第4話 思い出も涙も流すから


「ツカサの浮気相手、……あなただったんでしょ?」


 アオイの問いかけは柔らかく、教え子を諭す先生のような抱擁感をユキエは感じていた。アオイはユキエのことを心からいたわっている。アオイの全身から漂う慈愛。

 それでも、いたわってはいても、ことの白黒だけははっきりさせる、という確固たる意思に満ちていた。


「警察にも言う気はない。だから、ホントのことを教えてくれない? あなたがいつまでもくよくよしたり、びくびく怯えて暮らしているのを見るに忍びないのよ」


 アオイはじっとユキエを見つめていた。

 ユキエはどうしてアオイにばれたのか、それを不思議に思う気持ちの方がまさっていた。

 アオイにだけは悟られてはいけない。そのことだけはずっと心に留めていた。元はアオイのかたわらで奏でられるピアノの音に魅了され、憧れていただけだったのに。まごうことなき、ただの横恋慕だったのに。それがいつしか気持ちが抑えられなくなって、ある日ステージの後に渡した花束にそっとメッセージを忍ばせた。そして、いつしかアオイのいないところで密会を重ねる仲になってしまった。

 ユキエがツカサと密会するときには、必ず地元を離れて、峠の向こうにある温泉地までレンタカーを借りて行っていた。地元の街中では誰に見られているか分からない。足がつかないように細心の注意を払い、偶然会っても会釈しかしない。連絡もめったに取らない。そんな隠れた爛れた関係、いい加減はっきりさせてほしいと詰め寄った結果の拒絶の言葉。

 結果的にツカサはユキエを振り向かなかった。一度はアオイと別れてユキエと一緒になると言ってくれたのに、いつもよりも固い表情で無言のまま連れて来られたこの峠道で、ツカサはユキエをきっぱりと拒絶した。


「アオイ、あの人は……、ツカサは、アオイの才能に心底惚れていた。たしかにあの人はアオイのこと、楽器と思っていたかもしれない。でもそれは、とても価値のある、高価な、手放したくない大切な楽器だったのよ。むしろ私の方が、あの人にとってはものを言わない人形でしかなかった。私にはそれだけの価値しかなかった……」

 ユキエはうつむく。ただ湧き上がる嗚咽に細い肩が震えていた。


「ユキエ……、ツカサが事故したとき、あなたもあのレンタカーに一緒に乗っていたのね?」


 核心を突いた質問を放つアオイ。ユキエは震えながらうなづいた。


「……私は、ツカサの腕を掴んで離さなかった。もう死ぬしかないと思った。そうしたら、車は道端の木に衝突して、スピンして、気が付くと道の中央に止まっていた。ツカサはハンドルを握ったまま気を失っていたわ……」


――― 車はしばらく県道の急坂のセンターラインを踏んだまま止まっていたが、やがて惰性で坂を下り始める。そのとき、ユキエの中の悪魔がささやいた。

  テニハイラナイナラ、コワシテシマエ……。

  フリムカセラレナイナラ、ケシテシマエ……。

  ツカマエラレナイナラ、コロシテシマエ……。

 ユキエはゆっくりと動き出したレンタカーから、助手席のドアを開けて一人飛び降りた ―――


「……気を失ったあの人を車内に残したまま……。車はそのまま坂を下ってガードレールを突き破って落ちて行った……。私は駅まで歩いて、一人電車で帰った……」


 アオイはユキエの話を静かに聞いていた。そして、少し目を伏せたあと崖から谷を見渡して、言った。


「ツカサは、バカよね。見栄をはって大きな車を借りるから……。普通の乗用車ならガードレールで止まってたでしょうに。そして……」


 さっきまで眼前に垂れこめていた雨雲はもうすっかりいなくなっている。青空が垣間見えて、薄日もさしてきた。


「そして、あなたも、バカね。あのままほっておけば、いずれわたしがツカサと別れ話をしたでしょうに。ホントにわたしはすぐにでも別れるつもりだったし、ツカサがあなたと別れたことを知ってたとしても、やっぱりわたしの決心は変わらなかったはずよ。どうしてもうあとほんの少しだけ、我慢できなかったの?」


 アオイの言葉には棘はない。どうしようもなく愚かだったツカサとユキエ、そしてアオイの三人に対しての諦観が漂っているようだった。


「あの事故の瞬間は少なくともあなたの方が、わたしよりもツカサのことを愛していたよ、間違いなく」

「アオイ……」

「ね、ユキエ、泣いてあげて。ツカサは亡くなったんだから。そして、好きな人が亡くなったら、女の子は泣いてあげるものよ」


 アオイの言葉に、ユキエは顔を手で覆って、こらえきれない様子で泣き始めた。ユキエの頬に、人前では決して見せることができなかった涙のしずくがゆっくりと滴り落ちていく。


 雲の切れ間に見える青空は、さらにその青さを増している。

 もう梅雨は明けた。長かった梅雨の名残は天気雨となってアオイとユキエに降り注いだ。



 ひとしきり泣いたユキエの手を、アオイが握って微笑む。


「さ、行きましょう、ユキエ。ツカサも供養してもらえて喜んでるよ」

「……ごめん。アオイ。私、アオイをずっとだましていた……」

「そんなこと、謝っちゃだめ。基本的にはツカサが悪かったのよ。でもそんな悪い男も、事故で亡くなっちゃったからね」


 そう言ってアオイは、路肩に止めた自分の車にユキエを引っ張っていく。


「ねえ、アオイ。なんでツカサと会っているのが私だってわかったの?」

「ふふふ、先週、手紙が来たのよ。警察から」

「手紙?」

「ふふふ、そう。お手紙。スピード違反の記念写真付きの警察署への招待状。あなたたち事故の直前にスピード違反してたんだね。その写真に、ばっちり映っていたのがあなただったの。あれって、すっごい鮮明に写っているもんなのね。もう表情までばっちり。どう見てもあなたとツカサだったわ」

「え?」


 アオイは運転席のドアを開けて軽快に車に乗り込む。ユキエは仕方なく助手席のドアに手をかけた。


「その写真を見た瞬間にさ、ああ、ツカサの浮気相手はユキエだったんだ、って分かっちゃった。なんかわたし、妙に納得しちゃってさ。あなたならツカサにお似合いかもってね。でも、その写真のツカサの表情でさ、ツカサはあなたをフるつもりなんだ、ってことも分かっちゃったんだよね。あんなふうでもツカサなりにわたしを愛してくれてたんだってね。変なものよね。スピード違反のオービスの写真に勇気づけられてやる気が出た人間って、多分、世の中でもわたしぐらいなものよ」


 爽やかに笑ってアオイはエンジンのスタートボタンを押した。ぶるりと車体が震えてエンジンが回り始める。


 アオイの泣き笑いにつられたように、外は天気雨が続く。

 もう空のほとんどは夏の青色サマーブルーだ。その青色の中を、天気雨の雨粒に照らされた夏の太陽のかけらが、きらきらと輝き舞っている。


 車は、軽やかに峠に向かって坂を上り始めた。


「さ、行きましょ、ユキエ。わたしたちの夏が、これから始まるのよ」



(了)



※注1 レンタカーでオービスに引っかかると、ものすごく時間を空けて、忘れたころになって違反通告が来ます。交通ルールは守りましょう。


※注2 亡くなった人のところに違反通告するような無粋なマネは、普通は警察はしません。あくまで演出上のフィクションです。薮坂さんごめんなさい。


※注3 でもオービスの写真が表情までばっちり写るのはホントです。密会する場合は気をつけましょう。その前に交通ルールは守りましょう。


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空に走る ゆうすけ @Hasahina214

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