じおのお題小説2020
西島じお
「マイク」
彼が教育学部の実習生としてA高校に赴任して、実習生としての研鑽に励んだときに、問題点として挙がっていた事柄があった。
彼自身、気が小さくて実習初日から生徒に教えるその声が小さくなり、生徒から、
「声が小さくて聞こえないです」
と言いたくもないであろう文句を引き出すことだった。
将来教職員となることを目指す彼にとって、その声の小ささは決して見逃すことのできない問題点として、彼は彼の指導官であるA高校の2-Aのクラス担任に報告を行ない、指導官が持つチェックシートに記載されていた。
彼の実習生活は、彼の気が小さいことによる声の小ささを除いて、年齢が比較的近いことから生徒達の話の輪に入れてもらえたり、指導官を含む教職員達から、
「お前は素直に何でも言うことを聞くから教えがいがある」
と、可愛がられていた。
そんな愛され体質の彼は、悩みなど荒唐無稽のように感じられるが、やはり気の小ささが由来する声の大きさにコンプレックスに似た醜さのような周囲の人間に臆病になる部分をどうにかできないものか、と苦心していた。
彼はその臆病さから、他人に対して受動的で寛容な態度を取れていた。
だから、彼は生徒や教職員から好かれていたのだが、声が小さいから聞こえない等と言われてしまえば、一言一句に注意の網を張り、生徒から発せられるひとつひとつの質問に耳を傾けて行なう指導など決して叶わない。
どうしても、緊張すると小声でこもる癖を直す必要に晒された。
何か声を拡大する「マイク」の働きをするアイテムやその役割を担う何かがないものか、と考えふけりながらA高校の校舎を後にして、帰宅するべく駐車場にゆったりとした足取りで向かう。
マイク、マイク、マイク……。
脳内で同じ単語を幾つもまっさらな黒板にチョークで書き込んでは消して、あるいは書き込んでは、これが大切なんだと意識に刷り込ませながら車の運転席側の扉前に立ち、鍵を解除した。
実習の帰りの運転中で、意識に刷り込ませた言葉をぶつぶつと呟くも、だんだんと運転技術が荒々しくなり、同時にその言葉がいくつもの実習中での記憶と結びつき、反芻(はんすう)しながら、その文字のフォントが拡大を続けた。
頭の中いっぱいに「マイク」の三文字が表示されると、ハッと目を覚ました。
彼はどうやらその日の実習の疲れで、軽く居眠りをしていたらしい。
彼が気づいて、意識がさっきまで運転していたことに向けられると、背中からおぞましいほどのおびただしい汗が吹き出るのを感じた。
フーッ、幸い事故を起こしてはいないな。
安堵した矢先のことだった。
彼の運転する車の走行ラインが大きく右に逸れて対向車と正面激突した。
彼の体はシートベルトで固定されていたが、その衝撃から慣性の法則に従い前にあるエアバックに思い切り顔が叩きつけられて、鼻頭が赤みを帯びていた。
痺れるような鈍い痛みが生じた体をえいっと動かして、車外に出る。
両者の車のフロント部分が大きくへしゃげて事故の凄惨な爪痕を残していた。
ぎょっと目を見張って、相手の無事を祈りながら、相手方の車内に顔を覗かせ、ゆっくりと確認する。
相手のフロントガラスに大きなヒビが入り、相手の体が前方に投げ出されていた。
顔や首はあらぬ方を向き、絶命していたことは誰の目にも明らかだと判断するに容易であった。
やっちゃった……。
俺、死亡事故を引き起こしちゃったよ……どうしたら良いんだ。
絶望的観測が彼の判断の大半を支配して、片っ端からスマホに内蔵された電話帳の連絡先に電話をかけ始めた。
一件目でない。
二件目でない。
三件目ダメだ……。
焦りが彼の判断を鈍らせ、絶望が広がりを見せたとき。
折り返し電話の着信がかかった。
やった。やったぞ! ようやく繋がった。
彼は少し安堵して電話の呼び出しに応じると、「や、やっちゃった……助けてください」
彼の一番伝えたい用件が電話の相手に伝えられた。
しかし、彼の声が緊張からうわずり、要領を得ない言葉で用件が伝えられたため、決して通じることはなかった。
電話口の相手によれば、彼はなにやらひどく興奮して言葉にならない金切り声を出していたため、異常な事態が彼に直面しているのだと勘ぐることができた。
彼が電話した相手──彼の指導担当のA高校2-Aの担任だった。
「どうした? はっきり話さないか? 伝わらないぞ」
「あの、その……とにかく! やってしまいました……」
「何をだ?」
「交通事故です」
彼が小さくくぐもった声でひとしきり会話をすると、担任の指示の下、警察に通報を行い、事情聴取が行われることになった。
***
パトカーに乗せられ、A警察署に向かう最中に自分が教育実習生であり、実習の帰りに要らぬ考え事をして、気づけば居眠りをあろうことかしてしまい、一時は安堵したは良いものの、事故を招いてしまった、と吐露した。
それは完全なる自己責任であり、防げた事故であった、とも両手を顔の前で握りしめて口をキュッと結んで、後悔と亡くなった方への追悼の意で眼に涙を浮かべた。
彼はその背中に十字架を背負うことになり、事情聴取のあと、そのまま拘置場に衣服のみ身につけた状態で放り込まれた。
一時間、二時間、と経過する時間が半日にも一日にも一週間にも感じられ、もう叶うことのない教員生活に想いを馳せて、彼しかいない拘置場の殺風景な壁に向かって、授業を始めた。
「それでは、これから現代文の授業を始める。教科書55ページを開いて──」
夢のような教員として見る光景が拘置場の壁の前に広がっていた。
彼は嬉しさをふふん、と鼻にかけるように朗らかで大きな声で、これが俺の望んだ世界なんだ、と涙混じりの笑い声を拘置場一杯に響かせた。
彼の罪が裁判所で争われるとき、彼は淡々と裁判で読み上げられる事故当時の状況と事故原因、そして、その罪を償う意思の有無を確認されて、自ら説明し時に頷き、時に違うと首を振った。
その説明をしたときには、拘置場内で大きな声で笑ったように、大きな声で説明することができた。
彼の中で自らの夢を絶つはめになった自身の不甲斐なさとバカらしさ、またどうしようもない現実への諦めから、その狭小な心から落胆の言葉があふれ、声が大きくなった。
その事故と裁判以来、彼の心は操り手を失った傀儡(くぐつ)のように、彼の気が大きくなり、どうにでもなれという精神が彼を蝕んだ。
もう彼には、声の小ささを気にする必要はなくなった。
声が大きくなった。
選択を誤って、道をはずした。
もう彼には「マイク」を必要としなくなった。
夢を絶たれたけども、拘置場内や刑務所内で誰もいない壁に向かって幻想の中にいる生徒たちに教えることができたのだから。
じおのお題小説2020 西島じお @jio0906
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