夏の夜

@aoibunko

全1話

 旦那様、失礼ながらもお手紙差し上げることお許しください。旦那様がお仕事でふた月ほど出かけると言って出発なさったあと、この屋敷は奥様と女中の私のふたりきりでございました。奥様は若く美しく貞淑な方でいらっしゃいます。旦那さまが出かけてしばらくのあいだは、庭の花を愛でたり、読書したり、遠方の友人と手紙のやりとりを楽しんで、静かに暮らしておられました。


 ご様子が変わられたのは、ある夜中のことです。女中部屋で寝ていた私はふと目を覚ますと、どうもドアの外で誰かが歩きまわっているような気配がします。ろうそくを灯し、寝巻のまま廊下に出るとそれは地下の気配へと変わりました。女中部屋の近くには食料を保存している地下室に降りる階段があります。そっと地下室に降りてみましたが、気配はもっと遠くのようでした。私はこの屋敷に別の地下室があったのを思い出しました。人が亡くなったあと、死体を安置しておくところです。恐ろしいのをこらえてその地下室を目指します。


 地下室に降りる階段には重い扉がついています。果たして鍵は何者かがはずしていました。ためらっていると、錆びた金属音をたててゆっくり扉が開きはじめたので私は腰を抜かして悲鳴をあげました。扉から顔をのぞかせたのは、誰あろう奥様ではありませんか。奥様はランプゆらめく暗闇のなか、戸惑ったように、旦那様から入らないように言われていた地下室に急に行ってみたくなったのだと答えられました。


 

 翌朝、柔らかい日の光が差し込む食堂で、私は奥様に朝食の給仕をしておりましたが、奥様の横顔がいつもと違っているのが気になっていました。いつもは陶器のように白い肌とばら色の頬を控え目に輝かせておいでの奥様が、なぜか物憂げで暗い影を背負っているかのように見えたのです。フォークとナイフを動かす手を一瞬止めて、奥様は私と目を合わせました。私はジロジロ見つめていたのを奥様に気づかれたことを恥じて、あわてて目をそらしました。奥様はゆったりと正面を向いて、誰に聞かせるでもないような調子で話しはじめました。


「昨夜はね、眠れなくてランプをつけて本を読んでおりましたのよ。書斎に大きな本棚があるでしょう?何か変わったものが読みたいと探していたら、古い日記が出てきましたの。主人のじゃないわ。ずっと昔の人よ。それを読んでいたら余計に目が冴えてね、ちょっと庭に出て散歩しようとしたら、周りが暗いせいか迷ってしまってね。気が付いたらあの地下室にいたのよ。でも主人からは立ち入りを禁じられて、鍵の場所も知らないのに、どうして入れたんでしょうね。」


 奥様の口ぶりはそんな奇妙なできごとを気味悪がるどころか、むしろ楽しそうでした。


 その夜から私は眠れなくなりました。女中部屋のベッドに入ると、外で足音がします。それも一人ではなく、数人の足音です。奥様のことが気になりはしましたが、なんとなく口止めされたような気がして見に行くことができませんでした。


 奥様の顔はどんどん変わっていきました。白い肌はさらに白くなって青白くなりました。頬から若々しい赤みが消え、代わりに目つきだけがらんらんとしています。昼間は手慰みの庭いじりも読書もやめておしまいになり、長椅子に横たわって休んでおられるのが常となりました。


 そうして10日ほどたったころ、旦那様からお手紙が参りました。 長椅子に横たわったまま手紙を読んだ奥様は、面倒くさそうに机の引き出しにしまっておくよう私に命じました。私に手紙の内容はわかりませんが、きっと旦那様の近況報告と奥様の返信を催促する文面に違いないと思った私は、夜の地下室に潜入する決意をしました。


 その日の夜、女中部屋に戻るとさっそく足音がします。私は神に祈り、ランプを捧げてあの地下室に向かいます。階段を降り、重い扉を開けようとすると――扉は絹のカーテンのように軽くすいと開きます。地下室につながる煉瓦でかためられた地下道を歩いていると、さっきの足音のほかに人の息遣いのようなものも耳に入ってきます。


 奥の部屋からぼそぼそと人の話し声のような物音がします。それは女がくすくす笑っているようでもありました。とうとう私は遺体安置に使用されていたという地下室を覗き見ました。


 ――全身の血が凍り付くような――あまりの恐怖に私は一歩も動けなくなりました。我に返ったのは、暗闇の中から奥様が私の名前を呼んだからです。私ははじけ飛ぶように来た道をこけつまろびつ戻りました。地下室の階段を駆け上がり、廊下に出て床にへたりこみ、激しく脈打つ胸を抑えていると、奥様が私を呼びながらコツコツと階段をあがってくるではありませんか。私はギャッという動物のような悲鳴をあげて、全速力で走りだしました。とにかくこの屋敷を出なければならないと思い、着の身着のまま外へ飛び出し、夏の花が咲き誇る庭園を突っ切って、鉄の門をこじあけ、外に出るとすぐに門扉を閉めました。


 門の外から屋敷を見ると、ドレス姿のしどけない奥様があたりを見回していました。どうか見つかりませんようにと私は夜道を走りました。どこに行こうかとは考えていません。ただ、あれを見てしまった私には逃げること以外に選択肢はありませんでした。


 旦那様、あの地下室で、奥様は、墓に葬られたはずの死者に花嫁として迎えられ、妖しくおぞましい儀式に耽溺されておられたのです。私はもうお屋敷に戻ることはありません。どうか一刻も早く奥様をお迎えにいってください。それができるのは旦那様だけかと存じます。




 

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