第3話 にじいろの雨降り注げば空は高鳴る


 外の雨は、まだ降ってはいるが、もう止みかけだ。


 アオイは高速道路をしばらく走り、二つ目のインターチェンジの緑の看板を見て、左にウィンカーを出した。

 ユキエたちの住む町から二十キロほど。ここまで来ると山が両側に迫ってきていて空が狭い。


「FMの電波、このあたりは届きにくいのよね」

 誰にともなくそういうと、アオイはダイアルを回してソース音源をブルートゥースに切り替えた。古い洋楽のポップスが流れ始める。やっぱりこういう軽快な曲の方がアオイには合っているな、とユキエはぼんやり思った。

 アオイはランプウェイの緩いカーブを減速しながら進み、ETCレーンを抜けた。ここからは山道だ。


「ユキエ、どこに行くか、聞かないの?」

「え? どこって、ツカサさんにお花あげに行くんでしょ?」

「わたし、言ったっけ?」


 アオイは一瞬表情を翳らせたが、すぐに元の表情に戻ってそんなことを口にする。


「なに言ってるのよ。昨日自分でお花あげに行くって言ってたのに」

 アオイにしては随分とぼけてるなあ、と思いながら、ユキエは手に持った花束を握りなおした。


「インターチェンジの周りってどうしてこうラブホばっかりなのかしらね。あ!  ユキエ、見た? 今ラブホから車出てきた! ポルシェじゃない。きっとあれ芸能人だよ!」

「アオイ、そんなこと言ってよそ見してると危ないよ? だいたい芸能人がこんなラブホに入るわけないじゃない。もっといい温泉旅館とか行くんじゃないの? 峠越えたらその手の高級温泉旅館いっぱいあるじゃない」


 アオイはさも興味津々といった感じで、すれ違いざまにふりかえりまでしてインターチェンジに向かうポルシェの運転者とその助手席をガン見している。まったく楽しそうにハンドルを握っている。


「写真撮ったら週刊誌に売れるかな?」

「だから芸能人じゃないって。やめなよ。ヤバい人とかだったらどうするのよ」


 それでなくてもラブホから出るときは入るときよりも神経使うのに、とユキエはちらっと思いながら、あまりの不謹慎なアオイの言動を咎めずにはいられなかった。


 ◇


 インターを出てしばらく走って駐車場の広いお土産物屋を過ぎると、人家がなくなっていよいよ山道にかかる。上り坂になった県道は雲の中へと続いている。一旦上がりかけた雨だったが、山沿いは再び雨模様だ。

 低い雲が道路の先を白く霞ませている。アオイは左手をひねってフォグランプを点灯させた。濡れたアスファルトの無機質なグレーが道路わきの濡れそぼった木々の緑を一層際立たせて、そのコントラストが目に焼き付く。車のギアが三速に落ちて、エンジンの回転数が上がった。

 もうすぐ峠、ここが一番勾配が急な胸突き八丁だ。急な坂の途中のカーブの脇に、アオイはハザードランプを出して車を止めた。

 そして、助手席のユキエに特に断ることもしないで、軽やかに車を降りる。車の後部ハッチを開くと、花束と線香立てと線香を数本を手に持ち、二十メートルほど先のガードレールの側に歩いて行った。ユキエも花束を手にそれに続く。


 アオイはガードレールの新しくなった部分で腰をかがめると、花束を供え、線香にジッポで火を付けて、静かにしゃがんで手を合わせた。ユキエも立ったままではあったが、それに倣った。


 アオイが淡々と他人事のように話を始めたのは、二人が手を合わせてしばらくたってからのことだった。


「……私たちね、ホントはもうだめになっていたの。いつ別れ話が出てもおかしくなかった。実際そんな話になりかけたこと、何回もあったんだ」


 アオイはぽつんとつぶやいた。ユキエは黙って手を合わせたまま、視線だけをアオイに向けた。


「プレーヤーとしてのツカサは尊敬してたし、ホントに素晴らしかったわ。そのタッチも抑揚も。余人をもって代えがたい、って言葉がぴったり。彼の伴奏の方が主、わたしの歌は従。でも、それでもいいとさえわたしは思っていた」


 低い雲はまだ残ってるが、もう雨は降っていない。空には青空のかけらがパッチワークのように散らばって、さっきよりもずっと明るくなっている。

 眼下の遥か下の方には川の流れが見える。ユキエはアオイの傍らに立って二人でがけ下を眺めた。なびく髪を手で押さえているアオイを横目に見る。


「けどね、どうしてもわたしの目指す音楽とは合わなかった。ツカサは……そういうの、一切聞いてくれなかった。ストイックというか、頑固というか。わたしはもともとポップスシンガー、艶と色気で歌うなんて無理。アタックとビートに乗せないと声が生きない。何度もそう言ったんだけどね……」

「でも、……それはツカサさんがアオイの才能を認めていたからなんじゃ……」


 ユキエが口を挟むと、アオイは少し厳しい視線を返した。


「そう。ツカサはわたしの歌は認めてくれていた。だから喉を痛めたりすることにはめっぽう気を使ってくれた。でも……わたしの歌にしか関心がないと思っていた。歌以外には興味がないんだ、と……。わたしは……、わたしは……、ツカサにとって楽器なんだ、と。メンテナンスが必要な楽器でしかないんじゃないか、って。わたしはね……、歌いたかったの。わたしは楽器でもボカロでもない、生身の女として、歌いたかったの」


 気付くとアオイの頬には涙が光っている。雲は切れて、青空がガードレール越しに広がっていた。


「それにね、ツカサは……、わたしに隠れて、浮気、してたんだ」


 はっとしてユキエは少し身構える。しかし、アオイはそんなユキエに目を向けず、ガードレールの向こうの青空を見据えながら言葉を続けた。いつの間にかヒグラシの鳴声が谷間に響いている。


「彼にとってわたしは楽器、女じゃないんだって。あんな事故を起こさなくても、わたしたちの仲は時間の問題だったの」

「アオイも、ツカサ……さんも、そこまで思いつめていたなんて……知らなかった」


 ユキエはそれだけ口にして、また黙った。何か言おうとしたが、言葉が出てこない。


「ツカサが浮気していることが分かったとき、これで私たちはもう完全に終わり、もう、これ以上はやっていけない、そう思った。まだそのときは相手が誰なのか、分かんなかったんだけどね。でも、わたしがはっきり別れ話を口にする前に、ツカサは死んでしまった。……だからわたしは今でもツカサの恋人だったと思われている。こうなってしまったからには、その方が都合がよかったのかもしれないけどね」


 アオイは今度はしっかりとユキエに向き直り、厳かな声で告げた。


「そういう意味でね、わたしはね、ユキエ。あなたに感謝することはあっても、決して恨んだりはしていないの」

「アオイ……」

「ホントに恨んだりしないから」


 ユキエの目は、アオイのまっすぐなどこまでも透明な瞳が放つ視線に貫かれていた。


「ツカサの浮気相手、……あなただったんでしょ?」

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