春風

陽西 空

第1話

 園崎美和ちゃんはとてもいい子でした。

 幼稚園ではいつも元気いっぱいに友達と遊んだり、疲れたら思う存分お昼寝を楽しんでいました。そうして、すくすくと育っていく美和ちゃんを見ていると、私も頑張って幼稚園教諭になって良かったなーと心から思えました。けれど、どうしてこうなってしまったのでしょうか。何か、美和ちゃんが神様に悪戯でもしてしまったのでしょうか。

 もし、そうだとしたら私も一緒に謝ります。だからどうか、美和ちゃんをこれ以上苦しめないであげてください。

 美和ちゃんに最初の不幸が訪れたのは夏の日のことでした。いつも通り、幼稚園の門で園児たちを迎えていると、美和ちゃんが子供乗せ自転車の後ろに座って幼稚園にやってきました。

 私はその時、少し違和感を覚えました。なぜなら自転車を漕いでいるのが美和ちゃんのお母さんではなく、お父さんだったからです。

 いつもはお母さんと楽しげに自転車で話している美和ちゃんは、俯いて、とてもとても静かでした。

「おはよう美和ちゃん。今日はお父さんと一緒なんだね」

「………」

 私が挨拶をしても、美和ちゃんは私には目もくれずに、足早に教室へ去っていきました。毎回、美和ちゃんは朝一番でも大きな声で挨拶を返してくれていたので、挨拶を無視されたとき私はとても驚きました。

 突然、変わってしまった美和ちゃんの態度に私が目を丸くしていると、美和ちゃんのお父さんが申し訳なさそうに顔の前に手を合わせて、近づいてきました。

「すいません。美和ずっと昨日からあの調子で」

「いえ、大丈夫ですよ。それより何かあったのですか。いつもと違ってお父様が送迎されてますけど」

「………妻が死んだんです。昨日、交通事故で」

「えっ!?あの溌剌とした奥様が、本当に?」

「嘘だったら良かったんですけどね」

美和ちゃんのお父さんの顔には、大きくて、真っ黒なくまができていて、まるで美和ちゃんのお父さんにぽっかりと空いてしまった心の穴に見えました。

 そんな美和ちゃんのお父さんを励まそうと、頭の中でいくらか言葉を組み立てましたが、どれも園児の作る積み木の塔みたいにすぐに崩れていくだけでした。

「美和のことお願いしてもいいですか」

「もちろんです。全力で美和ちゃんの支えとなってみせます」

私の口はいつのまにか動いていて無責任な言葉を発していました。誰かの支えになるだなんて、約束できるわけないのにと思いながらも、そんな気持ちでは幼稚園教諭失格だと思い、この言葉を本物にしようと決意しました。

「はは、頼もしいなぁ。では、私はこれで」

「お父様もどうかお元気に!」

「はい、ありがとうございます」

 幼稚園での美和ちゃんの様子はまるっきり変わっていました。いつも一緒にいる友達から、遊びに行こうと誘われても無言や無視を貫き、お弁当(コンビニ弁当)を一人部屋の隅でみんなと離れて食べ、あとはひたすら、体操座りをして太腿に顔をうずめているだけでした。

 美和ちゃんの変わりように園児たちは困惑していました。「ねぇ、美和ちゃんどうしちゃったの?」「ゆな先生、なんとかしてよ」「美和ちゃんに無視されたよ、ゆな先生」「ねぇ!ゆな先生!」。園児からそんな風に言われても、私はただ美和ちゃんの悲しげな姿を見つめることしかできませんでした。

 食後のお昼寝の時間。

私はずっと体操座りのまま顔を隠している美和ちゃんに話しかけてみました。ずっと顔を隠していた美和ちゃんでしたが、私が肩をつつくとびっくりして顔を上げてくれました。

 目線が合ったので、さすがに私を無視しようとはしてきませんでした。

「ねぇそろそろお昼寝の時間だから、良かったらみんなと一緒に美和ちゃんも寝ない?」

「やだ。眠くないもん」

「でも、ずっと座ってるのも疲れない?」

「疲れない」

「そっかー」

 親を小さい頃に亡くした子は、いったいどんな絶望感に苛まれるのでしょうか。まだ、心も体も自立出来ていない美和ちゃんは、いったいこれからどうなってしまうのでしょうか。

 想像できません。安易に、失礼な共感もできません。

 それでも美和ちゃんの腫れぼったい泣あとが残る顔を見ると、私は頑張らないわけにはいきません。

「何があったのか、先生に話してくれないかな?何でも聞くよ?」

「やだ。話したくないもん」

 私にうんざりしたように、美和ちゃんはまた膝で顔を隠してしまいました。

 やはり、私みたいな他人には、美和ちゃんは心を開いてくれないようです。力になりたい、でもなれない。私はなぜここにいるのか分からなくなりました。脳みそがあるくせにぼーっと突立ったているだけしかし出来ないんじゃ、かかしの方がまだ役に立ちます。私はとんだ役立たず。無能の極みです。

 人が弱ってあるときに、何もしてあげられない。真性の無能。

 数分間、何もできずに美和ちゃんを近くで見つめ続けていると、美和ちゃんの膝には白い布がかかっていることに気づきました。

「美和ちゃん、この布って何かな?」

「触んないで!」

私がそれに触れようとした瞬間、美和ちゃんは目を見開いて、爪で私の腕を引っ掻きました。

「痛い!どうしたの美和ちゃん」

「あ、あぁ。ご、ごめんなさい。先生。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。こんな美和でごめんなさい」

 美和ちゃんの目はハイライトを失い、誰に謝っているのかもわからないほど、機械的に謝罪の言葉を述べ始めました。

「美和ちゃん!大丈夫だよ、先生怒ってないから」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、………神様ごめんなさい」

 きっと美和ちゃんは、自分が悪い子にしていたから、神様がお母さんを取り上げてしまったのだろうと幼い頭で考えたのでしょう。美和ちゃんは自分の母親が消えてしまったことを当たり前に受け入れられていませんでした。

「美和ちゃん!」

私は、出来る限りの力で美和ちゃんを抱きしめました。この理不尽な社会という神様から、美和ちゃんがもう何も取られないように祈りながら私は美和ちゃんを包み込みました。

 その後。泣き疲れたのか美和ちゃんはそのまま、私の腕の中で寝てしまいました。美和ちゃんの寝顔はたとえ、涙と鼻水と汗で埋め尽くされていても、かわいいと思いました。

 美和ちゃんが寝ているので私は美和ちゃんの小さな手でしっかりと握られている、白い布をよく観察してみました。

「やっぱり」

 それは去年の冬に美和ちゃんのお母さんが首に巻いていたマフラーでした。カシミアで編まれたそのマフラーはとても夏には合わなそうでした。だけど今の美和ちゃんをより温められるのは真夏の太陽ではなく、このマフラーのようです。

 思いっきり泣いたのが良かったのでしょうか、翌日から美和ちゃんは少しずつ昨日までの明るさを取り戻していきました。

 最初はみんなと同じ机で弁当を食べれるようになりました。

 次にみんなと挨拶やお喋り出来るようになりました。

 そして最後には前と同じように、みんなと遊ぶようになりました。

 私はそんな姿を見ていると、とても悲しくなりました。なぜなら、こんなに明るく振る舞っている美和ちゃんですが、唯一あの白いマフラーだけは常に首に巻いていたからです。

「美和ちゃん、そのマフラー暑くない?」

私がこう聞くと。

「ぜんぜん、暑くないよ!むしろ涼しいぐらい!」

と、汗で髪をベチョベチョにしながら答えてくるのでした。

 こんな真夏にマフラーをかけているものですから、美和ちゃんは地獄のような灼熱を味わっているはずなのに美和ちゃんは暑いと一言も言わないのです。

 そして、それを行動でも示すためか水も飲まないのです。

「美和ちゃん、暑くなくても水は飲んだ方がいいよ?熱中症なっちゃうから」

「だから、先生。私は暑くないの!ちょークール人間だから」

 そんな美和ちゃんの行動を見逃していた私が悪いのでしょう。美和ちゃんはある日熱中症になって倒れてしまいました。

 すぐに、救急車を呼び出したのでなんとか大事には至りませんでした。しかし、私は病室の中で怯えていました。あれだけ、美和ちゃんの支えになると大見得を切ったのに私のせいでこんな事態を引き起こしてしまったからです。

「美和!」

病室の扉を勢いよく開ける音と共に、美和ちゃんのお父さんが入室してきました。

 美和ちゃんのお父さんもとても汗だくで、今にも倒れてしまいそうな雰囲気がしました。

「美和!どうしてお前は水を飲まなかったんだ!しかもこんな夏にマフラーなんて馬鹿じゃないか!どれだけ心配したと思ってる」

「だって」

「言い訳をするな!いつまでグダグダしているつもりなんだ」

「だってぉがあさんの匂いが……-」

「寂しいなら、お父さんを頼れ!お母さんはもういないんだぞ!」

私には美和ちゃんが不憫に憶えて仕方ありませんでした。そして自分のことを棚に上げて、美和ちゃんのお父さんに怒ってしまいました。

「違うんです!これは私が美和ちゃんに水を飲まされなかった私が悪いんです」

「先生は別にいいです。元から他人に期待なんてしていないんで。これは親子の問題なんですよ、申し訳ないですけど一旦、退出してもらっていいですか」

「嫌です!」

怖い目をしてきた美和ちゃんのお父さんを私は負けず、睨み返しました。白いベットの上に横たわる美和ちゃんは泣いていました。

「出て行けって言ってんだろ!」

「出ていきません!私だって美和ちゃんをずっと見てきたんです!」

男の人の大声は迫力があってとても怖かったです。だけど、私は動くつもりはありませんでした。美和ちゃんの為にも、約束のためにも。

「お前に美和の何が分かるんだ?親でもないくせに」

「分かりません!でも親じゃなくても、私は美和ちゃんの気持ちに歩み寄ろうとしています!あなたみたいに自分の考えを押し付けるのではなくて!」

たとえ血が繋がっているからといって、心も繋がるほど人間は単純ではありません。心は歩み寄りから繋がるものだと私は今も昔も信じています。

「ふざけんなよ!保育士風情が!」

幼稚園教諭です!とは言わずに私は、病室を出ました。

 ここから、怒りで口調が荒くなりますがご了承下さい。

 なんだあの男は。美和ちゃんの気持ちなんて考えずに、自分の意見だけを押し付けて、それでもあの子の親なのか。

 久しぶりに頭にきた私は足音を鳴らして歩きすぎたせいで、足が痺れました。痛い。けど美和ちゃんの方がもっと辛くて痛いに決まってます!

 私は病院の玄関を力任せに開けて、頭の中のむしゃくしゃした気持ちをぶっ飛ばすために全力で走り出しました。

「あー!何だ、親だからって!ぁあああ!」

 無情すぎる腐ったこの街を私はぶち壊すように走りました。空はどんよりとした雲が無関心そうにこの街を見下ろしていました。

 くそ、風になれ私。風になれ!とにかく風にならないといけないんだ。私は風になって美和ちゃんをあの親父から奪い去るんだ。そして、空は連れて行って美和ちゃんのお母さんに会わせてあげるんだ!

 頭の中の空想は猛々しく広がっているけれど、現実の私は汗まみれになって、体力も擦り切れて、膝に手を当てているだけでした。

「どうしようもないじゃないの!」

 叫んでみてもなにも変わりません。こんなものは自己満足だと自分でも分かっています。でも叫ばずにはいられませんでした。

 唐突に風が吹きました。

 その風は、何故かとてもいい感触がしました。その風はとても暖かくて、優しい味がしました。それは昨日感じた匂いがしました。

「この匂いは」

私の目の前に突然屋台が現れました。その屋台を囲む花束たちは赤、黄色、水色、他もどれも爽やかな色をしていてこのむさ苦しい街には似合いませんでした。

「あの、すみません。ここは何を売っているんですか」

私はなぜかその怪しい屋台に誘われていました。誘われるというより運命によって、磁石のように引き寄せられている感じがしました。

「ここは、洗濯洗剤を売っているんです。しかもたった一種類」

そう言って屋台に立っていたのは緑のエプロンを身に纏った女の人でした。とても綺麗な雪原のような肌と太陽に反射する氷のような声をしていました。

「そんなの、売れるんですか」

「いいえ。まだ一本も売れていません。まだ店を出してから数秒しか経っていないですから。でもこれいい匂いの洗剤なんですよ」

「じゃあその花束は開店祝いに?」

屋台は花束に埋もれているといっていいほど、花束だらけでした。

「ああ、これはちょっと別の意味で貰ったものですけど。そうやって考えると素敵ですね」

私はそう笑う彼女の、名前を消して聞いてはいけないと思いました。呼んでしまった瞬間、風になって消えてしまう気がしたからです。

「あの、もう少しだけ店を開いていて欲しいんですけど。あなたに会わせたい人たちがいまして。すぐ近くの病院にいるんです」

「………それは出来ません」

「どうしてですか」

私は今すぐにでもあの二人をここに連れて行きたかったです。そうして、彼女に会えば何もかもが上手くいくと思いました。

「そういう決まりなんです。たとえ会ったとしてもお父さんたちには見えませんよ私の姿は。あとあの人たちに会ったらわたし、空に帰りたくなくなって幽霊になってしまうかもしれません」

私はこれほど、どうしようもなく切ない声色を聞いたことがありませんでした。だから子供みたいに拗ねた声色でこんなことを言ってみました。

「………そんないいじゃないですか。幽霊でも」

「ダメですよ。美和は何よりもおばけが苦手なんです。前、お化け屋敷に入ったときなんてあの子、泣いて泣いて、結局私がずぅと抱えたまま回ることになって、あとあの子ジェットコースターに乗った時も………っと危ない、話しすぎるところでした。それより、この洗剤買ってくれませんか?今なら首に巻けるストール付きですよ」

洗剤にストール。ぴったりの組み合わせだと思いました。私は彼女の目から溢れでるダイヤモンドに気付かないふりをして、財布を取り出しました。

「ください、全部買わせてください」

「お買い上げありがとうございます。でも、これは現品限りなので、では商品を先にお渡ししますね」

「ありがとうございます」

 そして私が彼女からストールと洗剤を受け取ると、その屋台ごと彼女は消えていました。

 翌日。

 幼稚園の門で、美和ちゃんを出迎えました。美和ちゃんの表情はとても暗く、お父さんから逃げるように幼稚園に入ろうとしました。そんな美和ちゃんを私は右手で掴んで引き止めました。

「どうしたの先生?」

今日の美和ちゃんは、マフラーを巻いておらず、首が寂しいようでずっと手で首を押さえていました。たぶん、お父さんが取り上げたんだと思います。まぁ、今のなってはどうでもいいことです。

 今はマフラーよりも美和ちゃんに似合うものがあるんですから。

「美和ちゃんにプレゼントがあるんだけど」


 卒園式の日。

「ねぇ先生!一緒に写真撮ってよ」

可愛くおめかしした美和ちゃんが手招きしてきます。赤、黄色、水色と様々な色を使ったはかまはよく似合っています。

「すいません。美和が勝手に」

あの時よりもずっと元気になってくまも消えた美和ちゃんのお父さん。

「いえいえ。私も美和ちゃんと撮りたいと思ってましたから」

「じゃ!いくよ」

 自撮り棒を空に突き刺した美和ちゃんが叫びます。

「せーの!ハイ!」

「チーズ!」


その写真には美和と美和の父親とゆな先生と、もう一人分、薄い影が写りこんでしまったらしい。

 


 


 


 

 

 



 

 

 




 

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春風 陽西 空 @yamada23571113

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