012「十五年前に一回ライブを見ただけのアタシに」


「ニシキ? 顔色悪いよ、大丈夫?」

「だ、大丈夫ですよ、クリストファーさん」


 脳裏にくらむ演算子を制し、ニシキはかろうじて苦笑を浮かべる。

(困ったことになった)

 アンデリカは完全に過去のニシキのことを、人間の男性アイドルと勘違いしている。


 十五年ほど前、ニシキはこのシェルターでライブを開催したことがあった。

 しかしその頃はまだ今カバーしているボカノ曲を発掘できていなかったので、そこらへんで発見したJpopを歌っていたのだ。

 故に観客の多くには「不気味の谷」と称されて不評だった。アンデリカがあのときのニシキを人間だと思い込んでいるのは、〈虚構体〉と人間の区別もつかないほどアンデリカが幼かったからだろう。


「ニシキ、シッカリ」

 トーキーを肩に停まらせて、ニシキは演算する思考回路を整理した。

 「天使」の正体が自分だと、アンデリカに明かしてしまうことは簡単だ。そうすれば彼女はニシキに協力してくれるだろうし、今後のライブでもニシキに〈票〉を入れてくれるだろう。

(けれど……)


 アンデリカはきっと、あのときに出会った「彼」が好きなのだ。ニシキが少女型の〈虚構体〉で、もうかつてのように人間の歌は歌わないという真実を知ったら、少なからず落胆するに違いない。

 ――人間には、虚構が必要。

 コウのそんな言葉を思い出す。

 ならば、ニシキの取るべき立場は決まっていた。


「アンデさん。ボク、そのアイドルのこと知っているかもしれません」

「えっ……。ハァ!?」

「詳しくはお話できないんですけど、頑張れば、のサインぐらいは貰うことができると思います。会わせてあげられるかは、分かりませんが……」

「そんなものいらない」

 烈火のごとく打ち付けられた声に、ニシキははっと息を呑む。アンデリカの瞳は黒曜石の光沢を伴って、今にも泣きそうな顔でニシキのことを見上げていた。

「だっ……だって彼は、どんなに調べても情報が出てこなかったのよ……? 今更アタシに……十五年前に一回ライブを見ただけのアタシに……どんなファンサも、言葉も、感情も、与えられるはずなんてないのよ」


「そんなことないです!」 

 

ニシキは迷いなく言い放つ。

「彼は絶対に、アンデさんにも感謝しています。まだまだ下手っぴな歌だったのに、応援してくれてありがとうって……今でも必ず思っています」

 クリストファーもこくりと頷く。アンデリカの黒い瞳が、ゆっくりと見開かれていく。

 しかし彼女は口をつぐむと、そのまま椅子を回転させてニシキに背をむけてしまった。アンデリカはジャケットの裾をぎゅっとつかんで、膝に顔をうずめた。

(やっぱり、ボクなんかの言葉じゃ駄目なのかな)

 そう諦めかけたときだった。


「……ファンレター」

 ぽつりと、擦れた声でアンデリカは言う。

「あの人にファンレターを届けてくれるなら、アンタに〈虚構体〉の歌い方を教えてあげる」

「えっ……」 

 ニシキとクリストファーは目を輝かせて、お互いの顔を見合わせる。

 膝を抱えたまま少し顔を上げたアンデリカは、妙にくやしそうな顔で唇の端を噛んでいた。


「あっ、ありがとうございます……! お願いします‼」


 水色の髪を揺らして身を乗り出すニシキ。

 かくして永遠の少女の歌声は、はじめて成長することとなる。


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