第2話 転がる石になりきれないまま


 外は雨が降っている。


「こんなの通り雨よ。すぐやむわ。さ、行きましょ」


 運転席に乗り込んでハンドルを握るアオイは、フロントガラスに打ちつける雨を気にすることもなく、よどみのない所作でエンジンをスタートさせた。アスファルトの蒸れたにおいは、車内で吹き出すエアコンの風に吹き飛ばされていった。


 雨はさかんに振っている。しかし、空は数日前までとは違って随分と明るく、雨雲が少し薄くなっているところもある。アオイの言うとおり、今日はもうこれ以上の本降りにはならないだろう。


 ユキエは複雑な感情を込めたため息を一つついて、アオイへの返事の代わりにした。そんなユキエの仕草に対して、アオイが気に留めた様子はない。そもそもユキエが断るはずがない、とアオイは確信しているようなそぶりだ。ユキエはいくぶん重い心もちになりながら、助手席で花束を握った。


 街のアスファルトには梅雨じまいの雨が降り注ぎ、重い黒色の水たまりとなってあちこちに散らばっている。アオイは軽快なハンドルで街を走り出した。

 車は街を抜け、インターチェンジへ続く道に向かっていた。アオイがその細いしなやかな指でハンドルのダイアルを回すと、FM放送局の一覧がナビに表示された。慣れた手つきでその中から一局を無造作に選び、車内に響きだしたディスクジョッキーの落ち着いた女声を、ユキエは聞くともなしに聞いていた。


―――関東地方の梅雨空も今日まで。早いところでは、今日の夕方ごろから梅雨明けの夏空が見られそうです。今年は長梅雨でしたねえ。うーん、夏空、待ち遠しいです。それでは一曲。古い洋楽ですね。今の季節にぴったりかな?『晴れた日に永遠が見える ~ On a clear day, you can see foreaver』、聞いてください―――


 車内に涼やかなグロッケンの音に乗せたサックスのメロディが、ゆったりと流れた。


「もうすっかり忘れちゃってたなあ。カーナビの使い方も」


 アオイは前方に視線を向けたままつぶやく。ドライブ好きでその上運転したがり、だけど極端な方向音痴、というとてもハタ迷惑な性質タチのアオイ。そんな彼女がナビなしで走れるのは通い慣れた道だけだ。ユキエはいつもアオイのナビ代わりに助手席に座っていた。それはアオイとユキエが知り合った大学生のころから一向に変わっていないポジションだったし、アオイにカレシができて結婚を前提に同棲を始めてからも、そのポジションは変わらなかった。


 ユキエは、黙って流れるサックスの音色に耳を傾ける。渋いジャズの音色は、アオイには少し似合わない。アオイにはポップスの方がサマになっている。実際にアオイは、学生バンドでポップスを歌っていた。ところが、就職してからジャズバンドに誘われて加入したアオイは、今ではジャズシンガーとして地元では知る人ぞ知るセミプロという存在になっていた。

 そして、アオイのバックでピアノを弾いているかっちりした印象の男性、それがツカサだった。


 ツカサが事故で亡くなってから、しばらくはさすがのアオイもふさぎこんでいた。ステージ活動も今は休止中だ。でも、この様子だともう大丈夫なのかな、とユキエは思った。アオイが運転する様子を横目に、助手席のシートから雨の打ち付けるフロントガラスをぼーっと眺める。

 梅雨空も、よく見るとところどころ雨雲に切れ目があって、まだらに明るくなっている。もう夏は近い。


 少し身構えていたユキエだったが、今のところアオイは以前のような軽いノリだった。

 鼻歌まじりでハンドルを握るアオイに気付かれないように、ユキエはまた一つ小さなため息をついた。


 ◇


 ユキエのスマホが、アオイからの通話の着信を知らせたのは、昨日の晩のことだった。


 ユキエ自身もこのところ気分が沈みがちな毎日を送っていた。仕事もろくに手につかない。その日も些細なミスで遅くなってしまい、一人暮らしの自分のアパートに帰りついたのは夜の八時すぎだった。手早く夕食を一人で食べ終えて、お風呂にでも入ろうかというときに震えたスマホ。その画面がアオイからの発信であることが表示されているのをみて、ユキエは一瞬緊張した。


 アオイとユキエは学生のころからの気の置けない大の友人だったが、ここしばらくは会ってはいない。三か月ほど前のツカサの葬式の日以来だ。アオイの恋人、ピアニストのツカサは不慮の事故で帰らぬ人となったのだった。

「部屋がさ、なんか一気に広くなっちゃったみたいなんだよね」

 きっちりと喪服を着たアオイが乾いた表情でそう言っていたのを、ユキエは思い出す。アオイは精一杯強がっているのは明白だ。自由奔放に生きているアオイも、音楽でも私生活でも重要なパートナーだった恋人の突然の死に意気消沈するのは仕方のないことだ、ユキエはそう思った。ユキエは、いっそなにもかもぶちまけてしまいそうになるのをぐっとこらえながら、黙って頭を下げるにとどめたのだった。


 ダイニングテーブルの天板を響かせながら、スマホは駄々っ子のように存在を主張し続けている。ユキエはそれをただじっと見つめていた。


 その後しばらく、さしものアオイも元気がないと風の噂で聞いた。同棲までしていた恋人が突然亡くなって、平静を保てという方が無理な話だよね、と周囲の友人たちは言っている。

 ユキエ自身もなかなかアオイに連絡する決心がつかなかった。もう少しアオイが落ち着かないと連絡できない、と言い訳していた。タイミングを図っていたと言っては聞こえがいいが、ただユキエは先送りしていた。


 そんなユキエのところにかかってきたアオイからの電話。ユキエはうしろめたさを感じつつ、自分から連絡しないでよくなってほっとしていた。そしてなかなか決断できなかった自分を、心底情けないと思っていた。


 あまりに多様な感情が混ざった自分自身にユキエは苦笑しながら、ついに意を決してスマホの画面をフリックすると、おそるおそる耳にあてた。


「もしもし?」

「あ、ユキエ? 明日、ひま?」


 以前とまったく変わらない飄々としたアオイの声がスマホから聞こえたきた。世間の雑事にまるで一切感化されていない、すっきりしたその声色の背後には、ユーロダンスナンバーが軽快なビートを刻んでいる。


(ああ、アオイはもう立ち直ったのね)


 ユキエはそう直感して努めて明るく問い返す。


「アオイ! 元気だった? 大丈夫だったの?」

「え? なにが?」

「なにがって、あんたさあ……」


 電話越しのアオイの声は、本当に落ち着いている。まるでいくら考えても分からない数学の問題がちょっとしたひらめきでするすると解けたかのように晴れやかだ。

 ユキエはアオイの変わり身に少々驚きながらも、アオイが前を向けたことを我がことのように喜び、心の中の凝り固まったある部分が幾分やわらいだのを感じ取っていた。


(しかし、ちょっとノリが軽すぎる気がするけど、どうなのかしら)


 ユキエは半ば呆れながら言葉をつないだ。いろいろ気にしていた自分が愚かしく思えてしまう。


「ツカサさんのことに決まってるじゃない、アオイ。ホントにもう大丈夫なの?」

「ふふ、ありがと、ユキエ。でも、くよくよしてたってツカサが戻ってくるってわけじゃないしね。それで、明日ひまだったらちょっと付き合ってくれないかな?」

「んー、別にいいけど。どこへ?」

「ツカサのとこにさ、お花あげに行きたいんだ」


 ユキエは一瞬。喉になにかが詰まったような感覚に捉われた。しかし、すんでのところで平静を装う。


「……いいよ」

「ふふふ、じゃあ、明日二時に迎えに行くね! じゃあ!」


 アオイの弾むような声とともに通話は切られた。



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