音の抜けた鍵盤

宇佐美真里

音の抜けた鍵盤

ガラスの割れ、枠だけになった窓が風に吹かれてゆらゆらと揺れている。近くに寄れば、揺れながらそれは木の軋む音を立てているに違いないが、しゃがみ込む僕の処まで届いては来ない。幾つかある窓は全てが風通しよく、ガラスを窓際に落としていた。


しゃがみ込んだ周りには、かつて誰かが飲み捨てて行った空き缶が幾つも転がり、木片や紙屑が共に散らばっている。他にも、水溜まりが床の所々に出来ていた。そいつ等は、壊れて役に立たなくなった窓から侵入を許した…雨のせいばかりでもなさそうだ。どうやらその元は天井から漏れて来ているらしい。何処か遠くでもピチャリピチャリと水の垂れる音を立て、他にも水溜まりの存在を知らせていた。


窓同様に、蝶番が馬鹿になり役に立たなくなった扉の脇には、アップライトピアノがその蓋を開け、まるで笑ってでもいるかのように、鍵盤をニッとさせながら佇んでいた。僕は立ち上がりピアノまで寄ってみる。ひっくり返ったままになっている椅子を正しい姿に戻して座り、ひとつふたつと鍵盤を押してみた。


「悪くないね…」


ポーン、ポーンと鳴る音は、見た目の酷さから想像していた程には、調律が狂っていなかった。がらんとした薄暗い廃ビルのフロアにピアノの音が響く。

並んでいる鍵盤の中音域をひとつずつ押していく。C、D…。Dの鍵盤は沈黙したままだった。どうやら壊れているようだ。E、F、GAB…と順に押していく。更に高音のC、D…。オクターブ上のDはきちんと声を喚げた。続いて黒鍵を左から右に…低音から順に押してみる。全てオーケーだと黒鍵は答えてくれた。コードを押さえてワンフレーズ弾いてみる。Gm7、Em7…。おっと…低いDは音が出ないんだったな…と、もう一度高いDを加えてコードを弾き直す。更にF7、D7…。同じコード進行をただただ繰り返して弾いてみた。


    Gm7/Em7/F7/D7

    Gm7/Em7/F7/D7…


「やぁ。音に誘われてやって来たよ」

鍵盤から顔を上げ、僕は声のした扉の方に首を遣った。其処にはアライグマが立っていた。

「やぁ。君も弾くかい?」

僕はアライグマのために椅子から立ち上がろうとした。

「いや、結構。僕はピアノは弾かないんだ。専門はギターでね」

「そうかい。残念ながらギターは転がってなさそうだ」

「そのようだね…。続けておくれよ…」

アライグマが促した。


僕はもう一度椅子に座り直し、同じコード進行を今度は一音一音アルペジオにして弾いてみる。

ゆっくりと何度か繰り返すと、アライグマは言った。

「申し訳ないけれど、あまり明るい感じではないね…」

「だね…。そんな気分なんだ…」

「悪くはないさ」

そう言うとアライグマは、僕に向かって右手の親指を立て、笑って見せた。


「そんな気分か…。悩み事かい?」

アライグマはピアノの傍らに「よっこらしょ…」としゃがみ込みながら訊ねた。

「どうだろう。もうずっと抱えて来たことだからな…悩みというのも違う」

腕を組んで見上げる足元のアライグマを見下ろしながら僕は言った。

「君にとって僕は現実かい?」

「面白いことを訊くね?現実だと…思うけどね。違うのかい?」


「僕の中には…。僕の中にはもう一人、僕が居る。そう、それは僕の片割れさ。まぁ、正確に言えば、それは僕ではなく妹だ。生まれてすぐに居なくなった双子の妹…」

「それは夢に見るってことなのかい?」

「夢なのか現実なのか…。それを僕が"夢"だと言い切れるのかってことさ。彼女は必ず現れるんだ。眠った僕は彼女の"夢"を見る。僕は彼女になっている。そして夢の中で彼女になった僕は、眠るとやはり必ず僕の"夢"を見る。彼女が今度は僕になっているんだ。その繰り返しさ」

「入れ替わるってわけか…」

「入れ替わりなんだろうか…。分からない。僕は彼女になった夢を見て、彼女は僕になった夢を見る。そうして居るうちに、今僕は何処に居るのかが曖昧になっていく。僕の夢の中の彼女の夢の中の僕…」

僕は壊れて音のしないDの鍵盤をゆっくりと押し込んだ。当然音は鳴らない。

「………」

アライグマは相変わらず腕を組んだまま目を閉じ、何かを考えている。

その何かを邪魔しないように僕も沈黙を続けた。



その時、部屋の外で音がした。階段を誰かが上がって来る。僕らは沈黙を守り、首を竦めて気持ちだけ小さくなる。どこに隠れられるわけでもない。やがて、階段を薄汚いホームレスの男が上がって来るのが見えた。


アライグマの入ってきた、壊れかけの扉からホームレスが入って来る。

「おや、まぁ!一体どうしたっていうんだ!」

髭だらけな上に、汚いニット帽を被ったその顔の中にギョロギョロとした目だけが光っていた。

「アライグマにキツネとはっ?!しかもキツネはピアノを弾くのかい?」

ピアノの前に座っている僕に向かって言っている。

そう、キツネとは僕のことだ。


「お邪魔してるよ」

アライグマは何事もない様子でホームレスに話し掛けた。

「あぁ…。構わないさ。好きにしてくれればいい。散らかってるけどな」

僕等の姿に一瞬だけたじろいたようだったが、それでもアライグマに返事を返すと、何事もなかったかのように僕等の傍に腰を下ろした。持っていた紙袋は脇に置く。ガシャ…と金属の音がした。どうやら床に転がっていた空き缶の元の持ち主は彼のようだった。


「これは夢なのか現実か?どうなんだい?おいらは夢を見てるのかい?」

アライグマと僕を交互に一度ずつ見ながら、ホームレスが言った。

「君と同じことを言ってるよ。ははははは…」

アライグマが僕を指差して笑う。

直後、何かを閃いたかのように彼は、少しだけ顎を上げ得意げな表情で言った。


「夢か現実か…そんなものは曖昧でいいのさ」

アライグマは語り始めた。


「夢なのはどちらか?こちら側か?あちら側か?君なのか彼女なのか?

何処が現実か?君の夢の中の彼女の夢の中の君…。夢の中の夢の中の夢。


夢を見ている時は、自分は"自分"であるけれど、勿論現実の自分とは違う。


とにかく夢の間は"自分"という存在は当然"現実"でも眠っているし、"あちら側の夢"…に存在する"別人"が目覚めている場合は、その"別人"にとって、"こちら側の現実"の自分が"夢"なのだから、"夢"でも"現(うつつ)"でも…、どちら側でも『自分』と云う存在は"眠っている"って訳さ。


    常に眠っているんだ。どちらも"夢"でいいのさ。


どちらかに決めようなどとするから難しくなる。



  Aが眠る(BはAの見る夢)→Bが覚醒(AはBにとって夢)↓

  ↑Aが覚醒(BはAにとって夢)←Bが眠る(AはBの見る夢)



現実だと思うからはっきりさせたくなるんだ。そもそもが夢だと割り切れば曖昧でいい」


「何だかさっぱり分からねぇな。酔っぱらってでもいるのか…アライグマのにいちゃんは?」」

目を白黒とさせながらホームレスは、アライグマを指差しながら僕を見て言った。

アライグマはまったく気にしていない。

「シンプルに行こう!」

彼は立ち上がった。


「何もかもシンプルに。先ずは"7th"を外して、基本のトライアドコードにしてみよう。さぁ!」

どうやら先ほど僕が弾いたフレーズのことを言っているらしい。

促されるままに僕は、弾いていたコードをシンプルにしてみる…。


    Gm/Em/F/D

    Gm/Em/F/D…


「まだ悩んでる感じだ。シンプルだ!シンプルに行こう!"マイナー"も要らないんじゃないか?」


    G/E/F/D

    G/E/F/D…


「いいじゃないか。シンプルだ。明るくなった」

アライグマは何度も頷いた。満足そうだ。


傍らの紙袋から酒の缶を取り出すとホームレスは、プシュッと封を開けグビグビと呑んでから言った。

「さっぱり分からんのは変わらんが、何だか明るい感じなのは分かる…」

ニット帽と髭の隙間で目を細くして笑う。

「難しく考え込むなってことだな?感じればいい。気分はいいぞ!お前らも呑むかい?」

かなりご機嫌な様子でホームレスは紙袋から再び酒缶を掴むと、アライグマと僕のそれぞれに放ってよこした。


「いいのかい?」

アライグマが訊いた。

「いいさ、いいさ!何だか愉快な気分だ」

髭の隙間からニカッと不揃いな歯を見せて笑いながら、ホームレスは何度も頷いた。

彼に倣い、アライグマと僕もプシュッと缶を開け一気に喉へと酒を流し込んだ。



-了-

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