009「人間には、虚構が必要だってこと」
「いま、世界は氷河期なんですか。砂漠なんですか。どうしてボクとあなたでは、こんなにも見えているモノが違うんですか」
虹彩の細やかな瞳がじっとニシキを見つめている。コウは僅かに視線を落とし例のごとくほのかな笑みを浮かべた。
「どちらも嘘。……あるいは、どちらも本当と言うべきだろうね」
子どもをあしらうような柔和さに、ニシキはむっと眉を寄せる。
「どうしてはぐらかすんですか」
「はぐらかしてなんかいない。そもそも真相なんて重要じゃないんだ。むしろ、真相はどこにもなくて、アタシたち自身が人々を洗脳しているようなものなんだよ」
「ボクたちが、洗脳?」
「そう。アタシたちは〈虚構体〉で、美しい虚構を人間に見せてあげることを生まれながらの役割としている。だからこそ人々がどのような反応を示すのかは、アタシ達のパフォーマンス次第なんだ」
「……意味が分からない」
「それなら、一つ例え話をしよう」
コウはカチャリとスプーンを置く。
そうして、昔話でも諳んじるような口調で言った。
「『もし別の上層自由人の骨を折ったなら、その者の骨も折られるものとする』
『もし上層自由人の奴隷の目を潰したり、骨を折ったりしたら、奴隷の価値の半分の銀を量り、与えるものとする』」
「なんです? それ」
「バビロニアのハンムラビ法典だよ。紀元前一七七六年に世界最大の帝国だった文明だ」
「……最低な法律ですね」
上層自由人と奴隷の怪我では、明らかに処罰の重さが異なる。現在ではありえない人権の無視だ。ニシキからしてみれば、古代の人類がよっぽど愚かで良心に欠けていたとしか思えない。
「こんなめちゃくちゃな法……。人間にとっては、忘れたいはずの歴史でしょう」
「それはどうかな。この法典ではこういった判決を列挙したあと、ハンムラビ王がこう宣言しているんだよ。
『我はハンムラビ、後期な王なり。エンリル神によって我に委ねられ、マルドゥク神によって導くように任された人民に対し、|我は軽率であったことも怠慢であったこともかつてない《、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、》』
」
ニシキは言葉を失った。
コウはこともなげな声で続ける。
「人権無視だろうと何だろうと、ハンムラビは大真面目だったってことだよ。同じく神の名のもとに定められている言葉が、この法典の三五〇〇年後に生まれている。
『我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を創造主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる』」
「アメリカ独立宣言、ですね」
「そう。二つの文書は、明らかに矛盾している。けれど同じように神の名のもとに正当性を得た法で、人々はその正しさに隷従したんだ」
「人々が人権という見えない権利の存在を信じたように、バビロニアの人々も、奴隷と自由人の格差を信じていた……」
「そういうこと。『望んだ秩序』が保たれるなら、どんな言葉だって良かったんだ。子どもがすやすや眠ってくれるためなら、どんな絵本でも良いように」
「つまり何が言いたいんですか」
「人間には、虚構が必要だってこと」
コウはうすら暗く微笑んだ。
「差別も虚構だし、人権も虚構。むしろ虚構がなかったなら、どんな文明も生まれなかった。人類は虚構によって協力しあって、互いに生かされ続けていた。そして
「……」
ニシキは目の前の〈虚構体〉を見つめる。
最も愛された虚構は、かつて法律だったり、宗教だったり――さまざまな言語で人間を魅了してきたのだろう。
ニシキの歌も、そんな言語になりたかった。人々に白銀の世界の美しさを伝えて、少しでも世界を愛してもらいたい。
虚構というその意味では、神もアイドルもよく似ているのだ。
「結局あなたにも、世界が砂漠なのか氷河期なのか、本当のことは分からないんですね」
コウの目には、世界は砂漠に映っている。
ニシキの目には、凍てつく氷河期に映っている。
どちらの認識もあてにならない。
「だから、人間のみなさんの証言から『本当の季節』を知るしかない。けれどあなたの言うことが正しければ、人間のみなさんは
「……うん。やっと気づいてくれた」
コウの口元が、ゆっくりと弧を描いてゆく。
「アタシという虚構を気に入った人間は、世界は砂漠だと答えるだろうし、君という虚構のほうが好みだった人間は、今は氷河期だと言うはずだよ。だってそう答えないと、自分の気に入った虚構を壊してしまうことになるからね」
「だからお客さんにとって重要なのは、ボクとあなたの、どっちがより魅力的なのか――」
「……その通り」
「じゃあ、本当の季節は、知りようがないんですか?」
「そうとは限らない。もし君がアタシの人気を押しのけて、完全に観客たちを染め上げたら、世界はもう君のものだと言っても過言ではないじゃないか」
コウの不敵な物言いに、ニシキもつられて笑みを零した。
「それじゃまるで、洗脳ですね」
「うん。けれどアイドルを名乗るなら、世界を洗脳ぐらいしなくっちゃ」
そうだ。コウの主張する「砂漠の世界」が受け入れがたいなら、すべての人々をニシキの虚構に染め上げるしかない。
「いい目になったね。つまりアタシたちは戦うしかない。歌とパフォーマンスで、どちらがより魅力的な虚構なのか、人々に問うことしかできないんだ」
その言葉とともに、ニシキの迷いは霧散した。
ニシキが壊れているのか、コウのほうが壊れているのか、もうそんなことは問題ではない。
いまはただ、神話の序章を紡ぐような高揚に身をゆだねる。
「どうかな。君はアタシと戦ってくれるかな」
「望むところです。『ボク』とは常に『世界一を目指して歌い続けるモノ』ですから」
ニシキとコウはまっすぐに互いの微笑を見つめる。
こうして、二人のアイドルバトルが幕を切った。
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