荒野を去る時~アフガン1988~

葛城マサカズ

荒野のアフガン

 1988年12月のアフガニスタン

 9年前からソ連軍はアフガニスタンへ軍事介入しムジャヒディンと呼ばれるアフガンの武装勢力との長い戦いを続けていた。

 だが、衰えないムジャヒディンとの戦いはソ連にとって手詰まりとなり勝利の展望が無くなっていた。

 ゴルバチョフによるソ連の新しい政権はアフガンからのソ連軍撤退を決定した。

 しかし、現地の将兵にとっての苦悩はまだ終わらない。



 ボリース・レスキン中尉はこの日も駐屯地で部隊の撤収に向けた準備を進めていた。

 所属する自動車化狙撃兵連隊は年内の撤収を命じられ車輌はいつでも動けるように補給と整備が行われ、機密書類を炎にくべて焼却し、弾薬類で運び切れない分を爆破する用意を兵士達は行っている。

 「レーシャじゃないか」

 慌ただしく作業する将兵の中から落ち着いた声でレスキンは愛称で呼ばれた。

 「まさかダヴィードニカか?」

 そこに居たのは口の周りから顎まで鬚を伸ばした男が立っていた。軍服では無く青いジーパンにシャツを着込んでいる。

 「久しぶりだな。まるでムジャヒディンみたいな格好じゃないか」

 レスキンは愛称で自分を呼ぶその男を懐かしがる。同じサラトフを故郷とする幼馴染だった。

 「情報部だからな。こうして連中と同じ格好をしているのさ」

 ダヴィードニカもといダヴィード・マロフ中尉はKGBの諜報員であった。

 「あまり何をしているか聞かない方が良さそうだな」

 レスキンは慎重に言葉を選ぶ。同じ故郷で遊んだ幼馴染とはいえ相手はKGBである。

 「そうだな。だが一つだけ良い事を教えてやろう」

 マロフは笑みを浮かべる。

 「撤収で国に帰れる以上のか?」

 アフガンに送られた兵士にとっての良い報せはアフガンから去り帰還する事である。

 「その帰る時に無事に帰れるぞ」

 「どういう事だ?」

 「それ以上は言えない。俺の仕事が上手く行けばこの連隊は全員無事に帰れる」

 「そうなのか。それならありがたい。上手くやってくれよ」

 ソ連軍の全面撤退が決まってもムジャヒディンは機会があれば攻撃をして来る。撤収する道中で攻撃を受けるだろうと誰もが思っていた。

 戦いながら撤収する事になる。そうなれば誰かが死ぬか負傷する。撤収準備の段階でも将兵達はどこか不安な気持ちを抱いていた。

 だがマロフの仕事が上手く行けば連隊の皆が無事に帰れる。それは良い報せだった。



 そのマロフの仕事はマハティール・ナジャールと言う男と接触する事だった。

 ソ連軍との戦いを続けて来たムジャヒディンの一団を率いるナジャールを説得して撤収するソ連軍を攻撃させないように約束させる。それがマロフの任務だった。

 この二ヶ月間、マロフはナジャールと接触し続けていた。

 「撤収は3日後に決まった。3日後にはこの地域から我が軍は全て引き上げる」

 マロフはナジャールの支配下にある集落で撤退についてナジャールに告げる。

 「それは本当か?」

 ナジャールは疑心を隠さずマロフを見つめる。

 「本当だ。もうこの地に居る理由は無い」

 マロフはナジャールの食い入るような目で見つめられながらも平静を保つ。

 「お前との約束通りに攻撃はしない。見送ってやる」

 ナジャールはマロフの様子を見つめた末にそう言った。マロフは「ありがたい」と感謝を述べる。

 「死んだ父の名にかけて約束を守る。お前も約束を守れよ」

 ナジャールはマロフに釘を刺す。

 「もちろんだ」

 こうしてマロフは撤収部隊の安全を確保する約束を取り付けた。

 「信用できますか?」

 ナジャールの縄張りから離れるとマロフの部下であるスマーギン軍曹が疑問を投げかけた。

 「正直信用できるか怪しい。だからラスリの所へも行くぞ」

 マロフの言うラスリとは別のムジャヒディンの一団を率いる男の名前だ。マロフはナジャール以外にも複数のムジャヒディンのリーダーと接触していた。

 それは誰が説得に応じるか分からないからである。

 そうした説得工作に応じたのがナジャールであったが、不安があった。

 だから説得工作に聞く耳を持つラスリの所へも話にマロフは行くのであった。


 3日後、レスキンは装甲車のBTR-70に乗り移動していた。

 車内にはレスキンの部下である狙撃兵中隊の兵達が乗っている。だが、その兵達の顔は険しい。

 「貴官の中隊は後衛部隊として撤退を掩護せよ」

 連隊長直々にレスキンは殿部隊を命じられてしまった。

 何か連隊長か大隊長から恨まれる事をしただろうかと思いながらも殿部隊をレスキンは務める。

 連隊長をはじめとした連隊主力の車列は先を進む。それを恨めし気にレスキンの部下達は見つめる。誰もが自分達は貧乏クジを引いたと思っていたからだ。

 そのせいかレスキンは自分の運の無さに部下を巻き込んだような気がしてならない。

 (ダヴィードニカは上手くやったか?)

 そんな貧乏クジや不運があっても希望はムジャヒディンの攻撃を止める為に動いているであろうマロフだった。

 再開して以降は会っていない。何処かで活動しているのだろう。

 「同志中尉、もうすぐバフラ峠です」

 装甲車の運転手が告げる。

 バフラ峠はムジャヒディンからの待ち伏せ攻撃を何度も受けた場所だ、一番警戒せねばならない地点である。

 「警戒を厳にしろ。特に上を見張れ」

 レスキンは兵達に指示を出す。峠道を見下ろす崖や山肌からムジャヒディンが攻撃するのが常だったからだ。

 「10時方向に人影が多数!」

 見張る兵士が報告する。峠を見下ろせる崖の上に10人ほどが立つ人影が見えた。

 他にも何人か散らばる様に峠の山腹に居るのが見える。

 「連隊長より全員へ告ぐ!撃つな!命令するまで撃つな!」

 連隊長が無線で制止する。マロフの工作については連隊長は知っているからだ。

レスキンは中隊の全員に「撃つな」と伝える。

 (ダヴィードニカ頼むぞ…)

 崖の上の何者かがこちらを攻撃しないようにするのはマロフの役目だ。

 それが成功している事をレスキンは祈るだけだった。


 そのマロフはバフラ峠の山の斜面にある岩陰に陣取っていた。

 双眼鏡で峠道を撤収するソ連軍の車列と峠道を見下ろす崖の上に立つナジャール達をマロフは見つめていた。

 (そうだ、黙って見送れよ)

 マロフは心の中でナジャールへ言い聞かせる。

 何度も対面したマロフであるがナジャールが何を考えているか理解できていない。

 攻撃しない約束をさせたとは言えナジャールの態度はマロフに不穏さを感じさせた。

 だからマロフはナジャールを遠くから見張る。

 もしも約束を破るようであればマロフの傍でドラグノフ狙撃銃を構えるスマーギンにナジャールの射殺を命じるつもりだ。

 「ナジャールが右手を上げました」

 スマーギンが狙撃銃のスコープで見たナジャールの動きを報告する。

 「確認した」

 双眼鏡でマロフは確認した。ナジャールは高々と右手を垂直に上げている。どう見ても何かの合図だ。

 「軍曹、準備しろ」

 マロフはスマーギンに命じる。スマーギンは狙撃銃の引き金に指を這わせる。

 背後から狙われているマジャールは右手を上げたままソ連軍の車列を見下ろしている。

 (ロシア人め…まだ俺を信じているのか?)

 マロフと攻撃しない約束をしていたがマジャールにその気は無かった。

 マジャールの父親であるラシッド・ナジャールはムジャヒディン達を率いてソ連軍と戦っていた。そのラシッド・ナジャールはソ連軍によって殺された。

 戦闘によってではなく、拠点にしていた集落でラシッドが休んでいる所をソ連軍が爆撃によって集落ごと吹き飛ばしたのだ。

 マハティール・ナジャールは父親からムジャヒディンの一団を引き継ぐと復讐の機会を狙っていた。ただソ連軍と戦い倒すのでは復讐を果たしたとは言えない。

 ソ連軍に大きな打撃を与える時を待っていた。

 それがこの時だった。約束を破ると言う行為だが、ソ連軍との約束は守るつもりは無いナジャールにとってはなんとも思わない。

 約束を結ぶのも敵を騙す手段と考えていた。

 「我が父ラシッド・ナジャールの無念を晴らす!撃て!」

 ナジャールは上げていた右手を振り下ろした。

 その途端にナジャールのムジャヒディン達がAK47やPKM機関銃を撃ち、RPG-7が放たれる。

 「くそ!こっちもか!」

 マロフとスマーギンはナジャール達からの銃撃を受けた。岩陰に隠れていても見つかっていたのだ。

 「軍曹!くそ、くそ!」

 マロフは銃撃で頭を撃ち抜かれたスマーギンが息絶えたのを確認すると悪態をつきながら峠の斜面を滑る様に下り銃撃から逃げる。

 早く逃げる為に手にしていたAK-47は捨てたが、肩掛けの雑嚢だけは落とさないように気にしながら斜面を下る。


 「撃ったぞ!」

 ナジャール達が撃ち始めると峠道のソ連軍将兵は浮足立つ。

 「連隊長から全員へ!撃て!撃て!」

 RPG-7を真上から受けた装甲車やトラックが炎上し出した時に連隊長は反撃を命じた。

 だが、頭上から撃たれて連隊主力は混乱状態に陥っていた。誰もがまずは身を隠す場所を求めて逃げ回っている。

 「停車!降車し、この場で敵を撃て!」

 レスキンは最後尾の部隊だったおかげで攻撃を受けていない。

 だから車列を止めて装甲車は銃塔から射撃をさせ、歩兵を降ろして銃撃させる。

 「連隊主力を助けに行きたいが、無理だな・・・」

 銃撃の下で燃える車輌の間を友軍の将兵が逃げ惑う。助けたい心境はあるが敵が攻撃している中に無暗に突入するだけで犠牲者を新たに増やすだけだとレスキンには思えた。

 (1個小隊を登らせて敵へ反撃させるべきか・・・いや敵戦力が不明だ。険しい地形で半端な戦力を出したら返り討ちにされかねない)

 レスキンの指揮下には3つの歩兵小隊がある。

 1個小隊が30人ぐらいだ。多く思えるが、不利な下から上へ登る作戦をするのだから兵士の数で押す作戦は無理がある。

 ましてや敵の数と位置も十分に把握できていない。だから30人を下手に動かす訳にはいかない。

 「くそ、航空支援でも無いと抜け出せんぞ」

 レスキンは自力でこの苦境を脱する事はできないと思て来た。

 そんな時に1人の男がレスキンの中隊へ現れた。

 「誰だ!お前は!」

 「落ち着け、KGBのダヴィード・マロフ中尉だ。指揮官は何処だ?」

 砂埃を全身に浴びて現れたマロフは気が立つ兵士を宥めながら尋ねる。

 「あそこの装甲車に中隊長のレスキン中尉が居ます」と答えを貰うとマロフはレスキンの乗るBTR-70に向かう。

 「おい、話が違うじゃないか!」

 レスキンはマロフの顔を見るなり怒鳴る。

 「俺も騙されたんだ。奴らに撃たれながらここまで来れた」

 マロフは少しすまなそうにレスキンへ言う。

 「くそ、手詰まりか」

 レスキンは最悪の状況だと思い知らされる。

 「そうでもない。試してみたい方法がある」

 マロフの提案にレスキンは「何だそれは?」と問う。

 「援軍を呼ぶのさ」

 マロフは肩掛けの雑嚢から拳銃のような物を取り出した。信号拳銃だ。

 信号拳銃は照明弾や発煙弾などを打ち出す為に使う道具だ。

マロフはBTR-70の天井のハッチを開けると上半身を出して信号拳銃を空へ向ける。

マロフは信号拳銃を3回放った。その3回共が照明弾であった。

快晴の空に照明弾の明かりが3つ灯る。

「何が来るんだ?」

「まあ、待て」

照明弾が上がってもムジャヒディンの銃撃は止まない。

変化がすぐに起きずレスキンは焦れる。

「様子がおかしいな」

しばらくして変化にレスキンは気づいた。

ソ連軍に対するムジャヒディンの銃撃が弱まっている。銃声は衰えていないがソ連軍へ向けられた銃火は減りつつあるのだ。

「どうやら援軍は来たな」

マロフは安堵した顔になる。

「とにかく今の内に連隊主力を収容する」

レスキンは部下に連隊主力の負傷者を助けるように命じた。

損害が大きい連隊は放棄した駐屯地に戻り負傷者の手当てに再編成と車輌の修理を行う事にした。

そして2日後に再度撤収をする事となった。


そして2日後、連隊はロシアへ引き上げるべく再度出発する。

「あの弾薬は燃やすなよ」

出発する直前、レスキンは積み上げられた運べない弾薬の前で念入りに注意するマロフを見かけた。

「弾薬を大事そうにどうした?」

レスキンはマロフが何をしているのかと思い尋ねる。

「これは贈り物なんだ。燃やしてはいかんのだ」

「贈り物?誰に?」

「この前の援軍だよ」

マロフの答えがレスキンにはイマイチ分からない。

「あの援軍は俺達を攻撃したのとは別のムジャヒディン達なんだよ。味方になる見返りにここの弾薬や武器を渡すと約束した。だから燃やしてはダメなんだ」

マロフはナジャールが信用できないと判断し、ラスリと言う男が率いるムジャヒディンの一団とも接触していた。

ラスリはソ連軍の撤収時に攻撃しないようにして欲しいと言うマロフの求めを聞いたが協力するとは言わなかった。

だが、ナジャールを攻撃して欲しいと言うとラスリはマロフに協力すると言った。

アフガニスタンからソ連軍を追い出す為に手を組んでいたムジャヒディンのリーダー達はソ連軍が去った後の時代を考えていた。

アフガニスタンには人民民主党の政府があったが、これを倒してアフガンの覇権を手にしようと考えていたのだ。

だからこそライバルは少しでも倒したい。

ラスリはナジャールを倒す機会が出来た事とソ連軍が遺棄する大量の弾薬をナジャールを攻撃する報酬で得られる事からマロフの求めに応じたのだ。

「今度はアフガン人同士で戦争か」

マロフから真相を聞いてレスキンはぼやく。

自分達が去る事でアフガン人も戦争が終わるかとレスキンは思っていたからだ。

「誰が勝つにしても関係は無いさ。このアフガンに俺達が戻る事は無いからな」

マロフは割り切っている。

「戻る事は無いか。俺達はこんな所に何しに来たんだろうな」

レスキンは感傷的だ。

「さあな。忘れたよ」

マロフがこう言うと静かな間が生じる。

どちらもが煙草を吸おうかと思ったが弾薬の山を前にしている事で思い直す。

「同志中尉、出発の時間です」

レスキンの部下が呼ぶ。

「さて、今度こそ帰るか」

レスキンは自分が乗る装甲車へ向かい歩き出す。

「俺はまだ任務がある。帰るのはまだ先だ」

マロフはアフガンでの任務が続ているのだ。

「そうか。今度は任務じゃない時に会おうぜ。一杯やろうダヴィードニカ」

「そうだなレーシャ、こんな所じゃなくてサラトフでな」

レスキンは部隊と共に去りロシアへ帰還した。マロフはアフガンの荒野へ工作の任務に戻った。

あれから何十年

アフガニスタンは現在も闘争が続く戦場である。

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