泙川


 スタブロ。俺は呟き、視界の先に滲むアスファルトを睨みつけた。八月の盛りということもあり、馬鹿みたいに暑い。押し上げられるような胸の高鳴りを抑えると、目の前には、蒼い空が広がっていた。息を飲むほど、眩しい。その蒼さを全身に受けながら、バトンを握り締める。


「行くぞ」


 口紐は結んだ。これからスパイクの爪を突き立てる物の名を再び反芻してから、ナップザックを担ぐ。


 集合の合図だ。





 隣はかなり燃えている。伝わってくる暑苦しい熱気に顔を顰め、それに追い打ちをかけるように、肌を刺す直射日光に目を細めた。横目に映るタータンは、観客の熱気も相俟って歪んでいる。熱気、熱気、熱気。


「……あっちい」


 思わず口をついたその言葉を拾ったのはすっかり熱くなったあいつだ。中学生らしい短く切り揃えた黒い髪に汗の粒が目立つポンコツ野郎である、自称スタートのエキスパート。


「あっちいなんて言ってんじゃねえよ!俺らは部を背負ってるんだぜ!」


 召集所には人が集っていた。


「うるさい、一度だけ落ち着け」


 間合いを見て鳩尾に拳をめり込ませた。ひりついた空気の中、茶目っ気なのか余程痛かったのかは定かではないが、大袈裟な呻き声を上げる彼に他の二人が爆笑した。緊張する場である筈なのに、一瞬でその糸が解れる。


「まず二走の選手からスタート地点へ」


 役員の声がした。俺は、周りの声援に鳥肌を立てて立ち上がる。直射日光が肌を焦がす中、それを吹き飛ばすかのような大声が聞こえた。


「優勝な!」


「頑張ろう」


「一位で帰ってこいよ」


 みんなが、横で、後ろで、前で、応援してくれる。その気持ちを軽い気持ちで踏みちぎってはいけないんだ。


 肺をフルスロットルにして、深呼吸をした。気持ち悪い温度が肺に纒わり付く。でも、苦しくはない。無理に口角を持ち上げる。


「おう。任しとけ」


 フィールドに、足を伸ばす。







 召集所とは違う独特の緊張感と汗がユニフォームにべっとりと張り付く。競技場は活気に満ち溢れていた。フィールドに跳ね返ったそれは容赦なく選手たちに襲いかかってくる。鋭くて、痛くて、


「熱い」


 あっちいなんて言うんじゃねえよ。脳に刻み込まれた罵声が俺の頭を殴った。そうだ。熱くない、暑くない。


「五レーン、4028」


 ぐいとTシャツを持ち上げると冷たい風が吹いてきて、肌を涼しくさせた。ふと我に帰る。周りの選手は皆強そうだ。いつもの癖で怯みそうになる。俺はやはり無理なのだと、何も始まってはいないのに諦めてしまいそうになる。目を瞑った。


「だけど」


 だけど、頑張る。膝と膝の間に顔を埋める瞬間、尻が浮き上がる感覚を覚えた。頭の奥から色々な言葉が押し上がってくる。勝て、本気で走れ……。いや、一番は。


「繋げ」


 顔を、上げる。







 たまに、夢を見る。俺がフィニッシュラインを駆け抜けて一斉に観客が湧き上がる。そして一番に、三人と抱擁を交わす、幸せな夢だ。


 その幸せが今、叶おうとしていた。青い空に浮かぶ競技場は、俺たちを包み込むように騒がしい。胸が圧迫される苦しさが、ストレッチをする度に感じられた。穴という穴は全て引き締まっていて、リラックスしようと腕を垂らす。それでも、心臓の鼓動は治まってくれない。


「おい」


 いつの間にか瞼を閉じていたようだ。ゆっくりと目を開ける。眩しいトラックの光とともに、中学生にしては筋肉隆々な男の姿が見えた。よーく知っている奴だ。敵対心が狩り立たれる。


「なに、緊張したんだよ」


「緊張してねえよ」


 咄嗟に言い放ち男を睨む。すると、男は、口の端で気味悪く微笑んだ。此奴を見る度に、勝ちたいと思う。欲望が、緊張を揉み消していく。


「勝つから」


 俺は、拳を突きつけた。


「俺たちに勝てるわけねえだろ」


 男も、小麦色の拳を突き出した。心臓の鼓動は、緊張から興奮に変わり、俺の背中を押してくれていた。


「男子リレー決勝、レーンに入ってください」


 トラックに、足を伸ばす――




――。




「On your mark」





 スタブロに足をかけた。スパイクのピンが、熱を持って突き刺さる。





 深呼吸をする。熱さは、喉の奥に押し込んだ。一瞬の静寂が立ちこめている競技場で、緊張感が爆発する時を待つ。





 肌が溜まった熱で火照るが、自然と汗は気持ち良かった。もう、繋ぐしかないんだ。




「set」





 目をもう一度瞑った。瞼を開けると、スパイクが、はち切れんばかりに熱を持っていた。絶対に、勝つ。














ピストルが、爆ぜた。

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泙川 @Hirakawa

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