エピローグ

 秋のはじまりを知らせるような、少し肌寒い風が病室のカーテンを揺らす。

 ベッドには未だ目を覚まさない男の子。

「コウくん、もうすぐ秋になるよ。金木犀の匂いが風に乗ってここまで来るの。目が覚めたら、またあの場所に行こうね」

 私、朝倉ももの呟きが病室に静かに響き渡る。

 そんな時、ドアが開いて女性が入ってきた。

「ひかりおばさん、こんにちは」

「ももちゃん、こんにちは。毎日ありがとうね」

「私が来たくて来てるんですから、お礼なんて…」

 ひかりさんはふわっと微笑み、息子であるコウくんこと、月影煌牙の頭を撫でた。

「もうすぐあなたの大好きな秋になるわよ。ももちゃんだって毎日会いに来てくれて、早く起きたくて仕方ないでしょう?お母さんも待ってるから、好きな時に起きてね」

 ひかりさんはコウくんの頭から手を離し、花瓶の花を取り替えてくると言って病室を出た。

「コウくんの好きな季節か。起きたらなんで秋が好きなのか聞きたいな」

 コウくんが起きてからの楽しみがひとつ増えて、私は笑みをこぼし、コウくんの手をとる。

 昔はこんなふうによく手を繋いで歩いていた。

 いつも私がコウくんを引っ張り、彼は後ろを着いてくる感じで。

「懐かしいな」

 私は昔に思いを馳せるように、静かに目を閉じ、舞い込む風と金木犀の香りを味わった。

「!」

(いま、手が動いた?)

 微かだが手にかかる圧力を感じた。

 慌ててコウくんを見る。

「ん、もも?」

「こ、うく、ん?」

(目が、覚めた?)

「コウくん、コウくん!」

 私は嬉しさのあまり、コウくんに抱きついていた。

「うわ!いきなりどうした?俺、まだ起きたばっかで体が上手く動かないのに」

 そんなことはお構いなしに、コウくんを抱きしめる腕に力を込める。

 やっと声が聞けた、目を見れた。

 コウくんを感じられた。

 その嬉しさは、何ものにも変えがたいものだ。

「もも、抱きついてくれるのも嬉しいけど、ちゃんと顔見せて」

 コウくんがそう言って私の頬に手をあてて上を向かせる。

 まっすぐにコウくんの目と合わさって、思わず泣いてしまった。

「コウくんだ。ちゃんとコウくんだ。おかえり、おかえり!!」

 私は涙を止めることができないが、彼との約束を守るために、懸命に笑顔を作った。

 コウくんが眠る前、私は笑顔でコウくんと会うと約束をした。

 久しぶりなのに、私が泣いていてはいけない。

 ちゃんと笑顔で迎えないと。

 それなのに涙は次から次へと溢れ出し、止まる気配を見せない。

 きっと私の顔は酷いものだろう。

 それなのにコウくんは、とても嬉しそうに笑っている。

「ただいま、もも」

 コウくんの声が耳に残る。

 心に染み渡っていく。

 ああ、ちゃんと起きてくれて良かった。

 本当に心からそう思う。

「もも、伝えたいことがあるんだ」

「伝えたいこと?」

 起きてそうそう私に言いたいこととはなんだろう。

 全く検討がつかない。

 不思議そうにしているであろう私を見て、コウくんは目を細めて優しい笑顔をでこう告げた。

「俺、ももが好きなんだ。俺と付き合ってほしい」

「え?」

 なんとも間抜けな声が出てしまった。

 コウくんがそんなふうに私を見ていたことに驚いたこともあるが、あまりにも突然過ぎて処理が追いつかない。

「だめ?」

 そんな可愛く聞かないで。

 頭がパンクしてしまう。

 ダメなわけないのに、それをわかった上でコウくんは聞いてきている。

「いじわる」

「ん?」

 とても楽しそうに笑って、どうなのと聞いてくる。

「だめ、なわけない。むしろ私からお願いしたいくらい」

 きっと私は今、顔がリンゴみたいに赤くなっているだろう。

 恥ずかしさから顔を背けてしまったが、それもコウくんの手に遮られてしまった。

「ありがとう」

 とても嬉しそうに、愛おしそうに見つめられ、柔らかいもので唇を塞がれた。

「!」

 初めてのキスは甘く、とろけるような感じがした。

 ひかりさんが戻ってくるまでの短い時間は、私とコウくんだけの秘密であり、窓から入り込む光と風と、金木犀の香りが隠してくれたのだった。

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帰る場所は 星海ちあき @suono_di_stella

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