第2話


 長尾から電話。「海が見たいんだけど」「はぁ、海」「というか実はもうすぐ着くんだけどね。先生も来なよ」来なよ、だなんて簡単に言ってくれるが今は平日の午後、十五時で、時間的には一応会社の業務時間中で、まぁ、でも電話を受けた時、俺は新規訪問を二件回った、玉砕だったのだが、後で、喫茶店でうだうだと今日はこれからどうしようかなぁ、だなんて現実逃避をして呆けていただけだったので、海かぁ、まぁ悪くないかなぁ、とこの話に乗り、喫茶店からそう離れているわけでもない長尾の指定した場所まで地下鉄を乗り継ぎ、三十分後にはもう長尾と並んで海を見ていた。浜、ではなく港という感じで、船なんかもいくつか停泊していて、割と有名な水族館が近くにあるのだが、平日だからかあまり人気はなく、その脇にあるベンチに腰掛ける。缶コーヒーを買ってきた。思っていたよりずっと甘くて、正直言って口に合わなかったのだが、なんだかんだ気付いたら缶の中身は空になっていた。「何でまた海だったの?」午後の太陽光が斜めから入って、きらきらと宝石のように輝く水面を飛び越えてずっと遠く水平線の辺りにぼんやりと視線を落とす長尾に聞く。「敵の姿を確認しておきたくてね」「敵?」「ね、東日本大地震の時に亡くなった人の死因で一番多かったのは何か知ってる?」「え、んー、家屋が崩れて下敷きになったとか?」「違う。約90%が津波による溺死なのよ」「へぇ、そうなんだ」「つまり、絶望は海の向こうからやってくるということよ」絶望。確かに長尾に地震の話をされてから、俺は動画配信サイトでいくつか地震関連の動画を観た。その中に東日本大地震の津波の映像があった。おそらくどこかビルの屋上からスマホで撮ったのであろう動画で、地震直後、混乱する人々の何とも言えない声が入り混じりながらもカメラはしっかりと海を捉えていた。迫り来る波が黒かった。詳しく調べてはいないが、あれは、いろいろなものが混じり合って黒くなっているのだろうか、俺はあんな海を見たことがない。「来る、来る」と人々が慌てる。例え安全な場所にいたとしても恐ろしいものは恐ろしい。黒い波が防波堤を越え、さっきまで自転車で人が走っていた車道に氾濫していく。あの、さっきの自転車の人は無事なのだろうか、と思う余裕なんて撮影者にはなかったのではないか。そのことには何も触れない。どこからきたのか、何隻も船が流れてくる。それらは橋に引っかかり、メキメキと音を立てて折れ曲がっていった。「あぁ」と、これは撮影者の声だろうか。いろいろな感情の詰まった「あぁ」だった。もう何年も前に起きた出来事の動画を見ているに過ぎない俺も思わず息を飲んだ。あの光景は間違いなく絶望と呼べるそれだった。「私、今水泳教室の受付で働いてるって話したっけ?」「この前聞いた」「たくさんの子供達が泳ぎを習いに来てるのよね」「うん」「私は子供の頃、水泳とかやってなかったから、何でみんなこんなに水泳、水泳って馬鹿みたいに泳ぎ方を覚えようとしてるんだろうって思ってたんだけど、あの子達はみんな、もしかしたら海に負けないようにって思って頑張ってるのかもね」また突拍子のないことを言い出す。しかし、そうなのかもしれない、という思いも拭えなかった。「おそらく南海トラフ地震が来たらこのあたりも無事じゃ済まないでしょうね」長尾の言葉に俺も頷く。海賊船のような装飾を施された船が、ばっと帆を張り港を離れていく。遊覧船だ。広告で見たことがある。おそらく帆はただの飾りで、何か別の原動力で動いているのだろう。マストに何人か人がいて、写真を撮ったり、笑い合ったりなんかしている。その光景はどう見ても海賊船などではなくて、装飾とのギャップというか、そのアンバランスさが滑稽で、ドクロのマークが逆に平和の象徴に見えるくらいだった。こんな船の存在が許されるのはつまりは平和だからで、天気は良好、鳥が一羽、頭上を海の方へ飛んで行く、バックスクリーンへ消えていくホームランボールのように迷いがなくて、それは何一つ疑いようもなく明日も明後日も続いていく日常。「普通に怖くない?」「地震?」「まぁ、それもそうだし、この緊張感の無い感じも」目を閉じてみる。ざざんざざんと、波の音だけがそこには残った。人、それは一般大衆というか、普通の人というか、は皆何を考えて生きているのだろうか。そして自分は今、何を考えて生きているのだろうか。希望は無い、それでいて絶望からは目を背ける、となると、今ここにあるものは一体何なのだろうか。何と呼べばいいのだろうか。



 ぼんやりと観ていたつもりが気付けば俺は斜め上、壁に設置された薄型テレビ、そこに映るバラエティ番組に引き込まれてしまっていたようで、危うく「二十五番の方」と呼ぶ受付嬢、と言っても俺よりも歳は上だと思うのだが、の声を聞き逃すところであった。もう二十時を超えているというのに待合室には俺を含めて五人も診察を待っている人がいた。この辺りでこんな時間まで診察をしている内科は他には無いので、どうしても固まってしまうのであろう。皆同じように魂を抜かれたような目でテレビを観ていた。診察室、微かに香る薬品の匂い。個人情報が表示されたPC。「今日は、どうされたんですか?」と、もう老婆と言っていいくらいの歳頃に見える女医が言う。一日中患者を診てウンザリしているのか、何となく無愛想だった。「あの、会社の定期健康診断で引っかかって、その再検査に来ました」「健診結果をお持ちですか?」「はい」と、鞄から健診結果の紙を出して女医にわたす。心電図の判定が「C」と紫の文字になっており、所見欄には「早期再分極」とあった。昨年はA判定だったところからCにまで落ちているだけでも嫌なのに、この、重篤な何かに今後なりそうな予感を含ませた不気味な所見名、ビビって再検査に来てしまったのだ。女医は健診結果全体に軽く目を通し、「ま、じゃあとりあえずお腹を見せてもらえますか」と言うので、俺はシャツのボタンを外してだらしない腹を見せた。女医が冷たい聴診器を当てる。深妙な面持ちで、何となく納得がいっていなさそうな様子だった。不気味だった。俺は溜息をつきたくなったが、余計なことをしたら怒られるかもなぁ、と思い、息を止める。女医の机の上には薄汚れたアンパンマンとカレーパンマンのぬいぐるみが並んで置いてあった。大方、子供が診断中にグズったりした時なんかに使うのだろう。でも俺はこの無愛想な女医がぬいぐるみで小さな子供をあやしているところなど想像ができなかった。あと、どうせならしょくぱんマンも揃えてやればいいのに、とも思った。女医は納得のいっていなさそうな表情を崩さないまま「エコーも診ておきましょうか」と言う、自分は「はぁ」と曖昧な返事をして、それ以上何と言えばいいのだとも思う、先ほどから女医の後ろに立っていた看護師に促されるままに別室のエコー用の診察台に横になった。「ちょっとここでお待ちくださいね」と看護師は横になった俺を置き去りにして消えた。何故か部屋の中、カーテンで仕切られた俺のいる区角のみ電気が消されていて、カーテンの向こうから薄っすらと明かりの気配がするくらいの薄暗闇だった。エコー検査というものは暗がりの中でやるものだったろうか、なんて考えたが、以前、いつエコー検査を受けたのか、記憶を辿ってもまったく思い出せず、というよりそもそもエコー検査自体を受けたことがあったのかどうかすら定かでなかった。しかし、薄暗い天井をぼんやりと眺めていると不思議と気持ちが安らいだ。何故だか分からないがここ最近で一番安らいだ。もうこのまま、ずっとこうしていたいなぁ、などと考えていたのだが、じきにさっきの女医が来て「お待たせしました」と、これまた無愛想に言ってゼリーのような、ローションのような、ものを何の断りもなく俺の腹に塗り出した。冷たくて気持ちが悪かった。女医はそんな俺の不快な気持ちには構いもせず、いちいち構っていても仕方がないので当たり前なのだが、ペンのような装置で俺の腹の上を平仮名の練習でもするかのようになぞり、暗闇にぼぉっと浮かぶモニターを見ていた。女医の眼鏡の隅にモニターの四角い光が映る。部屋の中は静かだった。「問題はなさそうですね」しばらくして女医がポツリと言う。「あ、そうですか」「早期再分極って、結局何かの数値が良い悪いって話ではなくて、ドクターが画像を見て目で判断するんですよね」「はぁ」「今エコーを見たところ異常は無さそうなんですけど、健診の時はたまたまそう見えたのかもしれないですね」「そうですか」まぁ、とりあえず安心した。「一応、エコーの画面見ます?」と、女医はモニターをこちらに向ける。黒いバックに白い影が浮かぶ。この白い影が俺の心臓か。不気味に動くその様は踊るネズミのようで、その瞬間、ハッとした。と、いうのは娘。昔、妻と見た生まれる前、まだ娘が妻の腹の中にいた時のエコー画像。妊娠初期はよく定期検診に付いて行き、その度に成長の過程をエコー画像で見せてもらっていた。「順調に大きくなっていますね」と産婦人科の先生は画像を拡大して今の胎児の大きさを丁寧に教えてくれた。白い影は毎回少しずつ大きくなっていき、やがて娘は生まれた。様子がおかしくなったのは生後十六日目の夜だった。急に乳を飲まなくなり、おかしいと妻が言い出した。俺は最初は「人間なのだからそんな時もあるだろう」だなんて言っていたのだが、あまりにも妻が心配するので夜中、タクシーを飛ばして病院へ行くと、診察をした医者はすぐに青ざめた。突然のことでわけも分からず、理由を理解する間もなく、夜明けを待たずにそのまま娘は死んだ。病名、というか原因も、その時一応説明を受けたのだが、覚えてはいない。明け方、病院を出ると悔しいくらいに爽やかな晴天で、街は昨日と同じように生きていた。死んだのは娘だけなのだと、痛いくらい感じた。煙草に火をつけようとしたのだが、指が上手く動かずライターを擦れなかった。妻は家に帰るのが怖いと言った。その気持ちはよく分かった。妻の顔は真っ白で、表情というものがまったく無かった。黙って頷く。そのあとどうやって家まで帰ったのか、まったく覚えていない。エコー画面を見た時、そんな娘の一切合切を思い出した。たった十六日の命。でも忘れることなんてできない。当たり前だ。気が付いたら女医の説明は終わっていた。エコー画面を見た以降はまったく話を聞いていなかったのだが、とりあえず問題はないということは分かった。家に帰ると妻がいない。とうとう出て行ったか、と思ったがベランダで煙草を吸っているだけだった。煙草、娘がいた短い間は止めていた。俺に気づいて振り返る。「病院、行ったの?」「あぁ、一応問題無いって」「そう。良かったじゃない」「うん」妻は煙草を消し、そのまま俺を横切って風呂場に入っていった。それで一人になった部屋で今更考える。果たして良かったのだろうか。何処にも行けない、何にもなれない、そんな生活をこれからも続けて何か意味があるのだろうか。いっそ重篤な病気にでもかかって終わらせた方が、などと。しかし女医の話を聞いて心に溢れた感情はそんな絶望とは逆のもので、何も無い道がこの先も見渡す限り続いているにもかかわらず、それでもその道を変わらず歩いていけることに今安心をしている。何故、安心という感情が現れるのか。その心理は何なのだろうか。分からない。頭を振る。たくさんの疑問符を、電子レンジで無理矢理チンしてカレーと一緒に食べた。寝た。



 毎日暑くて、もうすぐだと思っていた夏季休暇は蜃気楼のようで、近づいてみるとなかなか辿り着けず、変わらず日々営業業務。外回りをしていた。しかし恐ろしいもので、営業という職種は他の仕事と違って何をどうしようとも止まることができない。仕事があればそれをこなさなければならないし、仕事がないのであれば新しいものを探して来なければならない。誰の所為にもできないし、雨が降ろうが槍が降ろうが、ウイルスが降ろうが止まれない。止まるのは死ぬ時だけ。俺は最近になってようやくそれに気付いた。もっと早く、二十代半ばくらいの頃に気付けば良かった。そうすれば何か別の道のことも考えられただろうに。それにしても暑い。どうしようもないくらいに暑い。アスファルトの地平が霞む。たまらずマスクを外して片耳に掛けていた。それは昼下がりのベランダに掛けられたパンティみたいに揺れる。別に興奮はしねぇ。つか興奮してたら馬鹿だ。さすがの俺もそこまで愚かじゃない。やっとの思いで駅に辿り着く。「ちょっと休んでいこうか」と俺は駅前の喫茶店を指差す。少し後ろを付いて歩いていた三島は「はい」とこんなに暑いのに笑顔で言う。華奢な身体に灰色のシャツがへばりついて汗染みができていた。喫茶店に入りアイスコーヒーを二つ注文する。「夏の匂いがしますね」と三島。言っている意味がよく分からなかった。「クーラーの匂いじゃないの?」「かもですね」と、こめかみの汗をハンカチで拭いて笑う。三島は俺の部下で、二十四歳の若手女性営業マン。忙しいとテンパってしまうところがたまに傷だが、活発で、気持ちの良い女性だった。若手社員教育ということで、最近は一緒に新規得意先を回っていた。喉が渇いてアイスコーヒーを一気に半分くらい飲んでしまう。「暑過ぎる」「ちょっとねぇ」と三島ももうアイスコーヒーを半分くらい飲んでいた。「でも私がたまに行ってるホットヨガはもっと暑いですよ」「ホットヨガ?」「めちゃくちゃ暑い部屋の中でヨガをするんですよ」「まぁ、名前からだいたいの想像はつくけど、この季節によくそんなことする気になるなぁ」「いや、これがなかなかクセになるんですよ。いっぱい汗かくのって気持ちいいですよ。悪いものが全部出ていく感じ。課長代理もどうですか? 私の紹介割引で少し安くできますよ。是非、体験からでも」「いや、やめとく」そもそも俺は絶望的に身体が固い。その固さたるやバービー人形といい勝負で、学生の頃はよく笑われたものだった。そんな俺がヨガ、しかもめちゃくちゃ暑い部屋でなんて、無様で、罰ゲームでしかない。しかし今日の営業は見事に空振りだった。飛び込みではあったが、会ってもらえもしなかった。冷房で少し頭が正常に戻り、その事実を思い出し、「売り上げどうしようかなぁ」と嘆く。「計画数字に全然足りてないですもんね」「まいったよなぁ。また明日本部長と部長に呼ばれてんだよ」「でも、正直言って前年実績から考えてもめちゃくちゃな計画数字じゃありません?」「まぁ、それはね」これは三島の言う通りで、年々下降を続ける俺のグループに前年実績の遥か頭上をいく計画数字が与えられたのは、何か計画達成を見込める希望や期待があったからではなく、おそらくただ単に計画数字の分配に困って押し付けられただけなのだろうということは誰の目から見ても明白であった。こういうところがいけない企業で、達成するための計画というわけではなく、掲げるための計画となってしまっていて、それでいて掲げた以上は何もやらないというわけにはいかないので、不可能な数字を与えられた俺みたいな運の無い下っ端が捕まえられ、「計画足りてないけどどうするの?」と詰められることになるのだ。本音でいうと多分、本部長も部長も俺のグループが計画数字を達成できるだなんて思っていない。計画数字をどのくらいに設定するかを下からリクエストすることはできない。計画数字というものは、偉い人達が偉い人達の事情で設定するものなのだ。多分、計画数字が一千万でも百億でも足りていなかったら同じように詰められる。これはうちの会社だけなのだろうか。知らないが。非常に悪いシステムだと思う。「あんな計画数字そもそも無茶ですよって課長代理から言えないんですか?」「まぁ、なぁ」俺も昔は同じようなことを先輩に言っていた気がする。でも言えないのだ。偉い人というのはやはりそれなりに力を持っているから偉いので、逆らえない。「成績はなかなか良くならないですけど、いろいろ動いてるんですけどね。頑張っても頑張っても満たされないっすよぉ」と、三島。まったくその通りだと思う。それはこの仕事を続けている限りずっとそうだよ、と思うが、若い三島には言えなかった。いや、言ってしまった方がいいのか。一瞬そう思うも、今三島にグループを抜けられたら困るので、やはり言えない。社会人たるもの自分の身は自分で守らなくてはならない。厳しいがこれが現実なのだ。しかし、三島は何かの縁があって俺の下についた部下だ。できれば幸せになってほしいとも思う。そんなジレンマ。もやもやして、決して気持ちの良いものではないが、このジレンマというものは意外と重要で、これも最近思うのだが、ジレンマがこの社会を成り立たせている。いや、ジレンマそのものが社会を成り立たせているわけではなくて、ジレンマが、誰かの生活と誰かの生活を繋ぐエキスパンションジョイントのような、そういった役割をしていて、それで社会というものが崩れず、絶妙なバランスを保って成り立っているのではないかと、そんなことを思う。「三島、頑張ろうな」「これ以上、何をどう頑張るんですか?」「だよな」笑えないが笑ってみる。「はぁ。あまり課長代理を困らせるのもアレなんですけど、頑張ってもどうしようもないことってどうしたらいいんですかね?」「もっと頑張る?」と、0点の解答。三島はぶりっ子のように口を膨らませた。「まぁ、いいですよ。ね、課長代理、私、先週彼氏できたんですよ。久しぶりに。だから実は今めちゃくちゃ幸せで、そんなこんなですからもうちょっと文句言わずに頑張ってみますよ」と、急に笑顔になる。百点。理由なんて何だっていい。結局、幸せなのだったらそれだけで百点なのだ。そこが全ての目的地。あとは持続の問題なのである。「地震が来て計画数字消えねぇかな」「え、地震?」「や、南海トラフ地震とか」「何か、考えてること怖いですよ、課長代理」と、三島は三白眼になる。いつかベランダから見た黒猫のようだった。「ごめん」「でも多分、南海トラフ地震が来ても計画数字は消えないと思いますよ」「え、そうかな?」「だって計画数字は家とか橋とかみたいな物じゃなくて概念ですから」「そうか」壊れるもの壊れないもの。まぁ、でもそれも自分の命あっての話である。結局最終はそこ、命がないと幸せも不幸もない。物体も概念もない。新しくできた彼氏だってそう。全ては命あっての話。じゃあそれをどうやって守るのかという話。あと、その裏側、本当に守る価値があるものなのかという話でもある。ニャー、と鳴いて裏街道を野良猫のように草をかき分け走りたい。低い目線で世界を見つめたら何かが分かるのかもしれない。そんな途方もない話。クーラーの匂い。夏の匂い。「行こうか」と、マスクを口元に戻して席を立つ。現実。



 事務所の近くに中華料理店があり、俺はそこを割と気に入っていてしょっちゅう昼食を食べに行っていた。その店の何がいいって、まずはボリュームがある。これ、大事。加えて味もそこそこ良い。そして何というか、他にはないプラスワン的な何かが要所要所にあって良い。例えば定食を食べたらアイスコーヒーが無料で付いてくるとか、あとスープ、普通の店だったらいつ行っても同じスープ、だいたいは卵だけが入ったスープ、が出てくるのだが、ここは違くて、日によって卵にプラスしてトマトが入っていたり、コーンが入っていたりと、客を飽きさせない工夫がしっかりと凝らされていて、そういうのって、すごく好印象。今日は木曜日で、日替わり定食はおそらく油淋鶏と野菜炒めだろうと思って行くとやはりその通りで、迷わず日替わり定食を食べ、時間をかけてアイスコーヒーを飲んで外に出ると十二時半。まだ少し時間があるなぁ、と、もはや暴力だとも思えるくらい太陽の照る道をトボトボと事務所へ向けて引き返していると、ふと後ろから妙な気配を感じた。しかし振り返ってみるも別に何てことない、初老の男性が一人歩いているだけだった。それで再び前を向き歩き出すも、やはり何だか嫌な予感がしてもう一度振り返る。すると、先程の初老の男性がオフィスビルの植え込みに倒れていた。一瞬頭がフリーズした。唐突に非現実的なことに出会すと理解するまでに時間がかかる。誰にだってあることだと思う。しかしいつまでもフリーズしているわけにもいかず、今俺は一応第一発見者なわけで、初老男性に駆け寄り「大丈夫ですか?」と聞いてみる。「あぁ、大丈夫大丈夫」と男性は笑顔で、しかし身体に力が入らないようで、立ち上がろうとしているのだが上手く立ち上がれない。これは経験上だが、大丈夫じゃない人は大抵大丈夫だと言う。だから、この初老男性もおそらく大丈夫ではない。それで、とっさに頭に過ったのは救急車。呼ぼうかな、と。以前、部署の飲み会で最後の挨拶の後に急に部長が倒れたことがある。みんな「あれ、部長大丈夫ですかぁ?」だなんて酔っていたのでいい加減な介抱をしていたのだが、割と素面だった課長が冷静に救急車を呼んだ。皆、えっ、てなって、それはちょっとやり過ぎなんじゃ、とその時は思っていたのだが、結果的に病院で調べると詳しくは聞いていないがあまり良くないことがいろいろ分かって、部長はそこから二週間も入院した。結果的に課長の「すぐに救急車を呼ぶ」という判断が正しかったのだ。そんなことが以前にあったので、俺はすぐ救急車のことを思ったのだ。と、そこに「大丈夫っすか?」とおそらくこのビルに勤めているのであろう若い男、身体つきが良くて、日に焼けていて、小中高大としっかり野球でもしていたのではないかという印象、が俺達に気づいて声をかけてきた。「何か急に倒れちゃって」「お爺ちゃん、大丈夫?」「すまんのぉ、大丈夫大丈夫」と言うもやはり立ち上がれない。「多分、熱中症じゃないですかね」と、若い男。確かに今日は特に暑いので熱中症に注意と朝のニュースでも言っていた。「ビルの下に座れるスペースがあるのでそこまで行きましょう。冷房も効いてますし、少し休めば良くなるでしょ」それで「あ、そうですね」と未だ迷いの残る俺を尻目に「お爺ちゃん、ちょっと中入ろうか」と、初老男性にその締まった肩を貸してさっさとビルの中に連れていってしまった。一応俺も付いて行くも、「あとは看とくので大丈夫ですよ」と言われ、若い男のお言葉に甘えてあとを任せてその場を立ち去った。何というか、俺は生まれ変わったらあのような頼りがいのある人間になりたいと思った。来世の夢である。今世はもう無理だ。諦めた。しかし、熱中症とは怖いな。マジであんなふうに倒れるんだな。俺も毎日営業で外をうろついている身なので他人事ではない。そういえば昔、高校生の頃、俺はバレーボール部だったのだが、真夏の練習でチームメイトが真っピンクな頬になって倒れたことがあった。まぁ、幸いにしてすぐに冷房の効いた教官室に運ばれて大事には至らなかったのだが、今思えばあれは熱中症だったのだろうな。当時はそんな言葉を知らなかった。俺も気をつけないとなぁ、と思い事務所に戻って午後の業務に勤しんでいた十五時頃、長尾携帯から電話、しかし出ると長尾ではない知らない女性の声で、話を聞くとどうもこの女性は看護師のようで、更に話を聞くと、どうやら長尾が熱中症で倒れて救急車で搬送されたらしく、看護師曰く本人が俺に病院まで来てほしいと言っているようで、何だかまたタイムリーな話だなぁ、いや、というか、何で俺を指名? と思ったが、まぁ、一応長尾にとって俺は先生ではあるし仕方ないかなと、後にして思えばよく分からない理論だが、思い、病院名と病室の番号を聞くと、事務所からそう遠くない病院だった。行ったことはないが地下鉄の車内放送で名前は知っていて、まぁ行くかぁと、いい加減な行き先をホワイトボードに書き込んで戻り時間を「直帰」にした。課長は何か言いたげだったが気付かないフリをして事務所を出る。二十分後には長尾の病室にいた。「実際、マジでヤバかった」と長尾は病院のベッドに横になったまま笑って言う。他人事のような言い方だった。顔色はまだあまり良くなかったが、とりあえずは大丈夫なのだろうという感じだった。「何してて熱中症になったの?」ベッドサイドのパイプ椅子に腰掛けて聞いた。「何って、公園の真ん中の一番日の当たるとこに何時間も立ってたのよ」「またどうせ変なこと考えてたんだろ」「変なことっていうか、ほら、前も話したけど、あまりにもみんな死を恐れずに暮らしてるから、もしかすると死ぬことなんて私が思っているよりずっと楽で怖くないものなのかなぁ、と思って実験してたのよ」「あのね」俺は溜息をついた。「いや、何も本気で死ぬつもりはなかったのよ。ただ、ギリギリのところまでいってみて実際どんな感じなのか知りたかっただけで、つまりは死にたかったんじゃなくて知りたかったってこと。だから救急車も自分で呼んだんだから」「で、どうだったの?」「めちゃくちゃキツかった」そう言って長尾は大笑いしたが、俺は笑えなかった。「そりゃそうだろ」「いや、熱中症ってじわじわやられていく感じでしょ? それが溺死に似てるかなぁ、と思ってやってみたんだけど、マジでキツい。最後の方なんて痙攣してくるわ、吐き気も出てくるわで、最終的に救急車が来た時には私その場で倒れちゃってたのよ」「馬鹿なことするなよ」「反省してます。でも先生、私はっきり分かったよ。やっぱり死ぬのは怖い。キツいし。死にかけても天国も地獄も見えなかった。おそらくだけど死んだらそこで終了、主観とか、感覚とか、記憶も、全てが無になると思うの。だからやっぱり今の生活を守る守らないの前に命そのものを守るべきだと思うのよ」「それは別に、考え方としては間違ってはいないと思うけど」「一緒に地震の無い国へ逃げようよ」「は?」「日本にいたら一生この問題からは逃げられない。だから安全なところまで逃げて全部をそこでやり直すしかないと思うの」突拍子の無い話ではあったが長尾は本気だった。目を見れば分かった。「地震の無い国って?」「調べたんだけど、ドイツとかフランスとか。ロシアもそうね。けっこうあるよ」「でも言葉とか、分かるの?」「そりゃ行く前にちょっとは勉強しなきゃいけないけど、そんなの一時の苦労よ。ね、先生も行こう」「いや、ちょっと待て。仕事とか、家のこともあるし、そんな簡単には行けないって」「でもあまり上手くいってないんでしょ?」そう言われてギクりとした。「仕事も家庭も。私、そういうのは何となく分かるんだ」長尾は変なところで鋭い。「それは確かに認めるけど」「今の先生の生活って、命を捨ててまで守るものなの?」「いや、それは」「命があればいくらでもやり直すことができるのよ」長尾の言うことは極論ではあるが正論でもあった。否定する言葉も肯定する言葉も出ないまま黙ってしまっていたら看護師、おそらく電話で話した人だ、が巡回に来て、何となく病室に居づらくなったので帰ることにした。「考えておいてよね」カーテンをめくる俺の背中に長尾の言葉が刺さる。ほぼ無意識のうちに頷く。外に出ると夕暮れ。遠くの空、向こうの方には確か大きな川がある、ぼんやりと霞んだ輪郭が美しかった。まるでメルトダウンしていくように、赤が心に染みていく。街は普通に機能していたが、皆これを見て何も思わないのかなぁ、なんて思った。この夕暮れが明日も変わらずにそこにある可能性はいったい何パーセントくらいなのか。とりあえず自分は、いや日本にいる皆だ、今、80パーセントの残り20パーセントの中で生きている。何事も無いかのように今日も生きている。



 外国人の幼い女の子が、恥ずかしそうな笑顔を浮かべて放尿している。何を言っているのかはよく分からないが、辛うじて「シューズ」という言葉が聞き取れた。これはおそらくおしっこが靴にかかるという意味合いのことを言っているのだろうと推察する。ピチピチのピンクのTシャツは可能な限り捲り上げられ、小ぶりな乳、ピンクの乳首が二つ、露わになっていた。人形のように肌が白く、陰部からは止めどなく透明な尿が流れ出て、それを撮影している卑しい男の声が少し入った。俺は滞りなく射精。その後、ティッシュで陰部を拭き、賢者になってベランダで煙草を吸う。見下ろすと、ちょうどバス停にバスが停まるのが見えた。仕事や学校帰りの人々が順番にバスから降りてくる。こうして人々の生活を冷静な目で見つめると、今の今まであんな動画で自慰に耽っていた自分は世界で一番低俗な人間なのではないかと思えた。「人間の屑さぁん」そう後ろから呼ばれたら振り返る。「呼びました?」と振り返る。それくらいの自覚はある。何をやる気にもならなくて、そのまま煙草を二本、三本、と吸っていると次のバスが来て、人々に紛れて妻が降りてくるのが見えた。何故だか不思議な気持ちになった。あの人は間違いなく俺の妻で、多分数分後にはこの部屋に入って来るのだと思うが、思えばそれは不思議な話で、妻は妻である以前に女で、人間で、人間なんて他にもたくさんいて、もちろんそれは俺もなのだが、そう考えると、一緒にいるのは妻でない他の誰かであっても別によいのではないか、なんて、妻でないといけない理由などあるのだろうか、と。例えば今妻の横を歩いているOL風の女、俺は別にあの人と一緒に暮らしてもよかったのかもしれないわけで、一歩違っていたら本当にそうなっていたのかもしれないわけで、そう考えると俺は何故妻で、逆に妻は何故俺なのだろうという気持ちになった。普通に生活をしていたら気付かないが、グッと視界を広げると、人間は本当に馬鹿でかい流れの中で生きている。やり直しなんていくらでもきくのではないか。「考えておいてよね」と長尾の言葉はあの日以来俺の心に貼りついて取れない。やがて妻が帰ってくる。「ただいま」と素早く楽な服に着替えてテレビをつけ、俺などいないかのように一人の世界へ入る。特別ではない。いつものことだ。煙草を吸うのにも疲れたが、部屋の中に入る気にもならなかった。ベランダの手すりの上で腕を組み、その上に顎を乗せる。風が、南の国からはるばる来たのではないかというくらい生温くて、この調子ではおそらく夏はまだまだ終わらない。空を見ると雲がディズニー映画のように散らばっていて、綺麗だとも思うのだけど、明日もまた暑いのだろうなぁ、キツいなぁ、なんて現実的なことも考える。迷っているのだ。本音を言うと。長尾の誘い。正直に言って今の生活は辛い。終わりも見えないままにただ落ちていくだけの営業の仕事、方向性を見失いもはや惰性で続いているだけの夫婦生活。逃げ出したい気持ちは十分にあった。しかしそれをいざ投げ捨てるとなると躊躇いもあって、でもこの躊躇いが何処から来ているものなのか自分でもよく分からなくて、何が俺の決断を止めるのか、いや、決断を止めている俺こそが本質的な今ここで生活する俺なのだが、でも俺はその俺の深層心理を理解できなくてと、長尾の病室以来、頭の中で無数のイエスとノーが戦っている日々だった。迷っている。しかし、でも、だ、揺れるのだ。いつか必ず。それは明日かもしれないし明後日かもしれない。死ぬかもしれない。揺れる。全てはその日を迎えるための決断なのだ。様々なことに対して答えが出ていない。生きるとか死ぬとか、どちらにせよそれをどうやってこなしていくかとか。迷いの根本はつまりはそこではないか。ふと気付くと、真後ろ、窓のサッシに腰掛けて妻が煙草を吸っていた。「何、黄昏てんのよ」「黄昏?」黄昏という言葉は小説やらドラマやらで割とよく耳にするのだが、俺はその言葉の正確な意味を知らず、今ほどそれを知りたいと思うことはなかった。「十分くらい前から座ってたのに気付きもしないで。何ぼぉーっと空なんて見てるのよ」「いや、明日も暑そうだなぁって」「それだけ?」「まぁ、どうだろ」俺は口籠って、非常に歯切れが悪かった。「週末から私実家帰るから」「えっ」「えっ、じゃないわよ夏季休暇よ。言ってたじゃない」「あぁ」「一週間くらいは帰るからね」「うん。分かった」妻は煙草を消して小さく欠伸をした。犬の鳴き声が聞こえる。根拠はないが、おそらく飼い犬だと思う。頭の良さそうな鳴き声だった。最近はもう、野良犬なんてこの街では見ない。暗がりの向こうからまたバスが来る。ゆっくりと人々が降りてくる。それにしても、そうか、ついに夏季休暇がやってくるのだな。

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