パンツを脱ぐ前にハンコを押せ

鈴元

パンツを脱ぐ前にハンコを押せ

 性交における最も重要な要素とは何か。

 愛情か、否。

 夜の技術か、否。

 誘いの言葉の巧みさ、否。

 答えは単純、同意を得ることだ。

 人間は言語を獲得し、それによって様々なコミュニケーションが生まれてきたが、いつまで経ってもなくならないのがすれ違いである。

 そんなつもりじゃなかっただの、実はあの時こうだっただの、言い訳と隠し事が後出しジャンケンの如く繰り返される日々である。

 そのすれ違いがもつれがちなのがこと恋愛であり、更に(あえて下品な言い方をするならば)シモのことが関わるとろくなことがない。

 これは性欲代理器官のサイズ感や行為の長さ、そういう体質的性質的な部分の話ではない。

 先程の表現を再び使わせてもらえればそんなつもりじゃなかったのに、だ。

 火遊びの線引きを間違えて痴情がもつれればいいザマであるが、性交そのものをひっくり返されることもある。

 例えば不意のベッド・インがあったとしよう。

 その時は確かにお互いの気持ちのもとシーツの上で泳いだはずだ。

 しかし一日経ちひと月経ち半年経てばどうだろう。

 あの時は酒が入っていただとか、断れない雰囲気だったとかそういう話になることもある。

 それくらいならば個人間の問題であって余人が関与したり口出ししたりすることではないだろう。

 だがここに前後不覚の状態にされた、金銭のやり取りのある相手だったがそういう感情はなく、ともすればあれは春を売らされたのではとなってみろ。

 人間の人生の一つや二つ動かしかねん事件になるぞ。

 睦言はかわせても後から生まれたものはかわせない。

 真偽を判定することは難しく、必ずどちらかが割を食う。

 互いの持つ性の名誉そのものにすら影響しかねない程の議論と罵声をかわされ、ある一つの結論が出た。

 性交意思確認及同意之旨申告書。

 有り体にいえば『抱きます』『抱かれます』を書類に残すわけである。

 世間は食事や酒を共にするのは性交の了承ではない云々という議論に疲れたのだ。

 本人の署名及び捺印と共に電子端末などでの認証、本人確認は十種近くある。

 強制的に事に及ばれそうな時のための特殊な操作。

 ありとあらゆるチェックをこなして初めて人はその身体を重ねるのだ。

 色気はないが確実である。

 しかしこの制度も完璧ではない。

 今からする話は私の身にふりかかったそんな問題の話である。


「はい、じゃあこれ」

 その日、私はホテルにいた。

 一人ではないし、仕事でもない。

 女性と二人である。

 ちょうどいい時間、酒も回って来ている。

 きっかけは些細なことだった。

 酒を飲んでいたら声をかけられた、それだけである。

 普段であれば何らかの勧誘かセールスに繋がるのではないかと疑い、さっさと帰っていただろう。

 しかし鮮やかであったのは彼女の手口で軽い日常会話から私の心をほぐしていった。

 お互いの名前やこの店にはよく来るのかだとか、あるいは趣味の話云々。

 彼女の親しげな雰囲気によって私は清流が如くさらさらと話していた。

 いや、日常会話からだって勧誘やセールスに繋がるのだが、空のグラスが三つを数えたあたりで警戒を続けるのは限界であった。

 彼女は近いのだ、物理的な距離が。

 私が国家であったなら領空侵犯どころか密入国のレベルである。

 軽く触れればそこから熱が伝わり、ほのかに甘いような匂いが漂う。

 恥ずかしい話、私は女性経験というものがない。

 いや、別に恥ずかしくはない。

 誰を伴わずに生きているだけなのだ。

 家庭や恋人を持つことに過度な意味を見出すことは無い。

 それらを持てばマイナスがプラスに転じるということでも無い。

 だがどれだけ興味のないふりをしても、どれだけ諦めたふりをしてもあわよくばという気持ちが浮き沈みする。

 期待してる。

 故郷を離れてやってきたこの田舎の居酒屋で華やかな出会いが生まれたと思った。

 肩に手が回される。

 強ばる。

 私が悪いのか?

 いや、水を求める植物を誰が責められようか。

「なあに、ガチガチじゃない」

「あ、いや……」

 違う、まだ固くなっていない。

「このあと、時間ある?」

「そ、それは……」

「ここちょっと騒がしから……落ち着いたところで話したいなあ?」

 クラクラと甘い匂いに誘われた。

 私はカブトムシだ。

 飢えによって蜜に引き寄せられる悲しい虫なのである。

 そして二人はホテルに入ることとなった。

 ここでの作法は彼女が知っていた。

 恥ずかしいという感情が生まれるよりも早く期待感に胸を躍らせていた。

 今日この日、今日この時。

 特段持っていて得のないこの荷物を下ろす日が来たのだ。

 劇的な経験を夢みていた時もあるが、そんなことはどうでもいい。

 いける時にいけばよろしい。

 そのいける時が未だ。

 行け、イくのだ。

 もうどうにも止まらない。

 シャワーを浴び、今こうして並んで座り、件の書類を目の前にしている。

 実に色気のない一枚だと思っていたが、これこの場においては紙一枚が私の欲情を誘う。

 ここにお互いの名を刻み、ひと通りの事が済めば季節外れの卒業式だ。

 さしずめこの紙は卒業証書ということになる。

 一つ一つの工程がこれから起こることへの期待感を高めてくれる。

 自分でも驚くほどスムーズにこちらの準備は終わった。

 いざという時の集中力には自信がある。

 裏返せば、いざという時ほど小回りが効かない。

 だが私にとってはそんなことはどうでもよかった。

「ふーっ……」

 彼女の番だった。

 先程の酒場で聞いたことだが彼女は綾小路朱鷺子というらしい。

 何とも厳しい名前である。

「まだ一文字目よ?」

「は……はぁ……」

「もうこんなになってる……」

 彼女の手が膝頭から太もも、ももの内側から付け根へと上がっていく。

「ま」

「ま?」

「まだ本気ではありません……!」

 嘘である。

 訳が分からなくなり意味不明なことを口走っていた。

 余力を残すどころか本気も本気である。

 今か今かと待ちわびて椅子から腰を浮かせているのとは訳が違う。

 私の尻は椅子に根が張ったかのようになっているがしかし我が分身は夜の通天閣だ。

 ライトアップこそされていないが気高さだけならダイヤモンド級である。

「ねぇ……我慢できないならいいわよ?」

「そ、そんな……」

 書類は完璧でないといけない。

 あらゆるいざこざを起こらないようにするための道具なのだ。

「私ハンコ忘れちゃってさぁ……明日の朝買って提出することになるんだから、いいでしょ?」

「い、いや……僕は……」

「我慢、出来る? 私は自信ないなぁ……」

 既に彼女の手は付け根どころか我が陸地に上陸されていらっしゃった。

 彼女が手をあてがうだけで血とリンパの流れが段違いだ。

 彼女の手は温熱効果でもあるのだろうか。

 湯たんぽの擬人化かなにかだろうか。

 私は子供の頃ボロボロになっても捨てなかった湯たんぽのことを思い出した。

 鶴や猫が恩返しするかのごとくあの時の湯たんぽが恩を返しに来てくれたのだろうか。

 いや……この場合、私の初体験は湯たんぽということになるのだろうか。

「ねぇ……いいでしょ」

 ええい構うものか。

「いいですとも」

「きゃっ……!」


「で、目的は達したと」

「達せてたらこんな顔していませんよ……」

 翌朝、私は警察のお世話になっていた。

 無機質な部屋で女性の警官と向き合っている。

 やけに椅子が硬い。

 昨晩の私よりも硬かった。

「あぁ、初めてやとうまくいかんって言うもんな」

「ちが……! 違わないですが……」

「……なんや違わんかったら違わんで申し訳ないな」

 なら言わないで欲しい。

 傷つくのは私だけとはいえ傷つきたくは無いのだ。

 髪の毛を一つ結びにした警官は憐れむような視線を向けていた。

 傷つけておいて憐れむな。

「ともかく! お話した通りのことしか起こっていません! これは両者合意の上のことです」

「いや、その合意を示すんがこの書類なんやけどな?」

「……」

 平行線だ。

 まぁ、彼女の言うことが正しいのだが。

 申告書が不完全なら同意の意思と見なされない、というのが現行の制度である。

 ただ理解と納得の位置が少々違うのだ。

「まぁ情状酌量ってやつを考えんくもないんやけどな、こっちは」

「な、なんでですか……?」

 まさかなにか取引を求められるのだろうか。

「ない話でもないんよ、相手煽って書類完成する前にヤラして後から訴えるってな。こんなド田舎では中々ないけどな」

「そんな……」

「ド田舎って……」

 訛りからして彼女がここの人間でないのはわかる。

 しかし、あけすけ過ぎないだろうか。

 部屋には私と彼女のふたりとはいえ、扉の向こうには別の警官も控えているだろうに。

「えっと……萩原さん?」

「荻原な。おぎ。名札見て名前間違えんなや」

 ……紛らわしいからルビでも振っておいて欲しい。

「これに懲りたら気ぃつけや。向こうも分かってやっとるはずやから多少金積めば何とかしてくれるやろけど」

「何とかなりませんか……」

「アンタはアンタでエエ思い……あぁ、してへんか。まぁ、アタシから言えるんは美味い話ってそうそうないんやなってことや」

 かくして私の総資産は減り、代わりに苦い思い出が残った。

 一体何が悪いのか。

 堪え性のなさだろうか。

 なさなのだろうな……


「はぁ……」

 夜、なんとはなしにコンビニにやってきた。

 この苦々しさを紛らわせるには酒に頼らざるおえず、かと言ってあの居酒屋に行くのも気分が悪い。

 しかしここで酒を飲もうと思えばあそこに行く他ない。

 ほかの店は遠すぎるのだ。

 なのでコンビニだ。

 国道沿いに作られたこの店の駐車場は広い。

 乗用車を五・六台は停められるだろう。

「……ん」

 雑誌コーナーからガラス越しに見える駐車場。

 そこにやってくる一台の自転車。

 自転車に乗っている人物に見覚えがある。

 というか、あの警官ではないか。

 私服なので分からなかったが顔を見れば紛れもなく荻原女史だった。

 彼女はヘルメットをしっかりと被っていた。

 近所の中学生みたいだ。

 まぁ、警官もコンビニくらい使うだろう。

 時刻はとっくに九時を過ぎていた。

 この時間には大型のショッピングモールも閉まっている。

 ここくらいしか買い物をする場所はない。

 まぁかと言って、ここで何か反応をするのも本意ではない。

 特に意識をしている訳でもないのだし。

「……」

「お疲れさん」

 なぜ声をかける。

「……にらみなや」

「……にらみたい訳じゃないんですが」

 朝のことを思い出してげんなりしている部分は否定できない。

 彼女は彼女の仕事をしただけなのでそう思うのは私のわがままであるが。

「うなだれとんなぁ」

「うなだれますよそりゃあ」

「純情もてあそばれたもんな」

「純情というか……欲情?」

「いや、そこまであけすけに言わんでええけど。想像つくし」

 つくな、つけるな想像を。

 言葉の選択ミスはあるもののそこに思い当たったのを言うな。

 私の更に気が重くなるのを感じた。

 一度の失敗が私の周りにまとわりついている。

 頭の内側を引っかかれる。

「はぁ……」

 ため息混じりに歩き出すと彼女がついてくる。

「なんで着いてくるんですか」

「店の広さも限度があるがな」

「……」

「ちょい待ち……なんかへこましたんは悪かったって、なぁ」

 放っておいてくれ。

 触れる度に人を傷つける。

 全身が粗めのヤスリでできていらっしゃるのか?

 ハリネズミ以上の攻撃範囲だな。

「なぁて」

 思い切り肩を掴まれた。

 引っ張られた勢いに体がよろめく。

 ぷつりと何かが切れた気がした。

 膨らんでいたものがこの衝撃で弾ける。

「怒んなや」

「怒ってないわ!」

「怒っとるやないかい!」

 心配そうな目をした店員と目が合った。

「……飲みに行くぞ」

「はぁ?」

「酒の席の失敗は酒の席で塗り潰せ。行くで。調書に書いてた店は避けるぞ」

 ずるずると引きずられていく。

 これは誘拐だ。

 拉致だ。

「おら後ろ乗らんか」

「二人乗りはまずいでしょう」

「農家の山田さんこの間焼酎飲みながら軽トラ運転しとったわ」

 そういう問題ではない。

 私の足は既にあるのだし。

「まぁ、愚痴ぐらいは聞いたるわ。アンタもここの人間ちゃうし、ストレス溜まっとるやろ」

「……?」

「訛り出とったでさっき」

 ……まぁ、今日ぐらいは良いだろう。

 女性と二人乗りなど、したこともないし。

 愚痴を聞いてもらうくらい、いいか。


「ほんまアイツムカつくわ。蹴り殺したろか……」

「あの、飲み過ぎでは……?」

「ビール三杯やろが!」

 じゃあ弱すぎでは。

 一杯目あたりからおかしいとは思ったがここまで弱いものなのか。

 というか私が愚痴を聞かされてるのだが。

「くそ、くそ、こんなくそ田舎に流されて毎日毎日セクハラやら意味わからんご当地ルールで割り食わなあかんねん。おかしいやろ……アタシの上司は地方豪族か……」

「……なにかあったんですか?」

「知らん。急に紙ぺら一枚で左遷や」

 まぁ揉め事を起こしそうな性格はしているが。

 本人に自覚がないなら納得はしにくいだろう。

 とはいえ、私の仕事はその真実を明らかにすることではない。

 私が私立探偵でなくて残念でしたね、というところだ。

「はぁ……やってられん。挙句の果てにはアンタみたいな案件が入ってくる」

 ため息をつきたいのはこっちだ。

 結局その話をするなら私にとっては負担でしかない。

 トイレか何かと言って適当に逃げ出そう。

 腰を上げた時だった。

 彼女がドンと強く空になったグラスを机に叩きつけたのは。

「都会のクソが田舎に流れてきてる。それでアンタみたいなんが割りを食う」

「……」

「田舎のクソに都会のクソが合わさってクソの地層が出来よる。それが堪忍ならん」

 彼女が私を見ている。

 座れと言いたげな目だった。

 見透かされているのだろうか。

 いや、そんなはずはないはずだ。

「アタシやってアンタから聞き取りなんかしたないわ。誰が悪いかなんか明らかやろ。あんな紙一枚であーだこーだうっさいんじゃ」

「……そうですね」

「アタシ一人でどうこう出来る問題でもないけどけったくそわるうてかなん」

 腰を下ろした。

 なんだかんだ言って、彼女も苦労していて悪い人ではないんだろう。

 少々口が悪い感じはあるが。

「……見ず知らずの人間やけど、割り食う道理はない。あのボンクラ女にはいつかケジメつけさしたいくらいや」

「僕が欲をかいたのに?」

「関係あるか。他人煽って騙しとんねんぞ」

「……そうですか」

 なんだか、それだけで満足してしまった。

 相手の顔を思い出せば腹も立つし悔しい気持ちもあるが。

 金銭を失ったが名誉を失ったわけではない。

 ならこうしていってもらえるだけで十分ではないか。

「……アンタも飲みや」

「荻原さんが控えるなら」

「それはどうかな……」


 また、あの部屋だった。

 ただ隣にいるのは荻原さんだった。

「あの……まだですか……?」

「ちょい待ち、このペンインクがな……焦んなよ」

「いえ、その……」

「……まぁ待たせてんのはアタシやしな。触るくらいやったらええよ」

「本当ですか」

「目ぇ座ってるで」

 彼女の後ろに座り、体に手を伸ばす。

 ゆっくりと腰に触れて昇っていく。

「もうちょいリラックスしてくれへん?」

「そうはいっても……」

「……はい終わり。後出すだけや」

 彼女が私にもたれかかる。

 かなりしっかりと体重をかけられたのを踏ん張ってこらえると彼女が反転して向き合った。

「じゃ、優しゅう教えたるわ」

「お、お手柔らかに……」

 夜が更ける。

 そう、更けていく。


「で、なんでまたここにいるんですか?」

 デジャブである。

 ホテルの一室まで記憶の塗り替えは完了したのになぜこの部屋での記録すら更新していくのか。

「書類の不備」

「書類の不備?」

「ここ」

 机の上に置かれた書類。

 彼女が指さしたのは名前の欄だ。

 そこに書かれているのは『萩原芙美』の文字。

 ……萩原?

「ペンのインク出んでパパっと書いたら名前間違うてた」

 そういって荻原芙美が笑う。

 私はそれを見て困ったように笑った。

「……名前間違えんなや」

 以上が、この書類に関する私の顛末である。

 やはりこんなものは手間だ。

 もっとうまくやれば言葉と行動で伝わるものもあるだろう。

 それくらいの責任は取れる。

 そう、思った。


「だよね、芙美」

「はいはい」

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