暗き穴の淵から、新たな山へ

「山梨県大会、金賞おめでとう城山しろやま先生。俺も先輩として鼻が高いってもんだ」


 コンクールの閉会式が終わって、ホールから出る直前。

 城山匠しろやまたくみの前に姿を現したのは、城山の大学の先輩であり、同業者でもある谷田貝慊人やたがいあきとだった。


 なんとなく、ここにいるような気は城山もしていたのだ。楽器置き場で視線を感じたときから。

 ただ、この同業者がどうしてわざわざ山梨まで来ているのかは分からなかった。

 教えている学校とこれまでの行動を見るに、自分の利益にならないことはしないのだ、この人は――笑顔で近づいてくる先輩を城山が警戒していると、谷田貝は続ける。


「本番の演奏も聞かせてもらったぜ。いやあ、指揮者就任一年目であそこまでやるとはなあ。期待どおり、いや期待以上の成果だった」

「……それはどうも。で、なんの用ですか?」

「つれねえ態度だな。まあいいや。もちろん、後輩の様子を見に来たのさ」


 先輩が後輩の面倒を見るのは、当たり前だろ――? と、いつものように人が良さそうに言ってくる谷田貝は、ただのいい先輩に見える。

 だが、彼の裏の顔を城山はもう知ってしまっている。

 生徒たちを恐怖と好意で支配して、人の尊厳を食いつぶしながら生きる害悪。

 己を守るために、周囲を傷つけ弄ぶ悪魔――頼りになる先生だと思わせて、願いを叶えるために大切なものを差し出させる様は、笑顔も相まってその形容が相応しい。


 彼の指導する学校の現状を変えたくて、城山は今日のコンクールで金賞を取ったのだ。

 念願かなって山梨鳴沢女子高の吹奏楽部は、城山の指揮の下で結果を出した。谷田貝がかつて不要と言った生徒が中心になって――間接的ではあるが、彼が取りこぼした欠片が成果を出したことは、谷田貝のやり方を否定する取っ掛かりになる。

 先輩のやり方は間違えている、と。

 正面切って、言える材料になる――はずなのに。

 なぜだろう、こんなにも足がすくむのは。


 同業者でもある後輩が、先輩を超える結果を出したというのに、谷田貝は焦る様子もない。

 むしろ無邪気にも、喜んでいるように見える。余裕が消えていない――まるで全てが自分の予定どおりだったというような態度に。

 城山が心をざわつかせていると、谷田貝は言う。


「おまえが生徒たちと仲良くしゃべってるのも見たよ。どんな手を使ってたらし込んだ? 後学のために教えてほしいもんだが」

「黙れ……! 僕と彼女たちは、そんな間柄じゃない。あなたが考えてるような手段は、一切取っていない……!」


 気持ちを抑えていた城山だったが、さすがにその一言は逆鱗に触れた。

 誑し込んだ、などと。

 よくも言えたものだ。あの光景を見て――あの演奏を聞いて。

 あなたを信じます――と言って、この靴をくれた生徒のことを見ても、なお。

 そんな風に言えるのなら、もう容赦はしない。


「偉そうなことを言って、先輩は自分の教えてる学校で金賞を取れなかったじゃないですか。それは先輩の行動が間違っていることの証明です。言っていることもやっていることも、人として指揮者としておかしいですよ……!」


 もはや、不穏な空気など関係なかった。

 外部講師として、それ以前に人間として、城山は谷田貝を糾弾する。

 演奏の妨害もせず、本番も大人しく耳を傾け、結果まで受け入れる――不審な点はそれこそ山ほどあったが、それ以上に彼女たちを汚すような物言いが許せなかったのだ。


「僕たちは、お互いを信じてここまでやってきた。あなたみたいに、一方的に利用する結びつきじゃない……!」


 足元の靴の感触に、この山梨で過ごしてきた日々を思い出す。

 そして、それを信じると言ってくれた生徒のことを思い出す。

 彼女がいるから、ここまでやってこられたのだ。がんばる誰かがいるから、自分だってがんばってこられた。お互いに――信じていたからこそ、演奏は完成し、金賞という結果になった。

 自分と、谷田貝は違う。

 断じて、同じ考え方などしていない――。

 激情に任せて城山が言葉を口にすると、谷田貝は肩をすくめて言う。


「ふうん、わざわざ焚きつけてやったっていうのに、まだ覚悟が決まってねえんだな。ま、いいや――金賞っていう結果でものをいう、って発想をしたことには変わりねえんだから」

「……どういうことですか」

「自分の胸に聞いてみろよ。ま、その前に俺が訊くんだが――なあ、城山」


 ふっ――と。

 正面から見据える眼差しに迫力があるのは、腐っても彼が指揮者だからだろう。

 外部講師としても先輩である谷田貝は、「なあ、俺はこの間、おまえがどんな決断を下すかって訊いたよな?」と言う。


「答えを、聞かせてもらうぜ城山匠。

 おまえ俺と一緒に、もっと大きな学校の講師をやってみないか?」


 そのセリフは嘘偽りの響きなど、どこにもなく。

 彼がこの問いを発しにここに来たことは、明らかだった。



 ###



「――は」


 谷田貝の言葉に、城山は動きを止める。

 先輩が何を言っているのか、正直すぐには分からなかった。

 他の学校の指揮。もっと大きなところの。

 どういうことなのだ。眉を寄せる後輩に、先輩は説明する。


「今年の初めか。埼玉での俺の評判が耳に入ったみたいでな。東京の大きな学校から、来てほしいって打診があったんだ。で、なかなかでかい案件だから、助手が欲しいなあって思って」

「先輩、それじゃ……」

「ああ。ちょうど近くにとんでもなく優秀な後輩がいたから、発破をかけてがんばってもらうことにしたんだよ」

「そんな……」


 改めて谷田貝の余裕の理由を知って、城山は愕然がくぜんとした。

 まだまだ他の学校から必要されている。ということは、金賞を取って先輩を否定するという目論見は、あっさり崩れたことになる。


 確かに、谷田貝の教えていた学校はコンクールで良い成績を収めていた。

 あんな教え方でなければ、もっと上の大会に行けたのではないかという思いすらある。ただ、何よりショックだったのは――自分が谷田貝の狙いどおりに動いていたということだ。


 谷田貝慊人という人は、内面を知らなければただの懐の深い礼儀正しい人間だ。

 それに騙されて、指導を依頼してしまう者は多いだろう――かつての自分のようにだ。仕事を紹介してくれる谷田貝がありがたくて、疑いを持ちながらもチラチラと見える黒さから目を逸らそうとした。

 でも。


「……それじゃあ、今まで教えていた学校は」

「俺のところは切るよ。どうせ潮時だったんだ。ちょうどいい機会かと思ってさ」

「あの、女の子は? 先輩を、慕ってた女の子は?」

「捨てるよ。どうせもう用済みだし」

「……」


 目の前に現れた暗闇は、言葉を失うほど暗いものだった。

 事も無げに自分を慕っていた存在を『要らない』と言う谷田貝は、城山にはただの黒い穴のように見えた。

 ブラックホールのように、全てを吸い込む虚無の穴に見えた――真っ黒の。

 感情すら吸い込む、深い闇に。呆然とする城山に、谷田貝は言う。


「外道だって思うか? でもおまえも外部講師なら分かるだろ。俺たちは、雇われ指揮者だ。慈善事業で音楽やってんじゃねえ。いい条件の契約先があるなら、そっちに行くさ」

「だからって、あんまりにも」

「すっぱり切りすぎだってか。なあ、城山。もうちょいビジネスライクになれ。そんなんだからおまえ、いつまで経っても生活が苦しいんだよ。音楽で食ってくって言葉の意味、もっと考えろって俺は忠告したろう?」


 確かに、言われた。

 必要とされる人になれと。

 そのためには誰かを傷つけることさえ厭うなと――生きるために。

 音楽で、生きていくために。

 周りを食い物にしてでもやっていけと。

 そう言われたことは、今でも頭の片隅に残っている。


「だからさ。おまえも一緒にどうかなって思って。もっと大きな舞台に。より必要とされる場所に。そうしなけりゃ、俺たちは死んじまう。なにしろ仙人でもなんでもないからな。霞を食って生きてはいけないのさ」


 悲しいことにね――と肩をすくめる谷田貝のことを、城山は否定できなかった。

 なにしろ、言っていることは正しいのだ。

 対価をもらわなければ食べていけない。気持ちだけで腹は膨れない。

 そんなの、何もなかった頃のある自分は知っている。

 飢えて乾いて、越えてはいけない一線を越えようとしたことだってある。

 自分の歩く道は、人とは違う。

 それを認めて、極限まで合理化したのが谷田貝慊人という存在だった。

 自分と同じ、外部講師だった――どんなことをしてでも、生き残れと。

 その言葉に、間違いはない。

 けれど。


「……違う、違う、違う――!」


 谷田貝の言葉を聞いて考えて、それでも城山は首を振った。

 間違いではないけれど、それは決して正解ではないのだ。


「違います。だからって、人を傷つけていい理由にはならない。僕はあなたとは違うんだ。あの子たちを捨てるなんてできるもんか――!」


 あなたの行く先が、輝かしいものでありますようにと。

 願って贈られた、靴があった。

 少ないけれど、と言われて渡された謝礼と野菜があった。

 かけられた言葉があり、笑顔があった。

 それらを置いてどこかに行くなど、できるはずもなかった。


 仕事人としては正しくない判断なのかもしれない。もっと大きな仕事をしたいという欲だって、ないわけではない。

 ただ、この人にここで従ってしまうのは、絶対に違う。

 それだけは確かなのだ。自分自身の足で歩いていこうと決めた――城山匠の道なのだった。


「自分の行く先は、自分で決めます。楽でなくても、馬鹿を見ても、それでも生きてみせます。幸い前よりは、ここに来たおかげで生活は楽になりました。もう、前の僕じゃありません」

「自信をつけたってか。青いねえ城山先生。そんなんじゃこの先苦労するぜ」

「なんとでも言ってください。先輩と僕とは違う。指揮者として、僕は――周りの誰かと協力して、演奏を作り上げるんだ」


 この地に来てから、得たものがあった。

 笑ったことも怒ったことも、泣いたことさえあった。

 けれどもその感情こそが、自分とこの人が違うという証なのだ。そう思って城山が谷田貝をにらみつけると。

 彼は、ゾッとする声音で言う。


「甘いんだよ。利用でも協力でも、やってることは結局一緒だろうが」


 一段階も、二段階も下がったトーンは、そのまま周囲の明かりさえ吸い込むようだった。

 暗がりから谷田貝は、城山の目を逸らしていた部分を正確にえぐってくる。


「今回おまえは、何を思って金賞を取った? その途中で少しでも、生徒を利用してるとは思わなかったのか?」

「それ、は」


 考えなかったと言えば、嘘になる。

 真っすぐに信じてくれる眼差しに、打算にまみれた弱い自分が照らし出されないかと恐れたことは、一度や二度ではない。

 金賞を取ろうと言った、生徒たちの願いに隠れて――谷田貝に一矢報いたいという、城山の個人的な思いもあったのだから。

 もっと言えば、外部講師としてだって。


「俺は求められた役割に従って、生徒たちの力を引き出した。無理矢理にでもな。おまえは好意っていう感情につけ込んで、生徒たちの支持を集めて結果を出した。この二つにどれほどの差がある? 外から見たら大して変わらねえよ。

 金賞っていう手段で俺に対抗しようとした時点で、おまえはもう俺と同類なんだ、城山匠」


 結果がほしかったことは、否定できない。

 当たり前の論理だ。外部講師は雇われ指揮者で、求められるのは結果を出すこと。

 できなければクビになっても文句は言えないし、そうすればまた荒んだ暮らしに逆戻りだ。

 信頼などという、綺麗な言葉で誤魔化せない部分。

 それを、谷田貝慊人は知っている。同業者だから――同じ立場だから。手に取るように、分かってしまう。


 そこで、城山は唐突に理解した。

 谷田貝と会う直前、どうして生徒たちを先に帰らせたのか――

 それは。

 これから言うことを、聞かれたくなかったからだ。


「……確かに、僕は彼女たちを利用していたのかもしれません」


 自分の心の声に、素直に従うことに決めた――教えている学校の部長のように。

 立場と考えていることの板挟みにあっていた彼女は、今では舞台の上に凛々しく立つようになっていた。

 あの子のように、なりたいと思った。


「そんな自覚はあった。分かっていて、見ない振りをしていた」


 友達のために行動を起こし、楽器まで自作した部員がいた。

 彼女が作ったウインドマシーンから出た音は、澄んでいた。

 まるでこちらの汚れた思考を、洗い流してくれるように。


 そして、この地に受け入れてもらえるかどうか、ずっと怖がっていた子だって。


「けどこうやって――自分の行いが間違いなんじゃないかって。怖がって、迷って、泣きそうになっていることが。僕が先輩と違う、なによりの証明なんです」


 ここで生きていくことを決めた。

 だったら自分も、裏切るわけにはいかないのだ。先生なのだから――暗い穴の淵に立って、ギリギリで、落ちていくことを拒絶する。

 歩くために贈られたこの靴は。

 踏みとどまるための力も貸してくれた。


 何もなかったら、それこそ以前のようにこの誘いには乗っていたかもしれない。

 けれども、今の自分には迷うだけのものが与えられている。その在り方は、転校生としてやってきたあの生徒に近い。

 気にかけてくれているという事実を、どう受け止めて、気持ちを返していくかではないか――彼女と交わした、あの言葉に基づくならば。


 受け取ったものを、笑ったり、怒ったり泣いたりして返してきた自分は。

 この人のように、感情を吸い込む暗い穴でないのだ――この偽善の自覚がある限り。


 何の痛みも感じなくなった、この人とは違う。

 そう城山が言うと、谷田貝は心底愉快そうに笑う。


「あっはっはっは! それが答えか、城山匠!」


 よほどおかしかったのか、先輩は腹を抱えて涙まで流していた。


「俺と重なってる部分があるのを認めつつも、思いっ切り否定してきやがった! ここの学校での出来事は、よほどおまえに影響を与えたらしいな!」

「ええ、そりゃあもう」


 音楽観と人生観を変えるほどの出会いだった。

 それをもたらしてくれたこの先輩には、心から感謝しつつも――やはり、失せろと心の底から思う。

 谷田貝の反応の変化により、周囲に渦巻いていた圧迫感もなくなっていた。

 黒い穴が、こちらへの関心をなくしたのが分かった――自分の命をつなぎ止めていたようで、がんじがらめにしていたものは。

 もう、解かれたのだ――真に自由になったのを城山が感じていると、谷田貝が言う。


「あーあ、ヘッドハンティング失敗かあ。せっかくの優秀な助手候補だったのに」

「先輩は言ってることは正しいのに、やってることは正しくないんですよ。どうせ僕をスカウトしても、都合が悪くなったら切り捨てるつもりだったでしょう」

「ああ、そりゃこんだけ手の内バラしてりゃ、見抜かれるか」


 失敗、失敗――と悪びれなく、先輩は舌を出す。

 仕草と雰囲気に誤魔化されがちだが、この人の魂は真っ黒だ。

 どんなにうまい話であろうと、この先ついていくことは、死を意味する――機嫌を損ねないように、常に顔色を窺ってビクビクしながら過ごすことになる。

 自分以外の存在に生殺与奪の権利を握られるとは、そういうことだ。

 生きながら死んでいるのと同義だ。であれば、どんなに怖くても傷ついても、自分の足で歩いていく方がマシだった。正式にオファーを断られ、谷田貝は去る――と思いきや。

 去り際に、彼はくるりと振り返る。


「ああ――そうだ城山。ひとつ忠告しておくよ」

「なんですか?」

「おまえがさっきから大事そうに見てる靴な。生徒たちからもらったんだろ?」


 見てたよ、と楽器置き場での出来事だろう。生徒とのやり取りを目撃していたらしい谷田貝は言う。

 否定をしても意味がないので城山がうなずくと、谷田貝はうっすらと笑いながら言った。


「予言するぜ――おまえはその靴を。せいぜい気をつけることだな」

「……どういうことですか」

「さあな。まあ、おまえの重い愛に生徒たちの方が耐えきれるかって話だ――俺の音についての誰かの評価が当たるって、おまえも知ってるだろ?」


 大事にしすぎて壊さないようにな、と先輩に忠告をされるということは、よほど買われたのだろう。

 この山の民と、それにまつわる指揮者たちの詩を。

 素晴らしかった――と諸手を上げて、今度こそ谷田貝慊人は去っていく。


「じゃあな城山。おまえがこの先どんな道を辿るか――せいぜい遠くから、見ててやるよ」


 それきり先輩は。

 こちらを振り返ることもなく歩いていった。



 ###



 会場の外に出ると、南アルプスの山々が目に入ってくる。


 真夏のむわりとした熱気の中で、一陣の風が吹きつけてきて城山は空を見上げた。夕暮れ時の空には、強く輝く一番星がある。

 山の上のように、煌めく星の川があるわけではないけれども――


「城山先生、遅い遅い! まったくもうどこ行ってたんですか⁉」


 地上には、それに匹敵するほどの輝くものたちがあった。

 山梨鳴沢女子高の面々は、ホールを出たすぐの場所で感激し合っている。


「に……西関東大会⁉ 西関東大会⁉ どうしましょう初めてです⁉ あああバスの手配とか色々やらないと!」

勝沼かつぬま先生落ち着いてください。って、あたしも似たようなものですけど」


 中心では顧問の勝沼綾子かつぬまあやこ甲斐千里かいちさとが騒々しく話し合っていた。

 どうやら部長として閉会式に出ていた千里も、無事合流したらしい。

 それほどの時間が経っていたようだ。鰍沢瑠美かじかざわるみに引っ張られて城山が目にしたのは、そんな光景だった。


「……なに笑ってるんですか、城山先生」

「いや。みんな喜んでるみたいで――よかったな、って思って」


 瑠美の半眼で問いかけられるものの、先ほどまでの張り詰めた空気が急に緩んで笑ってしまった。

 去り際に呪いめいた言葉をかけられたにせよ、こうして彼女たちが喜んでいるのは事実なのだ。

 誰かが笑ってくれているのは、嬉しい――外部講師であろうが人であろうが、ごく普通の感性である。

 それを自分が失っていなくて、安心した。すると部員たちの輪の中にいた、茅ヶ岳舞かやがたけまいが言う。


「ありがとうございます、城山先生。先生のおかげです」

「いやいや。みんなががんばったおかげですよ」


 謙遜でもなんでもなく、今回の金賞は自分一人の力でなく、みなの力で勝ち取ったものだ。

 外部講師を呼ぼうとした顧問がいて、友達を守ろうとした部員がいて、凛として前を向く部長がいた。

 そして、勇気をもって飛び込んできてくれた彼女がいた――自分のやったことは彼女たちの背中を少し押しただけで、あとは本人たちが成し遂げたことなのだとこの光景を見ていると思う。

 ただ、まあ、それでも少しだけ胸を張れるとしたら。


「遠慮しなくていいですよ。先生がいたおかげでみんながんばれたんですから!」


 こうやって自信なさげにしていた子が、笑って言えるようになったことが、何よりの報酬なのだった。

 相容れない存在にかけられた言葉なんて、跳ね返していけるだけの力強さを、舞は身につけていた。あの先輩は答えだなんだと言っていたが、本当に答えがあるとしたら、今のこの光景が答えなのだろう。

 山の麓で、風と共に生きる民たち。

 彼女たちが笑っていることこそが、何よりの生きた証だ。


「……僕は、この子たちは、あなたになんか負けない」


 不吉な予言になど、屈したりはしない――そんな意思を込めて、城山は間近にある山々を見上げる。

 その足には、周囲の想いの結晶ともいうべき靴があった。

 この靴と共に、この先も歩き続けよう。決意を新たにし、城山は部員たちの中心に向かっていく。



 この後、山梨鳴沢女子高吹奏楽部は西関東大会、さらには全国大会まで進むことになる。

 さらには三年連続全国大会、当時のコンクールの規定により代表権がなくなるまで快進撃を続けることになるが――そのことを、まだ誰も知らない。


 ただ、後に伝説の指揮者と呼ばれる城山匠の。

 これが眩い旅路の始まりだった。

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山の詩~とある天才指揮者の銀嶺に至るマーチ 譜楽士 @fugakushi

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