

また、事件の証拠類はすべて警察に渡しており、明智は証人として発言する必要はなかった。明智の仕事はすでに終わっていた。

では、といって拘置所で面会しようにも彼女は自身の犯した犯罪のあまりの重大性故に一種の思想犯のような扱いを受けていて、まさに『隔離』されていた。高名な名探偵である明智であっても面会すること自体が難しかった。なかなか面会許可がおりないのである。

いや、実は一度、中村警部ら警察関係者の尽力で面会寸前まで行った事がある。

しかし、その時は彼女の方から面会を拒否したのである。


そこに、ドアが開いて助手の小林少年が顔を出した。

「先生、お客様です」

声と同時に息急き切って入ってきたのは明智の盟友、中村警部であった。


物憂げな明智とは対照的に、いつもは沈着冷静な中村警部が今日はひどくあわてている。

「中村さん、まだ朝八時ですよ。こんな早くにいったい、なんの御用でしょうか?」

明智は中村警部のただならぬ様子に、小林少年を下がらせた。

「明智さん、いますぐ、この地図に書いてある場所に行ってください! ……もう、時間がない」

明智が地図を開くと、一瞬、驚きの表情を見せた。

「中村さん、これは……?」

そこに電話が鳴った。

明智が出たが、すぐに受話器を警部に差し出した。

「警部にお電話です」

中村警部が電話に出る。

「何?、今からか? ……わかった、すぐ帰る」

中村警部は明智に向き直ると言った。

「すみません。私はいったん、署に戻らなければなりません。私も後からそこに参りますが……明智さんは先に行ってください。話は通っているはずです。急いでください!」

明智は中村警部に一礼すると、コートをつかんで部屋を飛び出した。


一人部屋に残された中村警部は、わずかの間、感慨にふけっていた。が、さて、署へ戻ろうとした時、明智事務所の電話が鳴った。

小林少年が応対したが、

「中村警部にお話があるそうです。電話を代わっていただけますか」

今から署に向かうところである。警察関係ではあるまい。

「えっ、私にかい? いったい誰だね?」

「文代夫人です」


中村警部は明智夫人からの電話に少なからず驚いたが、すぐ平静さをとりもどした。もちろん文代夫人は事務所にはいない。明智の自宅にいるのだが、なるほど、小林少年から自分が明智事務所に来たことはいち早く伝えられていたにちがいない。さすが有能な助手……あるいは秘書といってもいいかもしれないが……といったところだ。

「おはようございます。中村です」

「文代でございます。いつもお世話になっております。ところで、こんなに朝早くから何の御用でしょうか」

「ちょっと込み入った事件のご相談に……」

「わかりました。ところで今、明智はどこにいるのでしょうか?」

ズバリと核心に触れる質問を投げてきた。

単刀直入、である。

どう答えるべきか?

中村警部の頭にいろいろな想いが巡ったが、しかし相手はあの、稀代の殺人鬼『魔術師』の養女であった女性である。

この明智夫人こそ、『魔術師』からあらゆる犯罪技術を、明智からは探偵術をうけついでいる女性なのだ。

ごまかしなど、できようはずはない。

「私の依頼で、東京拘置所近くで調査を……」

「拘置所? ……そうですか」


短い沈黙があったが、中村警部にとっては非常に長い時間に思われた。

「あの人は……、明智は『犯罪』を憎みます。それは高い正義感と理性を持っているからです。明智は犯罪の『愛好家』『研究者』でもありますが、自身が犯罪者にならないのはその為です。でも、」

ここで、電話の向こうで文代夫人は小さなため息をついたようだった。

「でも、彼は『犯罪』は憎んでも『犯罪者』を許してしまうのです」

さらに、一瞬の沈黙。

「その方は……その方は幸せな人ね」

文代夫人からの電話は切れた。


タクシーを降りた明智は、目的地の前に立っていた。

中村警部の地図の場所は、東京拘置所の近くの邸宅だった。

『広い、こんなに大きな家がこんな場所にあったのか』

明智が案内を請うと、中から老人がひとり出てきた。

「中村警部からお話を伺っています。あの人には昔、ずいぶん世話になりましてな」

老人に礼を言って中に入ると、廊下の先に二階への階段が見えた。

「今日は人払いをしております。この家にいるのは私だけです」

老人に促されて、明智は二階に上がった。


二階からは邸宅の庭の向こう、さらに道をへだてて拘置所の塀が一望できた。

「これは、極秘とのことですが……今、拘置所の塀の修理が行われています。この時間だけあそこに隙間ができています」

確かに、老人の指差す方向の塀に隙間がある。

その先に拘置所内の渡り廊下が小さく見えた。

「もう、間もなくのはずです……そのままお待ちください。私は階下におりますので」

老人は頭を下げると、部屋を出て行った。


老人の言葉のまま、明智は拘置所の渡り廊下を眺めた。

しばしの時間の後、渡り廊下に人が現れた。

手錠に腰縄をつけられた女性、その後ろに二人の刑務官の三人だ。

女性は化粧っけのない長い髪を後ろに束ねただけの姿だったが、遠目に非常に美しいのがわかった。

三人は静かにゆっくりと渡り廊下を渡っていく。

その時、広い庭にある大きな池の鯉が勢いよくはねた。

その音を聞いた女は一瞬立ち止まり、音のした方を向いた。

そして、明智と視線が合ったのである。


中村警部は遅れてようやく、邸宅に到着した。

老人に様子を聞き、静かに二階に上ったときが正にその瞬間であった。

庭を見つめる明智の姿、その視線の先には非常に小さくだが、明智を見つめる美しい女性の姿が見えた。


それは、不思議な時間だった。

時間にすれば数秒にすぎなかっただろう。

しかし、中村警部は何か、言葉では説明できない尊いものを見ているような心持になった。そこは筆舌しがたい、清浄な空間のように感じた。


その時、明智の唇が何事か伝えるかのように動いた。

すると、女性は明智に向かって深々と頭を下げた。

そして刑務官に促され、また静かに歩き出し廊下の先に消えていった。


明智はそのまま長い時間、身じろぎもせずじっと立ち尽くしていた。

中村警部もまた、頭をたれたまま、いつまでもそこにたたずんでいた。




こうして稀代の女賊、『黒蜥蜴』は絞首台へと消えたのである。





(了)



参考文献 江戸川乱歩作 『黒蜥蜴』





画像1


あとがき(蛇足)


この話を書く為に黒蜥蜴をもう一度読み直した。


本文では語らなかったが、

何故、死刑になるとわかっている女を助けるのか?


警察の立場で言えば『法の裁きを受けさせる』為、という明確な理由があるはずだ。

しかし、明智の立場は違う。彼はそのまま彼女を死なせてやる、という選択肢も少なくとも頭の中にはあったはずなのだ。だが、明智は黒蜥蜴を助けた。何故なのか。


それは、明智が『黒蜥蜴の最後の告白』に答えていなかったからである。


明智の心に気づいていた中村警部は、明智にひと目、黒蜥蜴の姿を見せてやろうと尽力するが……というのがこの話である。


その他、蛇足

1)題名は芥川龍之介作『或日の大石内蔵助』から

2)死刑囚は刑務所に入らず拘置所に収監される。死刑囚は死刑そのものが刑罰であり、刑務に服さない為である

3)明智夫人の文代は『魔術師事件』の時、明智に協力した為その縁で事件後結婚しているが子供はいない

4)週刊文春が拘置所内の写真をスクープしたのも民家からの望遠撮影だった

5)読唇術(相手の唇の動きだけで言葉を読み取る技術)は明智の特技の一つである。好敵手である『黒蜥蜴』も当然、それくらいの事はやってのけるはずである

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