第3話


 俺の実家と妻の実家は日本地図上、見事に反対方向で、大きな休みでも両方に顔を出すのは困難で、以前は夏季休暇や正月休みの度に俺の実家、妻の実家、俺の実家と順番に顔を出していたのだが、いつしか旅費もかかるし何となく面倒になり、お互い帰りたい時に自分の実家に帰るだけで、相手の実家にはほとんど顔も出さなくなった。夏季休暇に入り、妻は言っていた通り一人で実家に帰った。俺も一応夏季休暇に入ったのだが、自分の実家に帰る気にもなれず一人で家にいた。また愚痴っぽい言い方になるが、営業にはまともな夏季休暇も無い。いや、まぁ、労働基準法とか会社のルールもあるのでもちろん名目上の夏季休暇はあるのだが、得意先によってはお盆期間中もカレンダー通り出社している会社もあり、そんな真面目な得意先から毎日メールが来たり電話が来たりするので、実質テレワークというか、夏季在宅ワークとなっていた。気が休まらない。しかし一人の暮らしは楽で、これはこれで良かった。別に普段から妻に対して何か気を遣っているつもりはなかったのだが、自分でも気付かないところでやはり最低限の気遣いはあったのだなぁ、と、こうなると思う。パンイチでウロウロして、ムラっとしたら大音量でAVを観てる。言ってみたらそんな生活。夏季休暇。三日目、俺は朝から市民プールに行った。毎年夏場には頻繁に市民プールへ通うのだが、今年は例のウイルスのこともあって今日が初めてになる。思っていた以上に人が少なかった。いつもなら夏休みの子供で賑わっている時期なのだが、やはりウイルスの影響だろうか。まぁ、でも空いているに越したことはないと、俺は屋内の25メートルプールを潜水気味で何往復か泳ぐ。去年よりも明らかに体力が落ちていた。腕が重い、足が重い、息が切れる。それで、休憩。プールサイドにばらばらと置いてあるプラスチック製の白い椅子に腰掛けて窓の外に広がる屋外プールを眺めると、キラキラと光る水面に何人かの大学生だろうか、若い男女がビーチボールできゃっきゃっと笑い声をあげて遊んでいて、その光景は非常に夏らしくて、良くて、写真にでも撮って収めてやろうか、と思うもカメラなど持っていなかった。せっかく来たのだからと半ばヤケになって2キロも泳ぐ。これは明らかなキャパオーバーで、へなへなになって売店でコーラを買って飲んだ。久しぶりだった。喉が焼ける。腹が減ってカレーも食べる。売店らしい、甘口のカレーだった。外に出ると蝉の鳴き声がうるさい。空は抜けるような青空で、高くて、吸い込まれてしまいそうだった。駅前通りまで自転車で戻り、喫煙所で煙草を吸う。俺以外にカップルが一組いた。何やらモメていた。「だから、結局はあんたが借りたお金なんでしょう」と女はハンドバッグを腕に掛けたまま立って、煙草を吸いながら男を責める。ケバケバした派手な化粧の女だった。「いや、そう言われるともちろんそうなんだけど、でもお前だって分かるだろ? あの時は仕方なかったんだよ」何が仕方ないのか分からないが、男は憔悴しきっているようで、ベンチに腰掛けて項垂れていた。よれよれの作業着を着て、失礼ながら有能そうな男には見えなかった。「それはそうなのかもしれないけど、そんなこと今言ったってどうにもならないじゃない。借用書にはしっかりとあんたの名前が書いてあるんだから」「まぁ、それは。でもよ、事情が事情だから話したらちょっとは温情かけてくれないかなぁ」「そんなのあるわけないでしょ。お金の話よ? それも決して安い額じゃないんだから」「じゃ、どうするんだよ?」「あのね、なんでそうやっていつも私に答えを求めてくるのよ。あんたの借金でしょう。自分でどうにかしなさいよ」女はそう言って身を乗り出して、俺は隣にいたので少し後ろに引いた、苛立ったように煙草を灰皿に押し付けた。「おい、そりゃないぜ」と男は焦ったように言ったが、女はそれを無視するようにプイと喫煙所を出て行った。慌てて男が後を追う。と、別に聞くつもりなどなかったのだが何だかんだ一連の流れを聞いてしまった。あの頼りにならなさそうな男がどこかあまり良くないところから借金をこさえてきてしまったようだったけど、まぁ、女の言う通り基本的に銭金の話には温情などという生温いものは介在しにくく、俺も多少は経験がある、いたってシビアかつドライなものである。あの男には申し訳ないが同情の余地はない。その根本は結局、お金はやはり人間誰しもが必要としているという事実。「お金をあげるよ」と言われて断るやつは、よほど胡散臭いとか遠慮とかそういうのは置いておいて、おそらくいないだろう。何故。それはお金が無いとこの世界を生きていけないから。あ、つまりは命か。命の持続、またそういう話か。だから人はお金に対しては冗談が通じない。酒屋に寄ってトマトジュースとレモンチューハイを買った。この組み合わせがここ半年の俺のフェイバリットで、美味い。さらにスーパーに寄ってブルーチーズとウインナーを買う。あと、カップ麺。完璧。これで夕飯のメニューは布陣できた。さぁ、帰ろうかぁ、と思った頃、一日の中で一番日が高い時間帯になっていた。嫌になるくらいに暑い。本屋にでも寄って時間を潰そうかとも思ったが、食料品を買ってしまっていたので腐らせるわけにはいかねぇ、と早々に帰らなければならず、仕方なく自転車で家路を辿る。駅からの道はやや坂道で、行きは下りでヨイヨイだが、帰りは登りで辛い。2キロを泳いだ身体は半分もいかないうちに限界を迎え、あっさりと自転車を漕ぐのを諦めた。トボトボと自転車を押して歩いている俺をバスが風を切って追い越していく。そうだ、自転車を駅前に置いてバスに乗って帰れば良かった、と思ったがもう時既に遅し。まぁ、置いて帰ってもいつかは取りにいかないといけないしな、そんなのはただの問題の先送りだしなと、自分に言い聞かせて歩く。家に着いた頃には汗が滝のようで、すぐにシャワーを浴びた。バスタオルで頭を拭きながら戻るリビングは静かで、俺一人しかいないのでそれは当たり前なのだが、それは分かっているのだが、妻がいるといつも当たり前のようについているテレビが今はついていないことにすごく違和感を感じた。欠伸をして缶ビールを空ける。別に、特別ビールが飲みたかったというわけでもないのだが、そんなことばかりを言っているような気がするが、それ以外にやることがなかったのだ。暇だった。今日はもう何一つやることがない。まぁ、そういうのもいいなぁ、と思っていたら仕事関係の電話がかかってきて対応する。気持ちを台無しにする。ついでにメールを確認するとこちらも何通か来ていて返信をする。よく他部署の人に「休みの日までメール返さなくてもいいのに」と言われるのだが、俺だって別に好き好んで休みの日にメール返信、というかまぁ仕事をしているわけではない。メールなんて返せる時に返しておかないとすぐに溜まってしまうのが目に見えているのだ。それで手配漏れなんて起こしてみろ、その責任は全部営業担当に返ってくるのだから。テレビをつける。夕方の時間帯っぽい、ゴールデンタイムまでの時間稼ぎとしか思えない薄口のバラエティ番組がやっていて、くだらなさそうだなぁ、と思って他のチャンネルに変えてみるも、他はもっと酷くて、結局最初のバラエティ番組にチャンネルを戻した。缶ビールはすぐに空になって、買ってきたトマトジュースをレモンチューハイで割った。チューハイのアルコール度数は9%で、意外と酔える。だんだんと気持ちが良くなってきて、CMでかかる知らない音楽でちょっと踊ってみる。よく分かんねぇけどグルーヴィー。そうなるとくだらないバラエティ番組もだんだんと面白くなってきて、何でもないポイントでゲラゲラ笑ったりなんかする。アテのブルーチーズもウインナーも完食して、ルンルンでカップ麺も食べた直後、どかっとソファーに横になって牛になる。するとプールの疲れもあってか少し眠くなってきて、CMの間だけ一瞬寝るかぁ、と目を瞑ったのだが、次に目を開けるとテレビではまったく覚えのない洋画がやっていて、時計を見るともう深夜一時半だった。驚いた。いくら疲れていたとはいえ、うたた寝で六時間も眠ってしまうとは。机の上には汚らしく汁だけ残ったカップ麺の容器が置きっぱなしで、口の中、歯磨きをしないで眠ってしまった後特有の何とも言えない気持ち悪さが残っており、台所で冷水を飲んでリセットを試みる。すると今度は何故か無性にバニラのアイスクリームが食べたくなって、あったかなぁと、冷凍庫をあさってみるも無い。まぁ、無いものは仕方ないよなぁ、とベランダで煙草を吸ってみたのだが、こんな時間にもかかわらずアイスクリーム熱が消えなくて、意外と、ずっと欲しかったものに対してよりも瞬間的に今欲しいものに対しての方が欲望のエネルギーが強いという方程式か、仕方なくサンダルを突っかけてコンビニまで歩く。深夜のコンビニは無人で、店員すらもいない。いや、それはおかしい。そんなはずはない。少なくとも店員はいるはずだ。おそらく客が一人もいないからバックヤードで休みながら監視カメラで店内の様子を見ていて、俺がレジに向かう素振りを見せたら出てくるのだろうなと思っていたら果たしてその通りで、俺がアイス売り場からカップのバニラアイスを手に取ってレジの方へ振り返った瞬間、謀ったかのように大学生と思われる、もはやアフロに近いパーマの、店員がバックヤードからすっと現れた。ちょっとムカついた。アイスクリームだけを買ってコンビニを後にする。ブンブンうるさいバイクの音が背後、遠くの方から聞こえてきて、来るな来るなと思っていたのだが轟音はどんどんこちらに近づいてきて俺の横を風のように駆け抜けて行った。速すぎてどんな奴だったのかも分からなかったが、嫌な気持ちだけは身体に残った。満月、狼男になってワォォンと吠えられたらいくらか胸の内がスッとするだろうか、なんて思いながらマンションの階段を登り、解錠、部屋のドアを開けると誰もいない部屋の中は真っ暗。何も無い。俺には何も、何一つ無い。何故だか急にそう思った。我ながらこんな生活を必死になって守る意味が分からなかった。ベランダで外を眺めながらアイスクリームを食べた。俺はけっこう、このベランダから見える景色が好きなのだということに最近気付いた。深夜二時を回った街は静かで、誰一人として歩いていない。もちろんバスもとっくに終わっていた。そんな時、ふと視界の端、何かが動く気配を感じた。目を凝らして見てみる。猫だ。それはいつか見た黒猫、多分、で、植え込みの影になっている部分をひっそりと歩いていた。俺は夢中になって「おいっ」と叫ぶ。唐突に声を掛けられた黒猫はビクッと身を固めてこちらを見た。それでさすがにこれはちょっと乱暴だったと後悔し、慌てて部屋を飛び出して下まで降りた。黒猫は、いた。ベランダから見たのと同じ辺りに座って、息を切らす俺をじっと見る。「おい。お前。何か、平気そうな顔してるけど、地震が来たらお前だって死んじまうんだぜ」俺は言った。何故こんなことを行きずりの黒猫相手に話しているのか自分でもよく分からなかった。「なぁ、お前さ、俺と一緒にどこか地震の無い国に行かないか? やり直さないか?」黒猫はしばらく俺の顔を見ていた、それは何かを考えているようにも見えた、が、やがて、そっぽを向いたかと思うとあっという間に身を翻し、戸建て住宅の隙間に消えていった。要は振られたのである。まぁ、いきなり知らない人間にそんなことを言われても引くわな、と我ながら思った。つか、そもそも俺は何故あんなことを猫になど言ったのだ。猫が去ってしまうと急に虫の鳴き声が耳についた。夏の虫。バス道、遠くの方から誘蛾灯の明かりだけがぽつぽつと、それぞれ自分の範囲だけを照らして続いていた。部屋に戻るとすぐに布団に入った。こうして俺も、世界も、また今日を一日終えたのだった。



 男A、若いのだが何だか周りの人間を見下しているよな目をした男だった、が司会の男、こちらは良くも悪くも何の印象も浮かんでこない無害な男、に話を振られて語りだす。「人間が本当に、心の底から満たされることなど無いのではないかと僕は思います。いや、もちろん瞬間的には、ある。しかしそれはあくまで瞬間的な話で、そんなものは長くは続かない。すぐにまた何かを欲しがり、求めてしまう。求める、ということは満たされていないということ。まぁ、欲望。欲望ですね。そして、それが原動力になって何かが生まれ、人間はその何かを生むために生きている、ということです。例えるならそれは、走ればガソリンは減る、すると走るためにまたガソリンを入れる、ガソリンを入れるから走る、つまりはそんな繰り返しです」と、若いながらもいろいろな功績を挙げた人なのか、初めて見る人なのだが、Aは自信に満ちた表情だった。「欲望を叶えるために人間は生きていると?」司会の男が少し眉を潜めて聞く。いかに無害な男とはいえ、自分よりも明らかに年下の人間に偉そうにされたらいい気はしないのだろう。「そうなりますね。欲望、それの行き着く目標、それなしに生きていくことなんてできますか?」「じゃあ、行き着く目標が分からず迷っている人はどうなるんですか?」と女A、歳は五十手前くらいだろうか、何をしている人なのかはよく知らないがたまにテレビで顔を見る、が聞く。「そういう人でも必ず明確な小さな目標があるんですよ。大きな目標に対しては迷っていても、目の前にある小さな目標に向かって生きているんです。だってあなた、何も考えずに今ここにいるなんてことは有り得ないんですよ? 皆、何かしら大小の欲望を叶えてきた結果ここにいるんです」「欲望を叶えるために生きている、というのは私はどうも賛同しかねますね。生きているからこそ、欲望が生まれてくるのではないですか?」と女Aは言った。「つまりあなたは欲望は生きるためのスパイスだと仰るのですか? では聞きますが、それならばあなたはいったい何のために生きているのですか? 何故仕事をして、何故毎日ご飯を食べて眠るのですか?」「家族とか、自分の守るべき誰かのために、というのはありますが、根本は生きたいから生きているのですよ。別に映画を観たいから生きているわけでも、フランス料理を食べたいから生きているわけでもありません。生きているからその間に映画を観たくなったり、フランス料理を食べたくなったりするんです。生きている理由なんていわば素数です。これ以上どんなものでも割れません」「この世に説明できないことなんてありませんよ。ただあなたが深掘りすることを諦めただけだ」と男Aは譲らなかった。すると今まで黙っていた男B、こちらは老人で、俺がまだ小さな頃からテレビに出ているコメンテーターだった、が話を挟む。「まぁ、何だか卵が先か鶏が先かという話になっている気もしますが、じゃあ、自殺する人の心理とは、いったい何だとお考えですか?」と、柔らかな口調で男Aに聞いた。自分の孫ほどの年齢の、しかも小生意気な、男Aに対しても丁寧に話す男Bに俺は少し好印象を抱いた。昔から名前顔は知っていたが、こんなに腰の低い人だとは知らなかった。「自殺する人は、つまりは欲望が無くなった人です」「まぁ、やはりと言っては悪いのだけど、先程の君の理論から言うとそうなるね」男Bはそう言って苦笑いを浮かべた。これに女Aはやはり反論した。「ちょっと待ってください。欲望が無くなったら人間は死ぬって? そんなわけないじゃない。そんなものがなくたって生きている人はたくさんいるわ。あなたは生活の中の必要最低限の部分までも欲望と定義付けているのではないかしら? 私はそれは欲望とはまた違うものだと思ってる。欲望とは生きることに加えてのプラスアルファな存在よ」それは確かにそうだと俺も思った。男Aも内心ではそう思ったような、しまった、という顔を一瞬したのだが、すぐにそれを隠して「じゃあ、あなたの思う自殺する人の心理って何なんですか?」と女Aに挑むような言い方をした。こういう態度は何か良くないなぁ、と思っていたのだが、女Aは怯むでもなく「自殺をする人は、つまりは諦めた人だと私は思います」「それは生きることを、という意味ですか?」と男B。「いえ、それはちょっと違って、これを説明しようと思うとまずは人生の話からになります。人は、どんな時でもいつも、何かしらの選択の岐路に立たされています。人生とはつまりはその選択肢の連続で、そしてこの選択肢は、おそらく何を選んだとしても、例えそれが正解の選択をしていたとしても、後々になって必ず後悔したり振り返ってしまったりしてしまうものです。よくある『やっぱりああしておけば良かった』とか『こうしておけば良かった』ということです。他の選ばなかった選択肢はやたらと魅力的に見える。『隣の芝は青く見える』とはよく言ったものです。でもね、そんなくらいじゃ人は折れない。多少後悔しても選んだ道を歩く強さ、もしくは現状を捨ててきっぱりと違う道を選び直す強さを人は持っている。そうやってまた選択肢を繋いで生きていくのです。しかし自殺する人というのは、もうその全ての選択を諦めてしまっているのです。良くなるかもしれない、悪くなるかもしれない、とかそういう次元ではなく選択をしないのです。もちろんそこまで追い込まれるのには相当な理由があるはずです。だからそれを悪いことだとは私は一概に言えません。ただ、まぁ、特に若い方なんかが自殺された時には、もう少し選択して、生きてみてからでも遅くはなかったのではないかとも思いますけど。これはあくまでそこまで追い込まれていない人間の意見ですが」「死ぬ、というのも一つの選択肢ではないですか?」男Bが言った。「まぁ、そうですね。最後の最後の選択肢です。その次の選択はもうありませんから」女Aの言葉に男Bは腕を組んでうなった。「その人生の選択肢、選択する動機というのはやはり根本は欲望から来ているのではないですか?」男Aは女Aの意見を聞き、今度は少し落ち着いた様子で話していたが、やはり自分の意見を推したい感じがあった。それこそが欲望じゃないかと思った。「もちろんその動機には欲望もあります。もしかするとそれがほとんどなのかもしれません。でもそれだけではないと思うのですけどね。欲望という言葉だけで片付けてしまうのはあまりにも生々しくて虚しい」「今の選択肢と後悔の話は、冒頭に出た『人間は心から満たされることなどない』という話に似ていますね。永遠に選択肢が続くのであれば満たされることなどおそらく無い」男Bがそう言うと、男Aも女Aも頷いた。「我々は何のために生きているのか。生きるために生きているのか、それとも何かをするために生きているのか」司会の男が言った。「それは人それぞれではないでしょうか」と男B。俺は、そんなことは言ってほしくなかった。「いずれにせよ死んだら終わりだ」男Aが溜息混じりに言う。「それだけはおそらく、間違いない」男Aの言葉に他の二人も頷いた。話はその後、昨今の芸能人の自殺問題に移り、薬物とか政治とか違う方向に流れていった。月明かりの部屋。テレビを消して外に出た。



 再会した時と同じように長尾を待つ。店も前と同じイタリアンで、俺は前と同じカットレモンが沈んだ水を飲んでいた。頭上、シーリングファンもあの日と同じ軌道で回っている。盆は明けたが、それにしても今日も暑かった。そういえば今日、例の中華料理店に行った帰り、この前一緒に初老の男性を介抱した若い男と偶然会った。お互い何となく顔を覚えていて、無視をするのもどうかと思ったので頭を下げると、「この前のお爺ちゃんはしばらく休んだら良くなりましたよ」と教えてくれた。「あぁ、良かったです」「元気に歩いて帰りました」彼は爽やかな笑顔で笑った。心の底から良かったと思った。約束の時間から十五分はど遅れて長尾が現れた。少し、いやかなり髪が明るくなっていた。ほとんど金に近い茶髪だった。「髪、染めたんだね」「だって向こうはこんな髪色の人ばっかでしょ。同じような色にしてった方が受け入れられそうじゃない。私だって友達くらいほしいし」とあっけらかんと言う。相変わらずだった。確かに向こうはこんな髪色の人ばかりなのかもしれないが、髪を明るくしても長尾の顔はどう見ても東洋人で、どうしても無理している感が否めなかった。言わなかったが。「最近はどうしてたの?」「別に、お盆期間中も水泳教室は普通にやってたから働いてたよ。あとは英会話の夏季講習に通ってた」「英会話」「そう。まぁ、少しくらいは言葉を勉強しておかないと困るでしょ」「そうね」思っていた通りだが、長尾の気持ちはまったくブレていなかった。「で、先生の心は決まった?」長尾は早速ストレートに聞いてくる。「まぁ、とりあえず何か飲もうよ」俺はそう言って飲み物と、適当なつまみを注文した。バケット。よく焼けたパンで、美味くて、油断して食べていたらこれだけでお腹がいっぱいになってしまいそうだった。アヒージョに浸して食べる。これもまた美味かった。ワインを飲んで、ポツポツと関係のない話をした。ウイルスの感染対策の話だとか、最近読んだ本の話だとか。長尾はうんうんと相槌を打って俺の話を聞いていたが、正直、どうでもよさそうだった。もう心は遥か遠く海の向こう、ドイツとかフランスとか、その辺りの国まで行ってしまっているのかもしれない。良く言えば本当に真っ直ぐな奴なのだけど。三杯目のシャンディーガフに長尾が口をつけた時、「思ったんだけど、地震保険に入ればいいんじゃないかな?」と言ってみた。なるべく自然に。長尾はすぐに怪訝な顔をして、「地震保険っていうのは命にまで保険が下りるの? 死んでも保険に入っていたら生き返れるの? 私、よく知らないんだけど」と言い返してきた。「いや、それはまぁ、無理だけどさ」「じゃ、そんなん入っても意味ないじゃない」「まぁ、そうかなぁ」「あのさ、先生、もう逃げるしかないのよ。ここにいたら危ないんだから」「うん。長尾の言うことも分かる」長尾はピザにタバスコをかけながら頷いた。かけすぎだろと思うくらいにかけていた。「でもごめん。俺はやっぱり行けない」「は? 何で?」長尾は口に運びかけていたピザを持つ手を止めて言った。「何でって言うか」「先生、もう一回言うけど、ここにこのままいたら死ぬかもしれないのよ? 80%よ」「地震だろ。分かってるよ」「分かってるなら何で行けないのよ」「うん。そうだよな。死にたくはないもんな。でも、何でだろう」正直言って自分でも何故行かないと決断したのかよく分からなかった。家庭も会社もまったく上手くいっていないのに。しかしどうしても行く気にはなれなかったのだ。「何で? 全然理解できないんだけど」「ごめん」長尾は目に見えて不機嫌になっていった。だから謝った。長尾は溜息をついて頭をかく。「結局は今の生活を捨てる勇気がなかったんでしょ?」「そうなのかな」そんなに責められても本当に自分でも分からなかったのだ。「ねぇ、先生。先生が守ってる生活なんて地震の前では本当に無力よ。どんなに頑張って守ってても、壊れるのは一瞬なんだから。しかも別に上手くいってなかったんでしょ? 何でそんなものに固執する必要があるのよ?」「分からない」俺はテーブルの上、空になったアヒージョの皿に視線を落として言った。長尾はゴールを外したサッカー選手が天を仰ぐような素振りをして、残りのシャンディーガフを一気に飲み干した。その後も少し話した。でも長尾が不機嫌なのも分かっていたし、重苦しい時間だった。やがて長尾は「帰るわ」と言って席を立った。「駅まで送って行こうか?」「いや、大丈夫」「そっか。あの、気をつけて」「うん」帰り道を気をつけて、と言ったのではなく、これから始まる海外での生活に対して気をつけて、と言ったつもりだったのだが、ちゃんと伝わったのだろうか。長尾はもう、誰が何と言おうと地震の無い国へ行くだろう。「またね、先生」と手を振り長尾は店を出て行った。最後は笑顔ではあったが、振り返ることはしなかった。おそらくもう二度と会うことはないだろう。もう一杯ワインを飲んで外に出ると、俺は言いようのない孤独に襲われた。長尾と別れて、もちろん交際をしていたわけではないのだが、本当に一人になってしまった気がした。考えようによっては、長尾は今のこのどうしようもない生活から俺を救ってくれる唯一の救世主だったのかもしれない。でもそれを断ったのは俺自身だ。寂しい、というより無性に怖くて、とにかく誰かと繋がりたかった。それで、かなり久しぶりだったのだが性風俗店に入った。目についた適当な、初めての店だった。性風俗店はこんな御時世だからか空いていて、待合室には俺一人しかいなかった。数分待つと店員さんが来て「どうぞ」とカーテンの奥へ促すのだが、こういう店では普通パネル、かなり怪しいものではあるが、を見て女の子を指名するものではないかと思いその旨を伝えると、「指名は千円の追加料金がかかりますよ」と言う。俺はせっかく来たのだから追加料金になろうと指名くらいしたくて、「それでもいいです」と言ったのだが、店員さんは「いや、もう女の子用意しちゃってるんで」とやや凄んでくる。彼は強面で、レスリングでもやっていたのだろうか、格闘に優れていそうな体格だったので俺は怯み、それ以上は何も言わず素直に中に入った。ルームナンバーは6。出てきた女の子は東南アジア系の小柄な女の子で、美人だとも不細工だとも言えず、ただその髪色、かなり明るくて、それは先程まで一緒にいた長尾とダブった。ぽつぽつとボタンを外しシャツを脱いでいたら、「今日は出張か何かですか?」とやや片言の言葉で聞かれて初めて自分が無口になっていたことに気付く。まったく、女の子を前にすると自分自身への自信の無さが際立つ。いつもそうだが、これから行為を行うことが決まった行きずりの女の子と、いったい何を話せばいいというのだ。「いや、出張とかじゃなくて、ちょっと飲んでた帰りなんです」と自分よりもかなり若い女の子に対して敬語になっている。服を脱いで滞りなくシャワーを浴び、個室の、タオルの敷かれた簡易ベッドに横になって天井を見上げると、店内には知らない外国人の歌うサイケな曲が流れており、薄暗、やがて裸になった女の子がにっこりと笑って俺の上に覆い被さる。緊張した。思えば長尾に再会してからは出会い系アプリで他の女の子に会ったりしていなかったので、こういうのは本当に久しぶりだった。人肌は暖かかった。懐かしくもあるピンク色の感触。でも何も満たされず、長尾と別れた時に感じた孤独感、恐怖はそのままで、今は性欲がそれをちょっとは紛らわせてくれてはいるものの、その実は一つも消えていない。失敗したかも、と思ったが果たしてその通りで、終わって外に出ると入る前よりもさらに最悪な気持ちになっていた。女の子には悪いが、一万ちょっと払って最悪な気持ちを買ったような気分だった。煙草を吸ってみるもまったく美味くない。続けて二、三本吸ってみるもやはり美味くない。海。今度は、いつか長尾と見た海を見たいと思った。ただ、漠然と見たいと思った。深く考えるよりも先に身体が動いていて、地下鉄。乗り継いであの日、あの時の海へ。三十分ほどかけて最寄りの駅まで辿り着く。駅員いわく、俺が今乗ってきた電車が最終だったらしく、戻りはもう無いが大丈夫か? と聞いてくる。別に大丈夫ではないが、そうは言っても助けてくれるわけでもないだろうし、何かもう全てどうでもいい気持ちにもなっていたので「大丈夫だ」と答えて海へ急ぐ。海。水族館もとっくに閉館していて人気はない。船が数隻停泊していたが、こちらも明かりが消えていて同様に人気なし。見渡す限り、ここには俺と海しかなかった。海は、日付が変わるか変わらないかのこんな時間なので当たり前なのだが真っ暗で、それはいつか動画で見た黒い波とも似ていなくはないのだが、悪意のようなものは感じられず、ただ単なる純粋な夜だった。ざざんざざんと波の音だけが聞こえる。ベンチに腰を下ろし、だんだんと暗闇に目が慣れてくると海と空の狭間、水平線をぼんやりと見定めることができ、そういえば俺は昔、ずっと昔、高一か高二の頃に家族で南紀白浜に泊まりがけで海水浴に出掛けたのだが、深夜、ホテルの窓、十何階か忘れたがかなり高かった、から一人、ずっと遠く夜の水平線の上にぼんぼんといくつも花火が上がるのを見たような気がするのだけど、冷静に考えると深夜の沖合いで花火なんて誰もやらないからあれは夢とか幻とかの類だったのだと今なら思えるのだが、そんな昔のことをふと思い出した。現実ではなかったのかもしれないが、あの花火は実に綺麗だった。俺が今まで見た花火の中で一番綺麗だった。まぁ、しかし、残った。俺はあの海の向こうへ逃げるという選択肢を選ばずここに、今の生活に残った。「おいー。俺を殺すなよ」と、海に言ってみる。言ったあとで少し恥ずかしくなった。ざざんざざんと波は単調に寄せては返す。「今の生活を捨てる勇気がなかったんでしょ」と長尾は言っていた。よく分からないが、それはやはりあるのだろうな、と思う。今の生活を捨てるということはつまり、今まで選んできた選択を全て捨てるということだから、やはりそれは怖くもある。少なからず積み上げてきたものがこんな俺にもある。しかし、何だろ、選択したということはその時々ではこれが最良だと思っていたわけで、今の職種も、妻と結婚したことも、馬鹿なりに俺も考えた上での選択だった。そう考えると思い出す。最初の頃は営業の仕事が楽しくて仕方がなかった。毎日街をうろうろして、いろいろな人に会って、仕事が決まり売上が上がると嬉しかった。上司や同僚ともたくさん酒を飲んで笑った。妻だってそうだ。恋していた。どうしようもないくらいに好きだった。妻の住む街まで車を飛ばして通った。忘れていたが、今の俺の生活の根本にはそういったその頃の熱い気持ちがあるのだ。結果がどうであれ、結果なんてものはどこを区切りに考えるものなのかも分からないが、流れ流れてここにいるというわけではない。ちゃんと何かを選択してここにいるのだ。と、その時、揺れた。はっ、として、最初は気持ちの揺れかと思ったが、違う。本当に揺れている。地震だ。揺れは五秒ほど続いて収まった。良かった。そこまで強い地震ではなかった。少なくとも南海トラフ地震ではないようだった。震源地がどこかとか、調べもせずにとりあえず妻に電話をかけてみる。今日はどこだか忘れたが出張に出ていて家には帰っていないはずだ。深夜にもかかわらず妻はすぐに電話に出た。「そっち、揺れた?」と俺。「うん。ちょっとだけどね。そっちはけっこう揺れたの?」「いや、まぁ、普通くらいには揺れた」「普通くらいって何よ。てかまだ外なの?」電話口から風の音でも聞こえたのだろうか。「うん。何か、実は今ちょっと海に来てる」「はぁ? 一人で?」「そう」「何でまた海なのよ」「まぁ、いろいろあって。なぁ、てかさ、俺、地震保険に入ろうかと思うんだけど」「何よ、また急に」「いや、地震が来ても困らないようにさ。できることくらいはやっておこうかなって」「別に私はいいけどさ」「うん」妻は今、どこにいるのだろう。とりあえず電波が届くところにいる。受話器の向こうにいる。そして俺は今、ここにいる。「俺、生きているよ」「何言ってんの?」妻は怪訝そうに言った。ざざんざざんと相変わらず波の音、夜が明けたらあの水平線から太陽が昇るのか。方角的なものはよく分からないが、昇ればいいなと思う。是非見てみたい。終電も無いし、俺はここで朝を待つ。新しい朝。いつもと何も変わらない、新しい、相変わらずの、それでいてどこか愛しい朝。俺は、俺達は、負けたくない。そう思った。煙草。海風、少し冷たくなった、で上手く火が付かなくて、シュッシュッと空振りを繰り返すライターが何だか無様で笑いそうになって、いや、少し笑ってしまって、それが電話の向こうの妻にも伝わったようで、妻も笑い、それは俺を小馬鹿にしたような笑い方ではあったのだが、「私も生きているよ」と言って、暗がりの水平線の上、また花火が上がったような気がした。

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揺れる @hitsuji

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